KPOPアイドルになりたい。紅蓮のステラ
第一章 断崖の崩落
深夜三時。冷え切った送迎車の後部座席で、紬は震える指先でスマートフォンの画面をスクープ記事へとなぞっていた。
世間が静まり返る丑三つ時に、大手ゴシップサイトが投下した「緊急スクープ」。
『若手実力派俳優・蓮見陸、人気若手女優・神条あおいと深夜の高級バーで極秘デート! その後、都内高級マンションへ——』
鮮明な高画質写真が、否応なしに紬の網膜を刺した。
帽子を目深にかぶった陸が、笑顔を見せる女優の肩にそっと手を回し、タクシーへと乗り込む姿。その表情は、かつて紬と電話越しに囁き交わしていた時と同じ、優しく柔らかなものだった。
「あ……」
喉の奥から、掠れた声が漏れた。
視界が歪み、血の気が引いていく。指先から急速に熱が奪われ、全身の骨という骨が砕け散るような衝動が襲った。まるで一万メートルの高空から、命綱なしで岩肌の崖下へと叩きつけられたかのような衝撃。
『僕の存在が紬ちゃんの重荷になっているなら……言ってください』
最後に届いていたあの優しいメッセージ。返信できずに思い悩んでいたあの苦しい夜の裏で、彼は別の女性と微笑み合っていたのだ。
(私が……うぬぼれていただけだったんだ)
自分だけが特別だと信じ込み、グループの未来と天秤にかけて苦しみ、不眠に苛まれ、夜な夜な涙を流していた。その葛藤のすべてが、ただの哀れな一人相撲だった。
「ツムギ? 大丈夫? 顔色が真っ青だけど……」
隣に座っていたマネージャーが異変に気づき、心配そうに覗き込んできた。
紬は瞬時にスマートフォンの画面を伏せ、膝の上で両手を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込み、鋭い痛みが走る。
「……大丈夫です。ただの、寝不足です」
声は完璧にコントロールされていた。涙の一滴すら、溢れ出させはしなかった。
誰にも言えない。
メンバーにも、マネージャーにも、そして世界中のファンにも。
『AURA-5』のセンター・ツムギが、一人の男に密かに恋をし、そして密かに裏切られて傷ついているなどという惨めな事実は、墓場まで持っていかなければならなかった。
地獄のような沈黙を抱えたまま、彼女はそのまま翌朝のテレビ生放送の現場へと向かった。
スポットライトの下に立てば、勝手に顔が笑った。カメラが向けられれば、完璧な「ツムギ」の笑顔を作ることができた。何百回、何千回と『S4』の過酷なシミュレーションで叩き込まれた表情管理のデータが、彼女の崩壊しかけた心を機械的に補強していた。
だが、心の内側では、生きたまま肉体を削ぎ落とされているかのような、冷たい痛みが渦巻いていた。
第二章 崩れた音色
週が明け、都内の大手レコーディングスタジオ。
次回リリースの新曲『VIRTEX』のボーカルレコーディングが行われていた。この楽曲は、世界ツアーを経てさらなる高みを目指す『AURA-5』の勝負曲であり、特にサビにおける紬のハイトーンボイスが楽曲の命運を握っていた。
防音ガラスの向こう側、暗いコントロールルームには、数々の世界的ヒットを手掛けてきた鬼才プロデューサー、カン・ジフンが腕を組んで座っていた。
「——違う。もう一回」
ジフンの冷ややかな声が、紬のヘッドホンに響く。
「はい」
紬は深呼吸をし、マイクに向かって息を吹き込んだ。
「輝きの果てへ 伸ばした手で 誰も届かない 空を裂いて——」
サビの高音パート。かつてなら、『樹林』との同期によって磨き抜かれた喉が、どこまでも透明で圧倒的な声量を響かせていたはずだった。
しかし、今の紬の声は違っていた。
高音に差し掛かった瞬間、声帯がわずかに絞り出されるように引きつり、ピッチ(音程)が揺らぐ。倍音が伸びず、どこか詰まったような、息苦しい音がコントロールルームに虚しく響いた。
「ストップ」
ジフンの声が演奏を遮った。
「ツムギ。何だその歌は? 喉にゴミでも詰まっているのか?」
「……申し訳ありません。もう一度お願いします」
「何度やっても同じだ。声にノイズが混じっている。伸びがない、ハリがない。一番肝心な『魂』が死んでいるんだよ」
ジフンはマイクのスイッチを押し込み、ガラス越しに紬を鋭い鋭利な眼差しで射抜いた。
「お前は自分の立場を分かっているのか? 世界ツアーを成功させ、高級ブランドのアンバサダーになり、ちやほやされて天にでも昇った気になっているのか? プロとしての自覚が皆無だ」
ガラスの向こうで、スタッフたちが気まずそうに目を背けているのが見えた。
「今の歌は、ただの『カラオケの上手い素人』だ。お前がそんな生半可な気持ちで歌っているなら、サビのパートはすべて他のメンバーに差し替える。いや、センターを降ろしてもいい」
容赦のない怒号。罵詈雑言。
プロとして、歌手として、これ以上ない屈辱的な言葉が紬の頭上に浴びせかけられた。
いつもなら、あるいは普通のアイドルなら、恐怖とショックで涙を流し、パニックを起こしてスタジオを飛び出していく場面だった。絶望の淵にいた紬にとって、この叱責は彼女を完全に「奈落の底」へと突き落とすトドメになるはずだった。
——だが。
第三章 破滅の裏返り
ジフンの激しい罵倒がヘッドホン越しに響く中、紬の胸の奥で、奇妙な「音」がした。
カチリ、と。
何かが、弾けた。
(奈落……?)
紬は静かにうつむいていた顔を上げた。
胸の奥を占めていたのは、陸への未練でも、裏切られた悲しみでも、プロデューサーへの恐怖でもなかった。
虚無。
そして、その漆黒の虚無の底から、とてつもない熱量を帯びた「紅蓮のマグマ」が、爆発的な勢いで吹き出してきたのだ。
(何を恐れていたんだろう?)
嫌われること? スキャンダルで失うこと? 完璧じゃなくなること? 他人に失望されること?
陸との恋に怯え、世間の目に怯え、グループを壊すことを恐れて、自分自身を檻に閉じ込めて小さくなっていたあの日々。
(でも、もう……何もかも、どうでもいい)
一番欲しかったものは、最初から存在しなかった。 守ろうとしていた幻想は、すでに砕け散った。
失うものなど、最初から何一つ存在していなかったのだ。
悲しみは、一瞬にして猛烈な「怒り」へと変換された。自分を弄んだ現実への怒り、惨めに怯えていた自分自身への怒り、そして目の前で自分を価値のない存在として否定する世界そのものへの怒り。
その瞬間、紬の全身の血が、マグマのように激しく逆流し始めた。
「……ジフンさん」
紬はマイクに向かって静かに呟いた。その声には、先ほどまでの怯えや揺らぎは微塵もなかった。氷のように冷たく、刃のように研ぎ澄まされた声。
コントロールルームのジフンが、眉をひそめてガラス越しに紬を見た。
「何だ?」
「オケを、もう一度出してください。最初から」
「言ったはずだ、今のままでは——」
「出してください」
紬はジフンの言葉を静かに遮った。
その瞳は、暗いブースの中で怪しいまでの光を放っていた。まるでニセコの極寒の夜空で、世界を焼き尽くすために降る巨大な隕石のように。
ジフンは一瞬、紬の放つ凄絶な気圧に押され、息をのんだ。コントロールルームの空気が一変し、オペレーターの手が震えながら再生ボタンを押した。
第四章 覚醒と狂唱
重厚なビートが、紬のヘッドホンに流れ出す。
紬は目を閉じなかった。逃げなかった。ガラスの向こうのジフンを、世界そのものを、殺気すら込めた強い眼差しで見据え続けた。
喉の奥で、何かが解き放たれる感覚。
『S4』が与えてくれたデータでもない。『樹林』が計算した最適なアルゴリズムでもない。
すべてを失い、身一つで崖から飛び降りた人間だけが掴み取ることのできる、野性的な、狂気じみた「純粋な生命力」。
紬は口を開いた。
「輝きの果てへ 伸ばした手で 誰も届かない 空を裂いて——!!」
——ドォン!!
スタジオの防音ガラスが物理的に振動したかのような錯覚。
スピーカーから弾け飛んだのは、これまで誰も聴いたことのない、圧倒的な咆哮だった。
ただ高いだけではない。ただ声量が大きいだけではない。
そこには、聴く者の鼓膜を破り、心臓を直接握り潰すような、凄絶な「情念」と「破壊力」が宿っていた。
音程の完璧なトレースなど、どうでもよかった。彼女の声は、音楽という枠組みを超えて、魂の叫びとなってスタジオ全体を支配した。
「偽りの愛も 砕けた夢も すべてを糧に 私は昇る 燃え尽きるなら 太陽の渦で——!!」
サビの超高音パート。かつてない最高音へ向かって、紬の声はどこまでも、どこまでも伸びていった。
制限は完全に外れていた。
喉が潰れてもいい。声帯が切れ飛んでもいい。今日で歌手生命が終わったとしても、この一瞬に自分のすべての命を叩きつけてやる。
その「無敵の捨て身」が生み出した波形は、コントロールルームの音響機材のメーターを真っ赤に振り切らせた。
歌が終わった。
最後の残響がスタジオの壁に消えていく。
紬は肩で荒い息をつきながら、マイクの前で仁王立ちしていた。汗が頬を伝い、乱れた髪が顔にかかる。だがその顔には、一切の悲壮感も、迷いもなかった。
そこにあったのは、圧倒的な「支配者」の顔だった。
コントロールルーム内は、静寂に包まれていた。
プロデューサーのジフンは、開いた口が塞がらないまま、手元の楽譜を握りしめて固まっていた。言葉を失っていた。
彼が要求した「魂」どころではない。そこにあったのは、彼自身の想像すら遥かに超えた、一人の人間が崖っぷちで覚醒した瞬間の「神話」だった。
数秒の沈黙の後、ジフンはゆっくりとマイクのスイッチを押した。
その手は、微かに震えていた。
「……ツムギ」
「はい」
「……一発OKだ。いや……完璧だ」
ジフンの声には、先ほどまでの高圧的な態度は消え去り、怪物に対するような戦慄と敬意だけが混ざり合っていた。
第五章 絶対者の孤高
スタジオを出た紬は、夜の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
ビル街の隙間から見える東京の夜空。
スマートフォンを取り出す。画面には依然として、陸と女優の密会スクープ記事が踊り、彼からの申し訳なさそうな嘘に満ちた言い訳のメッセージが届いていた。
紬は、そのメッセージを一読することもなく、迷いなく指を動かした。
連絡先を消去。 これまでのやり取りの履歴も、すべて削除。
未練も、未練があったことすらも、綺麗さっぱり消し去った。
胸の中にあったはずの暗い苦しみは、もうどこにもなかった。あるのは、研ぎ澄まされたナイフのように冷たく、美しい静寂だけだった。
「ツムギ!」
スタジオのロビーから、メンバーのソヨンとハナが走ってきた。彼女たちもレコーディングの音源をモニター室で聴いていたのだ。
二人は目を見開き、震える声で紬に歩み寄った。
「ツムギ……今の歌、すごかった……鳥肌が止まらないよ。一体、どうしたの!?」
紬は振り向き、メンバーたちを見つめた。
その瞳の奥に宿る圧倒的な「強さ」に、ソヨンたちは一瞬息をのんだ。昨日の夜まで衰弱し、怯えていた少女の面影は、どこにもなかった。
「ううん。ただ……吹っ切れただけ」
紬は微かに、不敵な笑みを浮かべた。
「私ね、もう何も怖くないの」
そう。彼女は知ったのだ。
愛されることも、裏切られることも、傷つくことも、すべては自分が「世界に執着していた」から生じる恐怖に過ぎなかったのだと。
すべてを失い、崖から突き落とされた瞬間、人は何者にも縛られない「絶対的な自由」と「圧倒的な強さ」を手に入れる。
今夜、自分は生まれ変わったのだ。
「みんな、次の新曲……世界中の誰もがひれ伏すような、最高のパフォーマンスにしよう。私たちが、世界のトップだってことを証明してあげる」
紬の言葉に、メンバーたちは気圧されながらも、強く、強く頷いた。
結び 無敵のステラ
数日後。深夜の宿舎。
紬はベッドに横たわり、『フルダイブ・バルブ』を頭に装着した。
『——フルダイブ・バルブ、起動。ユーザー認証:ツムギ。接続先:ニセコ・メインフレーム「樹林」』
可憐な合成音声とともに、視界が広がる。
現れたのは、ニセコの雪原と、満天の流星群。
「おや……」
出現したチェ・ウニョン博士のホログラムアバターが、紬の姿を見るなり、驚きに目を見張った。
『樹林』のモニターに表示された紬の脳波データは、これまで見たこともないほど巨大で、かつ完璧な安定を見せていた。バグ(雑音)は完全に消失し、演算処理能力は極限値にまで高められている。
「ツムギ。あなたの中で、何が起きたのですか? 精神的負荷が、すべて純粋な『表現エネルギー』へと変換されている。……これは、システムの計算領域を超えているわ」
「ウニョン博士」
紬はニセコの夜空を見上げ、静かに言った。
「私、理解したんです。傷つくことを恐れているうちは、本当のプロにはなれないって」
ウニョンは指先で顎を触り、興味深そうに紬を見つめた。
「絶望を乗り越えたのではなく……絶望すらも呑み込んで、自分の『武器』にしたというわけですか」
「ええ。もう誰も、私を傷つけることはできない。私はただ、ステージの上で歌い、踊り、世界を私の色に染め上げるだけです」
紬が不敵に微笑むと、彼女の足元から『樹林』の超並列演算波形が弾け飛び、ニセコの雪原全体が赤と金の煌びやかな光で満たされた。
「素晴らしい……! まさに、我々が目指した『超人(S4)』の完成形です!」
ウニョンが歓喜の声を上げる。
流星群の光を全身に浴びながら、紬は手を開き、強く握りしめた。
恋に破れ、傷つき、泥をすすった少女はもういない。
そこにいるのは、失うものをすべて捨て去り、揺るぎない強さを手に入れた、孤高にして無敵の「トップアイドル」——タカハシ・ツムギだった。
彼女は新曲の激しいビートを脳内に響かせ、満天の星空の下で、狂おしくも美しい舞を踊り始




