KPOPアイドルになりたい。密やかなるノクターン
第一章 光の饗宴
『AURA-5』のワールドツアー成功、そして伝説の楽曲『Love is』の世界的ヒットから数ヶ月。センターとして圧倒的な存在感を放つ紬のもとには、音楽業界のみならず、世界中のファッションアイコンからのオファーが殺到していた。
そしてこの秋、紬はフランスを代表するハイエンド・ラグジュアリーブランド『L'ÉTOILE』のグローバルアンバサダーに、最年少で就任した。
都内の超高級ホテルで開催された新作ハイジュエリーコレクションの祝賀パーティー。
会場には、眩いばかりのクリスタルのシャンデリアが輝き、世界中のセレブリティ、実業家、トップモデルたちが集っていた。紬は『L'ÉTOILE』の新作である、漆黒のドレスに流星を模したダイヤモンドのネックレスを纏い、まさに「時代の寵児」たるオーラを全身から漂わせていた。
「ツムギさん、アンバサダー就任おめでとうございます」
シャンパングラスが交差する華やかな喧騒の中、後ろから低く、心地よい声がかけられた。
振り返った紬の視線と、一人の青年の視線が交差した。
端正で涼しげな目元、洗練された佇まい。同年代でありながら、若手実力派として映画やドラマで主演を重ね、海外映画祭でも高く評価されている日本人俳優、蓮見 陸だった。
「蓮見……さん。ありがとうございます。映画、拝見しています」
紬が少し緊張して頭を下げると、陸は悪戯っぽく微笑み、手元にあったノンアルコールのカクテルグラスを彼女に差し出した。
「お互い、こういう場所は慣れないですよね。ずっと緊張した顔をされていましたよ」
「え……バレていましたか?」
「ええ。僕も実は、大勢の人に囲まれると逃げ出したくなる方なので。……少し、静かなところでお話ししませんか?」
陸に促され、二人はメイン会場から離れたテラスへと足を運んだ。都心の夜景が一望できる静かなバルコニー。冷たい秋風が、火照った紬の頬を心地よく撫でた。
「『AURA-5』の東京ドーム公演、実は観に行かせていただいたんです」
陸が夜景を見つめながら静かに語り始めた。
「『Love is』を聴いたとき、全身の鳥肌が立ちました。表現者として、完全に打ちのめされた。どんな覚悟を持てば、あんな歌が歌えるんだろうって」
「そんな……。陸さんの演技こそ、画面越しでも息をのむほど繊細で、いつも刺激を受けています」
お互いに世界の第一線で戦う同年代。抱える孤独や、世間からの過剰な期待、作品を生み出す苦しみ——言葉を交わすうちに、二人は驚くほど自然に意気投合していった。
「こんなに普通に話せた同年代の人、久しぶりかもしれません」
紬が素直な気持ちを口にすると、陸は温かな眼差しで彼女を見つめ、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「僕もです。……もし良ければ、連絡先を交換しませんか? 迷惑でなければ」
「あ……はい、喜んで」
煌びやかなパーティーの陰で、二人の運命の糸が静かに手繰り寄せられた瞬間だった。
第二章 深夜のメッセージ
それからというもの、紬の日常に小さな「変化」が訪れた。
過酷なスケジュール、連日のダンスレッスン、テレビ収録、そして夜の『ヴァーチャル・ダイブ』による『S4』トレーニング。多忙を極める日常の合間に、陸からのメッセージが届くようになったのだ。
『今日の撮影、無事に終わりました。ツムギさんの新曲、移動中に聴いています』 『今夜の満月、すごく綺麗ですね。そちらからも見えますか?』
他愛のない言葉のやり取り。しかし、完璧なアイドル「AURA-5のツムギ」として気を張っている紬にとって、一人の少女「高橋 紬」として飾らずに話せる陸との時間は、砂漠で見つけたオアシスのように、心を潤していった。
ある夜、深夜二時。
明日も早朝からPV撮影を控え、宿舎のベッドで『フルダイブ・バルブ』を手に取ろうとしていた紬のスマートフォンが小さく震えた。
『今、少しだけ電話できますか?』
紬は胸を跳ねさせながら、静かに部屋を抜け出し、ベランダへと向かった。通話ボタンを押すと、耳元から陸の低く優しい声が聞こえてきた。
「夜遅くにごめんね。声が聴きたくなって」
「ううん、大丈夫。私も……起きてたから」
「今日のロケ、すごく寒くてさ。紬ちゃんの歌を聴きながら暖をとってたよ」
「ふふ、私の歌、カイロ代わりにしないでください」
受話器越しに漏れる陸の笑い声。その温もりを感じるたびに、紬の胸の奥が甘く、疼くようにキュンと締め付けられた。
(私……陸さんのことが……)
認めてしまえば、もう戻れない。
自分は世界中から注目されるトップアイドルのセンター。陸もまた、日本を代表する注目の若手俳優。二人の交際が公になれば、どれほどの嵐が巻き起こるか、紬は過去のスキャンダル惨劇から嫌というほど知っていた。
だが、一度芽生えた想いは、止めようとすればするほど、加速度を増して紬の心を侵食していった。
「紬ちゃん?」
「……あ、ごめんなさい。ちょっとぼーっとしちゃって」
「無理しないでね。紬ちゃんがどれだけ過酷な毎日を送ってるか、分かってるから。……今度、お互い休みが取れたら、誰もいない静かな場所で会いたいな」
「……うん。会いたい……です」
言葉を発した瞬間、甘い毒が全身の血を巡るような感覚に襲われた。
恋に落ちている。取り返しのつかないほど、深く。
第三章 秘密の代償とノイズ
甘い時間は長くは続かなかった。
恋心が深まるにつれ、紬の胸を占めるのは「逢いたい」という切望と、「バレてはいけない」という極度の恐怖だった。
街を歩けばパパラッチの影に怯え、SNSで陸の名前がトレンドに入るだけで心臓が押し潰されそうになる。二人で会う約束を立てようにも、お互いの過密スケジュールと厳重なセキュリティが壁となり、一度として直接会うことすら叶わなかった。
「ツムギ、今日の振り付け、ワンテンポ遅れてるよ。どうしたの?」
練習室で、ダンスプロデューサーからの厳しい声が飛んだ。
「あ……すみません! もう一度お願いします!」
頭を下げながら、紬は手先が冷たくなっていくのを感じた。
以前なら、『S4』の演算によって体幹に刻み込まれた動きは完璧だった。しかし今の紬の頭の中は、陸への想いと、罪悪感、そしてバレた時の絶望的な未来のシミュレーションで埋め尽くされていた。
夜、宿舎で『フルダイブ・バルブ』を装着し、ニセコのスーパーコンピュータ『樹林』へダイブしても、集中力は戻らなかった。
仮想空間の漆黒のステージ。
幾千の流星が降り注ぐ中、シミュレーションプログラムを起動させるが、紬の足はもつれ、何度も床に崩れ落ちた。
「ツムギ。脳波データに著しいノイズが混入しています」
ホログラムのチェ・ウニョン博士が冷徹な姿で現れた。彼女の背景にある『樹林』のメインフレームは、紬の精神の乱れを反映するように、不規則な赤い警告シグナルを点滅させていた。
「集中力が散漫です。心拍数の異常な上昇、思考領域における特定データへの執着……。あなたは今、『恋』という名のバグに脳のパフォーマンスを侵食されている」
「バグ……じゃないです……!」
紬は床に伏せたまま、息を荒げて叫んだ。
「人間として……誰かを愛おしく思うことが、バグなんですか!?」
「プロの表現者としては、バグです」
ウニョンは容赦なく言葉を突き立てた。
「あなたのそのパフォーマンスは、『S4』の学習効果を数百倍に高めた天才のそれではない。ただの、恋に狂った哀れな少女の踊りです。忘れたのですか? あのスキャンダルで『AURA-5』がどれほどの地獄を見たか。あなたが背負っているのは、自分ひとりの人生ではないはずです」
ウニョンの冷酷な正論が、紬の胸を深く抉った。
分かっていた。自分が犯しているリスクの重さも、メンバーやファンへの裏切りになりかねない愚かさも、すべて分かっていた。
それでも——陸からの「会いたい」の一言が、紬の心を狂わせるのだ。
「ログアウトしなさい、ツムギ。今のあなたに、『樹林』の演算資源を使う資格はありません」
空間が強制終了され、紬の意識は荒い現実のベッドへと叩き戻された。
暗い部屋で、紬は膝を抱えて静かに涙を流した。
人を好きになることが、どうしてこんなにも苦しくて、恐ろしいことなのだろう。
第四章 心労の檻
秘密の恋は、紬の心と体を急速に蝕んでいった。
陸からのメッセージが届くたびに、胸が締め付けられるような甘さと、耐えがたい苦しみが交互に押し寄せる。
『来週の金曜、少しだけ時間が作れそうなんだけど、ツムギちゃんの事務所の近くまで行こうか?』
画面に表示された陸からの提案。紬の指は、『会いたい』と打ちたい衝動と、『来ないで』と拒絶したい恐怖の間で動かなくなった。
もし、万が一、スクープされたら?
『AURA-5』のワールドツアー成功で掴み取った信頼、苦労して勝ち取ったアンバサダーの座、そして何より、命を懸けて守ってきたグループの未来が、すべて灰になる。
「ダメ……会っちゃダメなんだ……」
紬はメッセージを返せないまま、スマートフォンを伏せた。
その日から、紬は不眠症に悩まされるようになった。
『フルダイブ・バルブ』を装着しても、ウニョンの言った通り『樹林』との同期がうまく入らず、浅い睡眠の中で陸の顔と、炎上するネットの悪意が交互に現れる悪夢にうなされた。
現実の仕事現場でも、紬の異変は誰の目にも明らかだった。
メイクで覆いきれない目の下のクマ、痩せていく頬、撮影の合間に見せる虚ろな眼差し。
「ツムギ、体調悪いの? ご飯、全然食べてないでしょ」
楽屋でメンバーのソヨンが心配そうにスープを差し出してきた。
「ううん、大丈夫……ちょっと最近、新曲の歌詞のことで考え込んでて」
「無理しないでね。ツムギが倒れたら、私たちどうしていいか分からないんだから」
ソヨンの優しい言葉が、罪悪感となって紬の胸を鋭く刺した。
メンバーたちは何も知らず、自分を信頼してくれている。それなのに、自分は一人の男性への想いに溺れ、グループを危険に晒すような綱渡りをしているのだ。
仕事が、辛い。
カメラの前に立ち、眩しい笑顔を振りまくたびに、偽りの自分を演じているような自己嫌悪に苛まれた。
あんなに大好きだった歌も、ダンスも、いまや自分を縛り付ける強固な檻のように思えた。
「私……どうしたらいいの……?」
ホテルの部屋、控室のトイレ、送迎車の後部座席。
誰もいない場所を見つけては、紬は息を殺して胸を押さえ、苦しさのあまり身体を丸めた。
第五章 孤立する夜
十一月半ば。都内は本格的な冬の訪れを感じさせる冷え込みとなっていた。
紬は『L'ÉTOILE』の大型グラフィック広告の撮影のため、早朝から深夜まで都内のスタジオにこもっていた。
完璧なポージング、要求される神秘的な表情。
フラッシュの眩しい光が焚かれるたび、紬の脳奥で激しい頭痛が走った。
「はい、オッケーです! ツムギさん、素晴らしい表情でした!」
監督の声とともに撮影が終了したとき、時刻は深夜一時を回っていた。
スタッフにお礼を言い、控室に戻った紬は、全身の力が抜けたようにソファに倒れ込んだ。
スマートフォンを開く。
陸から、数時間前に届いていたメッセージが表示されていた。
『連絡がないから心配しています。体調、崩していませんか? もし僕の存在が紬ちゃんの重荷になっているなら……言ってください』
陸の優しさが、痛いほど伝わってきた。
彼は何も悪くない。ただ純粋に、自分を想ってくれているだけなのだ。
悪いのは、アイドルとしての立場と、一人の少女としての感情の間で揺れ動き、どっちつかずのまま彼を傷つけている自分だ。
(重荷なんかじゃない……重荷なのは、私の方なのに……)
涙がぽろぽろと零れ落ち、画面を濡らした。
文字を打とうとするが、手が震えて上手く力が入らない。
『陸さん、私——』
そこまで打ち込んで、紬は指を止めた。
何を伝えればいいのだろう?
「好きです」と言えば、彼を危険な秘密の渦に巻き込んでしまう。
「もう連絡をやめましょう」と言えば、自分の心が完全に引き裂かれてしまう。
答えの出ない暗闇の中で、紬は一人、暗い部屋で激しく喘いだ。
頭の中で、過酷な現実と、甘く切ない陸の声と、ウニョン博士の冷徹な警告が混ざり合い、渦を巻いて紬の精神を飲み込んでいく。
「苦しい……息が……できない……」
胸を強くかきむしりながら、紬はソファから床へと崩れ落ちた。
華やかな世界の中心で、世界中から愛されながら、彼女はたった一人、出口のない深い深い孤独の檻の中で、苦悩の涙を流し続けるのだった。




