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 その、あの子、というのが。

 寺島くんの中では、私、ということになっているらしい。

 率直な感想を言えば、誰だその美化されまくった聖人みたいな女の子は、という身も蓋もないものになる。だって寺島くんが語るその子の話は、あまりにも私とはかけ離れすぎていて、それが私のことだと言われても素直に納得するのは難しかった。

 だけどそれがとても私とは思えなくても、高田ゆりというのは間違いなく私の名前で、散見するエピソードのいくつかに心当たりはあった。

 中学の時、金髪の男の子にココアを渡したこととか、友達に悪口を言われていたこととか。あくまで要素が一致しただけで、その内情は寺島くんの言ったような神様めいたものでは、けしてなかったけれど。


 あのココアは確かに当たったのではなく、自分で買った記憶がある。でもそれは寺島くんのいうような大層な優しさなんてものじゃない。

 だってあの日はすごく寒くて、それなのにコートもマフラーもつけずに公園のベンチに座る金髪の男の子は、周りからすごく浮いていて、私以外にも気にしている人は何人もいた。ついついココアを買って差し入れようなんて気になったのは、たまたま直前に読んだ本の内容に影響されただけ。その話の主人公はそれこそ、寺島くんが語ったような本当に心優しい女の子で、その子の優しさがやがて何倍にもなってその子に返ってくる話だったのだ。私はすっかりその主人公に影響されてなりきっていただけで、あわよくばいつかそれが私に返ってくるといいなと期待してた。優しさとは程遠い、下心満載の自己満足だった。

 そりゃあ緊張したしびくびくもしてたけれど、渡し終わったあとは達成感でいっぱいで、物語の主人公になれた気がしてはしゃいでいた。俯いた男の子を気遣う事もせず、その子を都合よく利用して自分を満足させただけ。優しさとは対極に存在したものでしかなかった。

 それにもし私が動かなくったって、私以外にも寺島くんのことをちらりちらりと気にしていたおじいさんやおばさんのうちの誰かが、私とは違う本当の優しさを寺島くんに渡してたかもしれない。下心のない心底からの労りで、寺島くんを柔らかく包んでくれたかもしれない。

 そう思えば私のしたことなんてむしろ、自己満足で寺島くんから貴重な機会を奪っただけとも言える。


 よく一緒にいた友達に陰口を叩かれたこともあった。けれどそれだって、ある意味ではお互い様のこと。

 私は彼女がそうしてる事を認識して、気づかないふりで逃げて向き合おうとはしなかった。大きな波風が立つことなく、無難に平穏に毎日が過ぎてゆけばそれでよくって、誰に対してもいい顔をして回っていた。八方美人のいい子ぶりっこ、と陰で囁かれていたその言葉は、まさしく私の本質をずばりと突いたものだと思ったから反論する気も起きなかった。

 寺島くんは私が優しいと言ったけれど、残念ながらそれは違う。私は自分の事が大事で、毎日を快適に過ごすために動いてただけ。

 一部の女子たちから微妙に敬遠されていた子のフォローに回ったのも、万が一いじめになんて発展したらクラスの空気が悪くなって居心地が悪くなりそうだったから。表面上のものでしかなくっても、ぎすぎすした空気身を縮めているより、みんな笑ってくれてた方が気が楽だったから。悪意をまともに受け止めて傷つく誰かを見るのは、けして気持ちのいいものじゃなかったから、矛先を微妙にそらして有耶無耶にして回っただけ。誰のためでもない、私が見たくなかっただけ。

 全部全部私の都合で、その傷ついた子のことなんてちっとも考えてなかった。自分の気持ちを優先して、少しずつ周りに無理を強いていただけ。

 だから友達は私の事を鬱陶しく思って、もしかしたら私の八方美人な態度に腹を立てて傷ついて、陰口で鬱憤を晴らすしかなかったのだろうし、彼女にそうさせる原因を作ったのは私だ。

 敬遠されて傷ついた子が彼女たちの事を許せないと呟いた時には、都合のいい言葉で宥めて気を紛らわせて、直接彼女たちと衝突してきっぱりと気を晴らす機会を奪い続けたのも私。もしかして衝突の末、和解して仲良くなれたかもしれない機会を潰したのも私。

 誰にでもいい顔をして適当な嘘で言いくるめて、嫌だなと思う空気があったらやんわりと上っ面の正論を翳してそれを潰し、遠まわしに口を挟んで嫌なものを遠ざけたのも、全部、全部。所詮は自分のためでしかなかった。

 それは優しさとは程遠い、自己満足。私が優しかったのは、私自身にだけ。

 たまに疲れる事はあったし、ぐさりと胸に刺さる言葉がなかったとは言わないけれど、それは全部私がしてきたことがもたらしたもので仕方ないことだと割り切っていた。割り切っていたから動揺したって、傷ついてなんていなかった。何もかも自分のためにしていた私が、傷つく道理がなかった。


 だから寺島くんはもう、私の幻想から解放されていい。

 寺島くんの好きだった優しい優しい女の子は、どこにも存在してなかったのだから。

 ただ外面がいいだけの、身勝手で自己中心的な女でしかなかったのだから。

 もしもそんな私が優しく見えたのなら、それはきっと寺島くんこそが優しい人だったのだ。

 私という鏡に、寺島くんの優しさが映っていただけ。

 たまたまその鏡が私だっただけ。

 寺島くんを救ったのは、私でも他の誰でもなく寺島くん自身の優しさだ。


 ほうらやっぱり。寺島くんは罪悪感を抱く必要なんてこれっぽっちもなくて、私の現状に責任を感じなくっていい。

 優しいと言われたその下で、私が何を考えていたのか全部伝えて、改めて寺島くんのせいじゃないよって言った。私が全然優しくなかった事を知ればさすがに寺島くんだって、私に拘ることに疑問を覚えてくれるかもしれない。今度こそ抱えた罪悪感を、多少なりとも手放してくれるかもしれない。私のことをやっと、見放してくれるかもしれない。

 そんな期待をして、私は自分がどれほど自己中心的で我が身が可愛いだけの人間か話した。図太くてふてぶてしくて、寺島くんの言うように些細な悪口に傷つくような可愛さなんて持ってないのだと説明した。

 花街から抜け出す機会は、寺島くんが来る以前にも何度もあったのに、それを蹴ってあそこに居続けることを選んだのは、私。割り切って開き直ってからは、現状をそれほど悪いものだとも思っていなかった。全て包み隠さず告げた。

 以前に何度も話したものに、寺島くんの話を引用して具体例と共に否定して、私は本当に寺島くんの思うような人間じゃないのだと話した。

 そうやって話すこと自体が、私の都合でしかなかった。

 ほうらやっぱり。私はちっとも優しくなんてない。

 前に話してた時はいつも、どんどん寺島くんの表情が苦しそうに歪んでいったから、途中で話を切り上げてしまっていたけれど、この時の寺島くんは落ち着いた様子でじっと耳を傾けてくれていたから、もしかしてと期待してますます熱を込めて語った。


 けれど私の言葉をその通りだと受け入れることなく、全てを聞き終えた寺島くんは困ったように淡い笑みを浮かべて、静かに首を横に振る。

 焦れったくてもどかしくて、再度同じ話を繰り返そうとした私をやんわりと制してゆっくりと口を開く。


「こっちに来てから、信じられないくらい力が強くなって、足も速くなった。それだけじゃない。目も耳も前とは比べ物にならないくらい、よく見えるようになって、よく聴こえるようになった。自分の部屋に居ても、この家の中のことなら、どんな小さな音でも聞こえてしまうくらいには」


 それは改めて説明されなくても、知っていることだった。

 レンさんがいつも、寺島くんがどれほどすごいのか語っていたし、聞き耳を立てなくても私の出す生活音がすべて聞こえてしまうのだと、以前から何度も何度も謝られていた。でもそれは寺島くんのせいじゃないし、風呂やトイレはなるべく寺島くんのいない時間に済ませているから、そんなに不自由を感じることもない。

 何でそれを今、わざわざ出してくるのだろうと首を傾げ、それも全然気にしてないよ、寺島くんも負い目を感じなくていいよ、と宥めようとした。

 けれど私が口を開く前に、寺島くんが続きを話し出す。


「……夜、に」


 なんとなく気まずそうに、言いにくそうに、視線を少し下に向けてぽつぽつと言葉を落としてゆく。


「高田さん、ほとんど毎晩、魘されてるんだ。『助けて、いやだ、やめて』って、ずっと。すごく、苦しそうに……。『ごめんなさい、許して』って、本当に、つらそうで」

「……ちがう!」


 思わず声を荒げて寺島くんの話を遮ったのは、寺島くんの声が震えていたから。

 けして、動揺したからじゃない。

 だって私は、傷つかない。傷ついている訳がない。

 予想もしていなかった事実を突きつけられて、ちょっぴり驚いてしまっただけ。

 どくりと嫌に大きく跳ねた心臓は、そう。そうだ、後ろからわって大きな声で驚かされて、びっくりした時に心臓がひゅって竦むのと同じ。ただの、反射みたいなもの。

 傷ついてないと言い聞かせ続けた胸の奥、隠れた本音をずばりと見抜かれてしまったからでは、けして。


「高田さん、でも」

「違うよ、寺島くん。それはただの、寝言だよ。たまたま、そう、偶然。たまたま、夢見が悪かっただけ。私はそんなこと、思ってない」


 大丈夫、気のせいで、勘違い。違う、そうじゃない。

 寺島くんに言い聞かせるうちに、心臓はすぐに落ち着いてすっかり平静を取り戻す。

 悪い夢なんて誰でも見るもので、どんなに怖い夢でも所詮夢でしかない。いつかは醒めるもので、夢の余韻に浸らなければ顔を洗っているうちに、忘れてしまうような取るに足らないもの。いつまでも居座って胸を苛んだりはしない。

 私自身が忘れてしまった夢に、寺島くんが囚われることなんてない。


「私は、そんな簡単に傷つくような、優しい人間じゃない。大丈夫、だから。だから寺島くんが、気にする必要も、傷つく必要も、ない。勘違いしてるんだよ、寺島くんは」


 そう、寺島くんは勘違いしてる。

 私は八方美人の事無かれ主義者で、何でも自分の都合のいいように動いていて、最初は不本意だったとはいえ花街に居たのだって納得尽くのこと。

 悪い夢を見て魘されることはあっても、それに傷ついてなんていないし、思い悩んでもいない。

 寺島くんが私に負い目を感じるような、辛い状況になんて、けして置かれてなかった。

 だからそんなうわ言じゃなく、起きてる時の私の言葉を信じてくれればいいのに。


「やっぱり、高田さんは、優しい嘘つきだ。俺がずっと、見てきたまんまの」


 力なく笑った寺島くんは私の言葉を、拒絶する。

 違うの、と重ねて呟いた言葉は、寺島くんの心に届くことなく、宙に溶けて消えていった。



 きっと私と寺島くんは、相性があまりよくないんだと思う。

 性格って意味でもそうだし、巡り合わせって意味でも。

 良かれと思ってやったことが相手の選択肢を削ってゆき、どんどん、悪い方へと導いていってしまう。

 その結果に何も思わない性格ならまだ、相手ごと切り捨てて別の選択肢を無理矢理作り出す事が出来ただろうけれど、寺島くんは自分から私を切り捨てることは出来ないだろうし、私も。

 臆病な保身と身勝手な打算によって、今は辛うじて小康状態を保ってはいても、いずれ壊れる事の分かりきっている未来を半ば確信しながら、卑怯にも寺島くんを言い訳にして、目を瞑って根本からどうにかすることを諦め、何もかも先送りにしてしまう。

 寺島くんの語った私は、何もかも美化されていてちっとも私に当てはまってはいなかったけど、一つだけ、当たっていたものもある。

 私は、臆病で怖がりなのだ。

 臆病だからこそギスギスした空気はそれだけで怖くて、適当な上辺だけの耳障りのいい言葉を振りまいて、へらへらと笑ってしまう。こんな状態が続くのが良くないと分かっているくせに、現状に甘んじている。

 寺島くんは私の手を放していい。私はちゃんと一人でも生きて行けるから。

 そう思っているつもりのくせに、未だ馴染んではいない世界にまた一人で放り出されるのは、いくら平気だって自分に言い聞かせたって、本当は。

 怖くて怖くて、たまらなかった。




 私たちは相性がよくない。

 そう思ったのは、私だけではなかったらしい。

 レンさんは寺島くんから私を引き離せば、今よりももっと悲惨な、目も当てられない状況になると、危うい現状維持を望んでいたけれど、他のパーティーメンバーはそうは思わなかった。


「あんたがいるせいで、タケがおかしくなっちまった」


 寺島くんとレンさんが、他のパーティーのメンバーに頼まれて少し離れた街へと連れ出された日。護衛も兼ねて私の元に派遣されていた三人は、あっという間に私を縛り上げ、憎々しげに睨んで言い放った。


「一時期は使い物にならなくなって荒れると思うわ。でもタケならきっと、立ち直ってくれる。そのために私たちがいるもの。絶対、立ち直らせてみせる」


 強い眼差しで宣言したのは、レガッタという女の子。おそらく私や寺島くんとそう歳は変わらなくて、同性ということでしょっちゅう私の話し相手に選ばれて連れてこられていたけれど、当たり障りのない話しかしたことはない。たまに言葉の端に滲んでいた棘から、きっと、寺島くんの事が好きなんだろうとは気づいていた。それでも正面から悪意をぶつけてきたことはなく、強い言葉を口にしたあとは、恥じたようにそっと目を伏せるような、真っ直ぐで優しい子だ。気づかないふりで逃げてばかりの私とは、比べ物にならないくらいの。

 彼女みたいな子が傍にいれば、寺島くんもきっと、いつかは心を寄せるに違いないと信じてしまいたくなるような。

 可能性に縋って、何もかも預けてしまいたくなるような。

 眩しい眩しい、素敵な女の子だった。


「だからあなたは、邪魔なの。タケの前から消えてもらう。永遠に」


 そうして口では、永遠に、なんて言ったくせに、寺島くんが信頼を寄せていただけあって、レガッタさんも他の二人も、大事な寺島くんを狂わせた存在である筈の私に対してすら、非情になりきれない人たちだった。

 隙をついて屋敷を襲った賊に私が殺されたように見えるよう細工をした上で、私を連れ出してどこかの金持ちの商人に売りつけるのだと怖い顔をして言ったけれど、その商人の名前は、私の娼婦時代の贔屓客の一人と同じもの。それも、特に私を気にかけて身の上に同情して、娼婦としてだけでなく子供のように可愛がってくれていた人のものだ。

 売女にはお似合いの末路だろう、なんて悪ぶって笑ってみても、瞳に宿る後ろめたさでは隠し切れていない。

 彼らは寺島くんの事だけ考えていればよくて、私なんて切り捨ててくれて構わなかった。

 死ぬのは怖いし、自分で命を断つことも怖い。こちらに来てから死を選ぼうとした事が無いとは言わないけれど、いざ実行しようとすれば手が震えてどうにもならなかった。

 だけど目を瞑っているうちに済ませてもらえるなら、ちょっとくらいの恐怖は抑える事が出来る、気がする。

 だから殺してくれと頼んだけれど、彼らはそれを選択しなかった。

 寺島くんを助けて、私をも生かす道を選んだ。

 何もかもうまくいけば、もしかして、みんなそれなりに、幸せになれたかもしれない。多少の打算はあったかもしれないけれど、心の底から寺島くんの事を心配した人たちが、これが最善だと判断して選んだ道。寺島くんを追い詰めるためでなく、救うために起こした行動だった。


 けれどその選択は、結局、誰を救うこともなく、ただ。

 寺島くんをますます追い込み、崩壊を早める結果をもたらしただけだった。


 何があったかは、全てを事細かに覚えてはいない。

 視界いっぱいに広がった血の色が、記憶をぼんやりとあやふやに濁して邪魔をする。

 だけど、確か、山奥で。縛られた私が、待ち構えていた誰かに、荷物のように渡されようとした瞬間、その、私に向けて伸ばされた手が、二本とも、見えない何かに斬り飛ばされて。誰もが凍りついたように動かない中、勢いよく噴き出した血だけが、鮮やかに脳裏に焼き付いて。


 違う、違う、私が!

 ようやく我に返って夢中で叫んだ時には、取引の相手は血の海に沈み、一切の表情を消した寺島くんが、レガッタさんたちに剣を向けていて、庇うように間に入ったレンさんが、必死でそれを止めようとしていた。

 私の声に、寺島くんの表情に戸惑いが浮かび、構えた剣先が僅かにぶれる。


 私が、逃がしてって、頼んだの。レガッタさんたちに。

 私が、逃げたかったの、寺島くんから。

 ごめんね、寺島くん、ごめん、ごめん。


 だってそれは、嘘じゃない。

 レガッタさんたちが私を寺島くんから引き離すって言った時、私はほっとしてしまったのだ。

 縛られなくったって、自ら彼女達について行った。

 計画が失敗する可能性から目を背けて、全部何もかも上手くいく未来にだけ目を向けた。

 一人になるのは怖かったくせに、寺島くんと一緒にいるのも怖かった。全部誰かに任せて、楽になりたかった。私のせいじゃない、レガッタさんたちに言い訳を押し付けて、全て放り出してしまいたかった。

 彼女達の計画に従うふりで、何もかも捨てて逃げ出す事を選択したのは、私。

 寺島くんの異様な執着を分かっていて、もしも私が消えれば寺島くんがひどく動揺して傷つくと理解して、それでも私は自分だけが楽になる道を選んで、レガッタさんたちに全部押し付けようとした。

 優しさなんて微塵も存在していない。


 私の叫びにくしゃりと表情を歪めた寺島くんは、構えた剣を下ろしてゆっくりと近づいてきた。

 いっそ、その剣で執着ごと私を切り捨ててくれればいいのに。


「ごめんね、高田さん」


 だけど寺島くんは、私にその剣を向ける代わりに、壊れそうな笑みを浮かべて。

 寺島くんが何か呪文のような不思議な響きの言葉を呟くと同時に、暴力的な眠気に襲われて、急速に意識が闇に落ちていった。


 そうして。

 意識を取り戻した時には、見知らぬ部屋のベッドの上。

 傍にはレンさんもレガッタさんもたちいなくって、寺島くんが床に跪いて懺悔を繰り返していた。

 起き上がって、声をかけようとした瞬間、足に違和感を覚えて、ゆっくりと膝を曲げてその違和感に指で触れると。指先に、冷たい金属があたる。

 驚きは、あまりなかった。驚くよりも先に、納得してしまった。

 もしかして、いつかは。そんな事があるかもしれないと、考えたことのある未来のひとつ。想定していた中でも、一番よくないもの。寺島くんが、どうしようもなく、壊れ果ててしまった未来。

 ひんやりとした鎖は、ふらりふらりと流されて優柔不断でその場限りの安寧を優先してきた私の罪を具現化したようで、じくじくと罪悪感を刺激される一方で、なぜだろう、少しだけ。もう逃げることを考えなくていいんだと、ほっとしてしまった。


「高田さんは、俺といない方がいいのかもしれないって事は、分かってるんだ」


 無言で鎖を触る私の態度に何を思ったのか、床に跪いたまま、寺島くんがぽつぽつと小さな声で話し出す。


「もっと俺より大人で、何でも出来て、閉じ込めなくってもちゃんと、高田さんの事守ってくれる誰かに、預けた方がいいって、何度も考えた」


 寺島くんは、やっぱり勘違いしたまんま。

 あれだけ言ってもまだ、私を守るべき対象だと思い込んでいる。

 そりゃ、普通に市井に下りて、仕事を探すのは難しいかもしれないけれど。花街に戻れば私は、自分の食い扶持くらいは稼げるのに。今更それを厭うほど、初心ではないのに。たとえ悪夢を見たって、朝になればちゃんと笑えるくらい、図太い人間なのに。


「でも駄目だった。高田さんが屋敷から消えてるのが分かった瞬間、頭が真っ白になって、何も考えられなくなって、全部、全部、壊してしまえば高田さんが見つかるかもって、思った」


 分かっていた。

 寺島くんがすっかり壊れてしまっていたこと。

 分かっていて、都合の悪い部分を見ないふりして逃げ出した。

 後のことは全部、私以外の誰かがなんとかしてくれるって、無責任に思い込もうとした。


「全部、全部、全部全部全部全部、何もかもすべて、叩き潰して壊して無くして消して、そしたら高田さんは、俺のとこにいるしかないから、だから」


 かわいそうな寺島くん。

 たった一度の、私の気まぐれの自己満足のせいで、何もかも狂ってしまった。

 もしもあの時手を差し伸べたのが私以外の誰かだったら、きっと、こんな未来にたどり着いてはいなかったのに。

 仮に世界を超える未来は変えられなかったとしても、レンさんやレガッタさんたちと出会って、支えられて、癒されて、心の底から陰りなく笑えるような幸せを、こちらの世界で見つけられたかもしれなかったのに。

 寺島くんの世界に、私さえ存在していなかったならば。


「ごめんね、高田さん。全部、俺のせいだ」


 ごめんね、寺島くん。全部、私のせいだ。


 ぼたぼたと大粒の涙を流して震える寺島くんの、その唇は。

 ぞっとするほど美しい、綺麗な綺麗な笑みの形に、歪められていた。



 穏やかに日々は流れてゆく。

 私と寺島くん、二人しかいない広い屋敷の中はひっそりとした静謐に包まれていて、ぽつりぽつり、部屋の中で交わす言葉の中、たまに寺島くんが嬉しそうに笑う。男の人なのに私よりもよっぽど可愛らしい、子供のような無邪気な顔で、幸せそうに笑ってくれる。


 けれどそれは見せかけだけの穏やかさで、日が経つにつれて静かな狂気が屋敷の中にひたひたと満ちてゆくのも、感じていた。こつりこつり、近づいてくる崩壊の足音は聞こえていた。


 時々ふらりと屋敷からいなくなる寺島くんが、帰ってくる時にはいっぱいの食料や服や装飾品を抱えていて、だけどその分傷を負っている事も少なくなくって、時には血まみれで帰ってくることすらあって、虚ろな瞳でぼんやりと私を見つめる時間が増えてゆく。

 いらない、と持ち帰った全てを拒絶すれば絶望したように青ざめて震えて、床に膝をついて壊れた機械のように懺悔を繰り返してしまう。

 ある日、珍しく晴れやかに笑った寺島くんが、「高田さんを苦しめるものは、もう全部なくなったよ」と言ったから、私は寺島くんにべったりとついた血が、ダンジョンにいるという魔物のものではなく、人のもの、おそらくは私が花街にいた頃に関係していた誰かのものであるのだろうと、ぼんやりと悟った。


 それから、寺島くんが血に塗れて帰ってくる頻度が増えていった。

 大丈夫だよ、怖いものは全部消してしまうから。

 高田さんを傷つけるものは、みんな壊れちゃえばいいんだ。

 血を浴びて嬉しそうに笑う寺島くんの顔は、段々と透明に透き通って純度を増してゆく。

 まるで、親に褒められた幼子みたいに、無邪気で純粋な笑みへと磨かれてゆく。



 そして、今日も。

 食事を終えてから、ふらり、屋敷を出ていった寺島くんが、帰ってきたときには全身を血に染めていて、ふわりと幸せそうな顔で笑う。

 これでもう誰も、俺から君を奪うやつはいなくなった。

 不純なものが何も混じっていない、喜びだけを浮かべた寺島くんの唇は、歪むことなくただただ美しいだけ。



 ごめんね、寺島くん。

 全部、私のせいだ。

 寺島くんが私のことを、罪悪感なしに見ることが出来なくなったみたいに、私も寺島くんのこと、罪悪感なしに見つめる事が出来なくなった。

 だから私も、寺島くんのことが好きだなんて、とてもじゃないけど言えなくって、だって好きだっていうにはもう、寺島くんに対していろいろと複雑な気持ちを抱きすぎてて、どれが本当でどれが嘘で、純粋にそれだけを取り出すことが出来ないの。


 でも、だから。


 血だらけで笑う寺島くんを、ぎゅっと抱きしめる。

 私の腕の中、びくりと震えた寺島くんはしばらく慌てていたようだけど、おずおずと、背中に腕が回る気配があって、柔らかく抱き返される。

 もう随分と長く二人きりで暮らしていたけれど。こんな風に触れ合うのは、初めてのことだった。寺島くんはけして私に自分から触れようとはしなくて、私も寺島くんに手を伸ばしはしなかったから。お互い、触れるには後ろめたさと罪悪感で雁字搦めになりすぎていた。

 でもいざ行動に出てみれば、案外簡単な事だったのかもしれない。

 ふふっと小さく笑って、胸の中で小さく呟いた。


 ごめんね、寺島くん。

 あなたの事が好きかどうかは分からない。

 もう、そんな気持ちがどういうものか分からなくなっちゃったから。

 だけど、全部私のせいだから、せめて。

 最期まで、一緒にいるね。



 ――きっと終わりは、もうすぐそこに。


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