(3)俺の生きていく世界
冬の空は、青く澄んでいるが、どこか色が薄い。
冷たい風が吹き渡る空の光景を、俺は母さん竜の背中で手をかざしながら見つめた。
東から昇ってきた太陽の白い光が眩しい。人目につかないように早朝に寮を出発したが、さすがに明るくなってきたようだ。
その俺の後ろで、あまりの高さに怖そうにユリカが俺の背中にしがみついた。
「お兄ちゃん……」
「うん? 高すぎて怖いか?」
「うん――だって、山より高いし」
しっかりと俺の背中の上着を握っている手は、少しだが震えている。怖そうに眼下の山脈を見つめているユリカを振り返ると、俺はゆっくりと笑いかけた。
「大丈夫。竜の母さんは、お前を落としたりしないから」
「う、うん――」
「それに、もし落ちそうになったら、僕が助けてあげるから」
だけどユリカに安心させるように笑いかけているアーシャルは、ちゃっかりと俺達の後ろに座って、一緒に母さんの背中に乗っている。
「お前の場合、自分で飛んだ方が、母さんが楽なんじゃないのか?」
――小さくても竜だろう?
どう考えても、母さんが重い気がしてならない。
「第一、いくら本人が大丈夫と言ったって、母さんは怪我をしているんだし」
それなのに、アーシャルときたら、すごくびっくりした顔をしている。
「ええっ! 嫌だよ! なんで、僕が兄さんを背中に乗せるチャンスを失ったばかりか、側にいる距離まで短くならないといけないんだよ!?」
「ああ……そう」
「それに側にいないと、隙さえあれば撫でてもらうチャンスがなくなるじゃないか!」
「いや――お前、それを恋人の前で言うのは……」
――さすがに、どうなんだ……
それなのに、ユリカときたら熱弁をふるうアーシャルの手をがっしりと握っている。
「まったくそのとおりよ。チャンスは一瞬でも逃がさない。私には、まだその姿勢が足りなかったわ。これからの反省点ね」
「おい、お前ら!」
――だからその一致団結をやめろ!
全力で手を取り合っている二人を振り返ったのに、俺の下からはくすくすと笑う母さん竜の声が聞こえた。
そして、長い首を面白そうに背中にいる俺達の方へと向けている。
「仲がいいわねー」
「母さん……」
「でも、まさかアーシャルに恋人ができるなんて思わなかったわー。もう、これは一生無理かもと諦めかけていたから、人生、いえ長い竜生何が起こるかわからないわね?」
「――いや、まだ子竜の段階で諦めないでほしいんだけど……」
いくら、アーシャルが俺にべったりだったからって。それも親としてどうだよ?
それなのに、飛んでいる母さんはうきうきとしている。
「だって小さい頃からアーシャルが口を開けば兄さん! 這っている後をついていけば、その前方には必ずリシャールがいるという雛の頃からの徹底ぶりだったのに! それなのに、まさか彼女ができるなんて!」
もう、嬉しくてたまらないと声が明らかにはしゃいでいる。
「母さん――」
隠すことさえせずに喜んでいる母さんの様子に、俺はちょっとだけ心配だったことを尋ねた。
「母さんは、アーシャルの相手が人間でもかまわないのか? そりゃあ、ユリカは間違いなく良い子で、俺も認めるほどアーシャルと気も合っているから、うまくいくと思うけれど――」
――だけど、竜と人間だ。どんなに言っても種族の違いがある。
俺とセニシェのように。
だけど、それが意外だったように、母さんは不思議そうに俺を見つめた。
「当たり前よ。アーシャルを射止めた。竜の結婚なんて、それだけで十分だわ!」
――さすが、元々豪気な性格。細かいことはどうでもいいらしい。
だけど、笑うように言う母さんの言葉に、ユリカが俺の後ろで明らかにほっとした。
「別に母さんが許さなくても、僕が選んでしまえば同じだし」
「アーシャル!」
――だから、なんでお前はそう反抗期みたいなことを言うんだよ!
けれど、それを母さんは豪快に笑い飛ばす。
「それよ、その意気! そうでないと、種族を超えた結婚なんかできないわ!」
――ああ。そういえば、母さん自身が種族を超えた結婚経験者だった。
思わず納得してしまう。
けれど俺が頷いた時、越えた山の向こうに広がる平原に、見慣れた街の姿が現われてきた。
それは、大きく突き出た尖塔をいくつも街の中心に並べて、今も教会の鐘の音を朝の空に遠くまで響かせている。
「ああ。着いたわね」
――カルムの街。人間の俺とユリカの故郷だ。
見つからないように、母さんは平原に広がるカルムの街の遥かな上空にいくと、ゆっくりと赤銅色の翼で旋回した。
「じゃあ、リシャール。また後で竜の家にも帰ってくるのね?」
「ああ。人間の父さんと母さんのところで、新年を迎えてからになるけれど」
俺が頷くと母さんが嬉しそうな顔をする。
「いいわよ、楽しみに待っているから」
笑って言うと、一気に降下した。
そして伸びた鋭い教会の尖塔の窓に俺達を滑り下ろすと、そのまま空を指差している人影に、これ以上騒がれないように、急上昇で羽ばたいていく。
とても、怪我をしているとは思えないスピードだ。
だけど、青い空にはばたいていく赤銅色の鱗の輝きを見つめ、俺は少し微笑んだ。
そして、後ろにいるアーシャルとユリカを振り返った。だいぶ乱暴だったから、さすがに驚いたらしい。落とされて、うつ伏せたままだった石の床から、やっと痛そうに頭を持ち上げている。
「大丈夫か?」
まあ、アーシャルはこれぐらい平気だろうけれど。ユリカは完全に人間なんだから、もう少し手加減をしてほしかった。
「うん。ちょっと驚いたけれど大丈夫よ」
今ので斜めにずれてしまった臙脂色の帽子を直しながら、ユリカは少しだけ打った額をさすっている。
その髪は、寮でコーギーが揃えてくれたおかげで、肩のところで柔らかく揺れている。巻き毛なのを抜けば、アーシャルと同じくらいの長さだ。切られた経緯を思い出せば痛々しいが、でも、この髪型も十分にかわいい。もっとも、父さん達は突然娘の髪が短くなって帰れば驚くだろうけれど。
ふと、俺はこれから向かう育った家を思い出して、瞳を伏せた。
そして、思い切って立ち上がる。
――何を迷っているんだ。ナディリオンとの戦いから二日、散々考えて、決めたことじゃないか。
あの戦いが終わった後。それこそ真剣に自分のこれからを考え続けた。
「でも、兄さん。今更だけど、本当に僕が一緒に行ってもいいの?」
「いいも悪いも、お前俺から離れる気がないんだろう?」
「当たり前だよ! ちょっと目を離した隙にまたこの間みたいなことになったら――!」
「じゃあ、一緒にいるしかないじゃないか」
――まあ、言い訳も考えてあるし、なんとかなる。
そう思って、俺は落ちた皮袋を床から拾い上げたが、ふと気がつくとアーシャルがじっと深刻な顔をしている。
――なんだ?
「アーシャル?」
なにか気になっているのか?
古い尖塔の階段へと向かいながら、俺は振り返って竜の弟の名前を呼んだ。
それに、アーシャルはしばらく俯いていたが、やがてぽつりと俺を見ずに呟く。
「ねえ、この間のことなんだけど――」
「うん?」
それに首を傾げる。
「ナディリオンって本当に死んだのかな?」
腕を組みながら呟くアーシャルの表情はひどく複雑そうだ。そりゃあそうだろう。俺の敵とわかるまでは、俺が焼きもちを妬くぐらいアーシャルが慕っていた相手だったんだから。俺と自分の魔力が目当てだったからとわかっても、そんな簡単に割り切れる感情じゃない。
――俺と同じように。
「さあなあ」
だから、俺は皮袋を担ぐと、アーシャルを見ずに答えた。
「まあ、生きているかもしれないけれど」
「えっ!? なんで!?」
「だってあいつには、兄の風竜の心臓があるんだろう? もし、俺があいつの兄なら、目の前で弟が心臓を切られて死にそうなのを、そのまま見ているとは思えないんだけど」
――きっと、俺なら、残っている自分の心臓を使わせる。
だとしたら、あいつが最後に笑ったのは、久しぶりに体内の兄の声を聞いたからじゃないだろうか。
「じゃあ――まさか!」
途端に真っ青になったのだろう。声が明らかにうろたえているアーシャルを振り返って、俺は拳を突き出した。
「安心しろ。もし次があっても、その時には俺は完全なドラゴンスレイヤーになってやるから!」
だから、そんなに心配そうな顔をするな。
「それに、お前もいるしな」
微笑んで親指を上に立てると、アーシャルの顔がはっきりと喜びに輝いた。
「うん! 僕も地上最強の危険生物になって絶対に兄さんを守ってあげるね!」
「じゃあ、私は人間の荒くれ者を束ねる暗黒街の女王になって、必ずお兄ちゃんを守ってあげるから!」
「うん。気持ちはありがたいのだが、二人ともその将来の目標はやめろ」
さすがに少しひきつってしまう。だけど笑いながら一緒に、古い石造りの尖塔の階段を下りていく。
そして、階段を下りて街に出ると、どうやら朝早く通りにいた人たちは、突然街の上空に現われた竜の姿に、まだ驚いているようだった。だけど、みんな遠くの上空を指差して見上げているところを見ると、どうやら竜が飛来した尖塔に、俺達が降りたことには気がついていないらしい。
古い教会の鐘つきの階段を下りてきた俺達には誰も振り返らず、空を見上げて叫び続けている姿に思わず苦笑してしまう。それにアーシャルも苦虫を噛み潰した。
「まったく――いくつになっても、母さんは派手好きなんだから――」
「まったくだ」
こればっかりは、さすがにアーシャルに同意してしまう。
だけど、塔を下りて少し歩くと、朝の光の中に、見慣れた俺の家の扉が見えた。
まだ早い太陽の光に、カルムの家の古い木の扉は、白く輝いて、冬の張り詰めた空気の中に佇んでいる。思わず唾を飲み込んだ。見上げれば、扉の上では、あの雪の日と同じように、靴の絵を描いた看板が、竜の起こした風に今も微かに揺れている。
――俺の育った家だ。
それなのに、ひどくその一歩を踏み出すのを躊躇ってしまう。
「お兄ちゃん?」
家に帰ってきたはずなのに、いつまでも扉を開けようとしない俺を、ユリカが不思議そうに見上げた。
その後ろで、あの雪の夜を知っているアーシャルが心配そうに俺を見つめている。
「兄さん――」
だけど、街の人の竜を騒ぐ声が気になったのだろう。
あれほど躊躇った扉が内側から開かれると、ずっと十六年間母と呼んできた黒髪の姿が、俺の前に現れたのだ。
「リトム――」
そして、俺を見て大きく目を開いている。
その瞬間、母さんが手に持っていた籠が落ちて、入っていた靴用の皮が、重い音と共に床にこぼれおちた。
どささっという鈍い音が聞こえたのだろう。店にいた父さんも驚いて顔を出すと、そのまま扉の前に立っている俺の姿を見て、息を呑んでいる。
その顔だけでわかった。きっと、俺が自分の生まれに疑問を抱いたことに気がついて、ずっと口に出せない不安を抱えていたんだと。
たがら、俺は一つ大きく息を吸い込んで、思い切って口を開いた。
「――――ただいま」
――言えた。
あれだけ迷って、言ってもいいのか考え続けていた言葉が。
だけど、その言葉だけで、俺を見つめていた父さんの瞳が緩み、ゆっくりと微笑んでいく。
「お帰り」
それだけで、何も言わなくても、俺を受け入れてくれているのが伝わってきた。その横で、母さんが瞳を涙に潤ませると、堪え切れなかったように父さんの肩に顔を埋めている。
――きっと、二人ともずっと悩んでいたんだろう。
問いかけることさえできない問いを、俺と同じ思いで。それこそ、俺よりもずっと長い間。
だけど、それさえも乗り越えて、今ここは俺の家だと迎え入れてくれている。
だから、俺はもう一度息を吸い込んで、笑いながら大きく家の中へと足を進めた。
「父さん。今日はアーシャルを連れてきたんだ」
「アーシャル君? ああ、この間リトムと一緒にうちに来た――」
後ろにユリカと一緒にいる顔を見て、思い出したように頷いている。
「確か同じ学校に入る子だったっけ?」
「そう。それで今日からは、俺の弟として扱うから!」
「え!? 弟!?」
突然の俺の宣言に、父さんも母さんもアーシャル自身までもがびっくりしている。
一瞬、父さん達の顔が曇ったのに気がついた。
だから、誤解しないように急いで言い足す。
「ユリカが学校でアーシャルと婚約したんだ! だから、いつか俺の義弟になるから、今からもう俺の弟として接するから!」
「え?」
これにはさすがに穏やかな人間の母さんさえ驚いたらしい。父さんにいたっては、完全に目がまん丸になってしまっている。
「え、えええええええっ――!」
絶叫すると、急いでユリカに駆け寄った。
「聞いてないぞ、ユリカ! そんな話!」
「そりゃあ、まだ数日前にお互い意気投合して将来結婚しましょうって約束したばかりだもの。だから今話しているんじゃない」
「お義父さん。これから兄さんの弟になりますが、よろしくお願いします」
「絶対に聞いていないから!」
うわああああと、父さんが娘の突然の彼氏と婚約報告にパニックになっている。
その光景を見ながら、俺はそこに俺がいれることに嬉しくて微笑んだ。
見上げた空では、まだ母さん竜の鱗が遠くで時々、眩しい赤銅色に光っている。
――大丈夫。どっちも俺の家族だから。
だから、俺は暖かい陽射しを浴びながら、賑やかな光景に心から笑みを浮かべた。
ここまでお読み下さりありがとうございました。
無事完結しました。ここまで書き続けることができましたのも、私の話を読んでくださった皆様のお蔭です。
ありがとうございました。
この作品を読んだ感想を、よかったら、下のポイント欄から採点していって、いただけないでしょうか。作者のモチベーションと、今後の勉強になりますので、どうかお願いいたします。
明夜明琉




