最強の猟犬と、最初の一皿
第1話 最強の猟犬と、最初の一皿
最後に嗅いだのは、店の制服に染みついたバターの匂いだった。
午後十一時。三十八歳の料理人ユータは、柴犬りんと散歩していた。
「明日は休みだ。ちょっと遠くまで行こうな」
五歳のりんが、くるりと巻いた尻尾を揺らす。
そのとき、解体中のビルから鋭い金属音が響いた。
見上げるより先に、りんを胸に抱いた。
轟音。
腕の中の温かさだけは、絶対に離すまいと思った。
*
頬を、ざらざらしたものが舐めている。
「……りん。あと五分」
『おなか、すいた』
「うん、わかった……ん?」
ユータは、りんを見た。
りんも、ユータを見ていた。
「……今、誰が言った?」
『りん』
ユータは勢いよく起き上がり、背後を振り返った。誰もいない。もう一度、目の前の柴犬を見る。
「お前……しゃべれるのか?」
りんの口は開いていない。それなのに、幼い子どものような声が、頭の中にはっきり響く。
『ユータ、きこえる?』
「聞こえる。ものすごく聞こえる」
差し出した手が震えた。りんはいつものように、その手へ鼻先を押しつけた。
五年間、一緒に暮らしてきた。
楽しいのか。寂しくないか。うちに来て幸せだったか。聞いてみたいことなら、いくらでもあった。
「りん。俺、お前に……」
『ごはんは?』
しばらく見つめてから、ユータは吹き出した。目尻に浮いたものを、手の甲で拭う。
「……うん。そこは変わんないんだな」
そして自分の手が、小さい。
泉に顔を映すと、十五歳くらいの自分が、間抜けに口を開けていた。
「若返ってる……腰も痛くない」
料理人として二十年余り。和食から始め、洋食、中華、製菓まで渡り歩いた。その記憶はある。包丁だこの残っていた手だけが、見知らぬほど滑らかだった。
『ユータ。さがって』
りんが前に出た。
茂みを割って現れたのは、軽自動車ほどもある猪だった。湾曲した牙が木を削り、粘った唾液が落ちる。
「りん、逃げ――」
猪が突進した。
りんは、片方の前足を上げた。
ぽん。
散歩をねだるような一撃で、巨体が宙を舞った。木々を揺らして落ち、それきり動かなくなる。
「……おすわりより先に、それ覚えたの?」
りんの額に金色の紋様が浮かんだ。
『ごはん、とった』
得意げな顔は、いつもの柴犬だった。
*
泉の先に、石造りの小屋があった。
住人はいない。煤けたかまどと鉄鍋、火打石。棚の壺には、湿気で固まった塩が残っていた。
「屋根がある。鍋がある。塩まである」
ユータは、ようやく息をついた。
「よし。飯にしよう」
小屋の裏で猪をさばく。知らない獣への不安はあったが、肉の色と匂いを確かめ、まず少量を十分に焼くことにした。
淡い脂の重なった肩肉を薄く切り、熱した鍋へ置く。
ジュウッ。
りんの耳が立った。
脂が溶け、肉の縁に細かな泡が集まる。ユータは触りたい手を止めた。焼き色がつくまで待つ。この時間は、どこの世界でも同じだ。
裏返すと、表面はきつね色になっていた。
「ああ……いいな、この匂い」
最後に砕いた塩をほんの少し。
りんの分は塩を振る前に取り分け、小さく切って冷ます。
『まだ?』
「熱いって」
『もう、さました』
「お前が息を吹きかけたの、今だろ」
自分の一切れを口へ運ぶ。
焼けた縁が、かり、と歯に触れた。その奥から熱い肉汁がほどける。噛むほどに赤身の旨味が濃くなり、甘い脂を塩がきゅっと引き締めた。
「……うまい」
もう一度噛む。
生きているのだと、腹の底でわかった。
りんは肉を頬張り、目を細めた。飲み込むと、空になった皿を前足で引き寄せる。
『このせかい、いいところ』
「判断が早いな」
笑った、そのときだった。
戸口で、小さな音がした。
銀髪の少女が立っていた。額には一本の黒い角。破れた袖から血がにじみ、手には欠けた短剣を握っている。
「……その獣を、あなたが倒したの?」
震える声だった。
答える前に、少女のお腹が鳴った。
彼女は耳まで赤くなり、短剣を持つ手を下げた。
ユータは鍋へ、もう一枚肉を置いた。
じゅわり、と脂が歌う。
「事情はあとでいい」
欠けていない皿を探しながら、言った。
「まず、ご飯にしよう」




