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第10話:消えた過去と、消えない罪

華やかな晩餐会の裏側で、カシアン・ヴァルデルマは静かに「杯」を手に取ります。


かつての婚約者アネモネの醜聞を消し去るために、城中の人間に忘却の薬を盛った過去。

彼にとって「理想の王子」という虚像を維持するための工作は、息をするのと同じほどに馴染んだ「手癖」に過ぎませんでした。


ルナリアを眠らせ、強制的にアイノアへ連れ戻そうとするカシアン。

その冷徹な微笑みの裏側に潜むのは、繰り返される後悔と、救いようのない「その場しのぎ」の連鎖。


「――どうぞ、召し上がれ」


穏やかな声と共に差し出された、甘い眠りの誘い。

聖女ルナリア、そしてヴィオラの運命を揺るがす夜が、静かに更けていきます。

晩餐会の喧騒は、最高潮に達しようとしていた。

 

 カシアン・ヴァルデルマは、完璧な王子の微笑みを湛えながら、ルナリアの杯にそっと指をかけた。その指先に迷いはなく、宴の中心地で堂々と眠りがグラスへ染み込んだ。


 戦争の足音が近づいて来る。ルナリアを、アイノアの「聖女」をカステリアから引き剥がし「有るべき場所」アイノアへ戻さなければならない。カシアンがとったのはごく単純で簡単な方法だった。


 ここはアイノア大使館。ルナリアをアイノアへ連れ帰ることには成功したも同然だ。少し、深く眠らせて、ヴィオラだけをカステリアの城へと帰してしまえばいい。

 起きてから多少騒ぐかも知れないが、何もヴィオラとの今生の別れを演じさせようというわけではない。カステリアへの出国の許可を条件に「予知」という仕事の一つや二つ引き出せれば良いだけだ。


 その場凌ぎだが、ヴァルデルマがアイノアへ付け込む隙を減らす当面の効果はあるだろう。

 なにも国民が戦争を望んでいるわけではない。戦争で実害を受けない貴族や政治家連中が醜く色めき立っているだけに過ぎない。


 ――こうしてグラスに魔法を溶かす日は、アネモネのことを思い出す。


 アネモネがルフレに抱く気持ちには気付いていた。ーー婚約前から。

 同じ場所を見ている者のことには気付きやすいものだ。

 

 アネモネは聡明で美しく愛想の良い、とりたてて欠点の無いところが不幸な女だった。ーー美しくとも、ヴィオラくらい愛想がなければアイノアとの婚約に使って貰えたかもしれなかったのに。ヴァルデルマへの生贄にと白羽の矢を立てられた。


 ーー同じ場所を見ている者のことには気付きやすいものだから、アネモネも、気付いていた。


 アネモネと過ごす日々は嘘のように穏やかだった。当然のことだ。それは正真正銘の嘘だったのだから。

 ふたりで川辺を眺めるふりをして、アイノアの城を眺めて過ごした。


 ふたりで王と王妃となれば、カステリアもヴァルデルマも、ーー愛するアイノアも、幸せで平穏であるだろうと信じていた。今でも、その日を夢に見ることがある。


 ただ、ほんの少しばかり、アネモネは純粋過ぎた。

 

 正式に婚姻してすぐに、彼女は壊れ始めた。

偽り続けることに向いていなかったのだ、彼女は手紙を書き始めた。ルフレへ宛てた、届けることの無い手紙。

 ルフレへの思いを連ねた手紙を書く度にアネモネからは魂の抜けていくようだった。たえかねて、ルフレへそれを届けないのか、と問えば「誰も幸せになれない話ね」と、笑った。

 彼女の笑顔を見たのはそれが最後だ。


 すっかり心を病んでしまったアネモネの、手紙に触れることが出来なかったのは、俺の咎。

 

 彼女は俺の後悔だ。

 いつかルフレへ渡してやりたいからと、そう言い訳をして、捨てることのできなかった手紙は、ーー見つかってはならない者に見つかってしまった。

 噂は瞬く間に広まったが誰が広めたか分からなかった。


 わからなかったので、アイノアの能力者に薬を作らせた。


 ーーアネモネのことを忘れてしまうように。


 ヴァルデルマの城の者全員に。可能な限り目立たないように気づかれないように、少しずつ風化していくように、食事に、飲み物に、食事時に、就寝時に。


 ーーだから、こんなグラス一杯に混ぜ物をするなんて簡単なことだ。

 皮肉なことだが、食べ物をくすねるような手癖の悪い出自の恩恵でもあったかもしれない。


 それはある程度上手くいったが、ある程度失敗した。皆、ヴァルデルマの城でのアネモネのことは忘れた。

 ーーだが、悪評は完全には消えなかった。広まり過ぎていた。

 ヴァルデルマではほとんど自然に無かったことになったのに、肝心のカステリアで残ってしまったのだ。アネモネは気を病んだままなので弁明もむずかしかった。

 自分の悪評も流してみたが、罪滅ぼしにもならない。カステリアは今もヴァルデルマに怯えている。


 手紙もあるだけまとめて燃やしてしまった。


 届けられなかった。届けられないなら燃やさねばならなかった。燃やすには遅かった。殺してやった方がいいことはわかっている。殺すにはもう遅すぎる。

 

 いつも同じ繰り返しをしている。今回もまたその場凌ぎをしようとしている。

 カシアンは、優雅な所作で眠り薬の入った杯をルナリアへ差し出した。

 

「……聖女様。あなたはアイノアの肌寒い夜がお気に召さないようだから、カステリアの暖かな夜を感じられる一杯を作らせたんだ」

 

 カシアンの声は、ひどく穏やかで、それゆえに酷薄だった。


「どうぞ、召し上がれ」

ご一読ありがとうございました。


完璧な王子の微笑みで眠り薬を差し出すカシアン。

彼が「手癖」のように繰り返す、その忘却と隠蔽の歴史は、後悔の連続でした。


壊れたアネモネ、そして彼女に似たヴィオラ。

カシアンが選ぶのはいつも「その場しのぎの毒」だけ。


ですが、彼はまだ知りません。

目の前にいる聖女ルナリアが、その毒盛りの瞬間を「設定資料集レベルの知識」でばっちり見抜いている、筋金入りのメタ・オタクであることを――。


【次回の予告】

次回、明かされる『ステラ・ノーツ』の真実。

なぜヴィオラは全ルートで死ぬのか? なぜカシアンルートはあんなにも陰湿なのか?


託された「攻略本」を武器に、リナリアが邪智暴虐の王子に反撃の狼煙を上げます。


明日も【21:00】に更新予定です。

物語はいよいよ「攻略」のフェーズへ突入します!

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