五
「今日、俺の家、くる?」
突然の一言に、今度は私のアイスティーを飲む手が止まる。
「えっ……」
「今日から嫁が出張で一週間中国に行くんだ」
だいたい予想はついていた。
初めて上がる彼の家。
玄関に砂の一つも落ちていない。
ともやくんはまったく几帳面な人じゃないから、これはきっと……。
答えが出そうになって首を横に振った。
ともやくんに案内されたのはシングルベットと本棚と机のあるシンプルな彼の部屋。
「奥さんと、部屋別々なんですね」
「うん。あんまり、仲良くないんだ」
「そんなことより」
そう呟いてともやくんが、カバンから小さな箱をだした。
箱には『BVLGARI』の文字。
「もうすぐ誕生日だろ」
箱にはピンク色のネックレス。
私なんかがつけるにはもったいないような、綺麗でキラキラした純粋なデザインだ。
「おいで」
そう言われて私は一歩、二歩とその大きな体に近づく。
ひとつ、ふたつ。胸が大きく跳ねる。
「つけるよ」
金属がひんやりと首に触れる。
愛人にブルガリをプレゼントするなんて、この人はなんて人なのだろう。
こんなものをもらってしまってはどうしても期待してしまう。
「ともやくん、ありがとう」
私は力一杯彼に抱きついた。
よしよし、と頭を撫でてもらってほっ、とする。
でも。
「ともやくん、あれなに?」
肩の向こうに見えた机の上の紙。
これを見つけてしまったのが、だめだった。
見つけても黙っていればよかったのに。
そうしたら傷つかずに済んだのに。
「なんだろ」
ともやくんの視線の先にあったのは。
"ともやへ。
一週間分のおかずは冷蔵庫に入ってます。
ご飯は自分で炊いてください。
迷惑かけちゃうけど、がんばってね。
行って来ます。"
奥さんからの、置き手紙だった。
この時、心の中で何かが壊れる音がして、なにも言葉が出なくなった。
この人に奥さんがいるのなんて前からわかってたことじゃないか。
それでもこの関係を続けるのを決めたのは私でしょう。
できるだけ長く一緒にいるには、こんなに顔に出しちゃいけない。
そんなの、わかってる。わかってるよ。
それは、多分本能的なものだったと思う。私は彼をベットに押し倒した。
私の中に、誘われるまでは何もしない、という謎のこだわりがあったはずなのに、バカみたい。
そして、唇と唇が触れたその瞬間。
少し動いた私たちに合わせるように、ベッドのスプリングが揺れて、シーツから香る花のような洗剤の匂いが鼻腔をついた。
奥さんがきっと、家を出る前に洗濯していったのだろう。
甘い、甘い香り。
心が、ぐちゃぐちゃになる。これ以上、私をかき乱さないで、お願い。
少し冷えた細い指先が、左頬に触れて、私は唇を思わず離した。
近すぎるからか、ともやくんの顔がよく見えない。
そして、一言。
「泣くなよ」
低くて、優しい声。
彼の顔がよく見えなかったのは、涙で視界が滲んでいたから。
そう気付いてしまったら、もう止まらない。
なんで私はこんなに泣いているの。
わかるよ、それは。
ともやくんが、好きだからだ。
でも、伝えてしまったら、もう一緒にいられなくなってしまう。
私は、ともやくんに覆いかぶさるのをやめて、ベッドに座って彼に背中を向けた。
涙はどんどん崩れ落ちてくる。
思いは溢れ出すように込み上げてくる。
もういっそのこと全部吐き出したい。
ふと、後ろから抱きしめられた。
ともやくんとの幸せな時間が積もるたびに、彼の左の薬指の輝きは、大きく見えるのだ。
奥さんへの罪悪感にも、自分の気持ちに嘘をつき続けるのにも、もう耐えられない。
それなのにこんなことをされてしまったら、ますますさよならを言えなくなってしまう。
このたしかな温もりは、絶望を運んでくる。
私、なんとなく知ってたの。
この人はずるい人だって。
それでも惹かれてしまったから。
私は大人じゃないから本能に従ってあなたに近付いて、
「ごめんね、ともやくん。 好きになっちゃった、本当にごめんね……」
思いを隠すことができなかった。
好きだ好きだ好きだ好きだって、心が叫ぶのを私は今まで気づかないふりをしてたのに。
そんな我慢も、今の一言で意味を持たなくなってしまった。
「俺は、鈴香を愛してるよ」
ずっと言われたかった言葉。だけど、言われたらいけなかった言葉。
これがもしも、少女漫画だったら、きっとこの涙がきっかけで二人は結ばれるだろう。
でもね、現実ではそんなことはないと思うの。
私には、ともやくんと奥さんの日常を壊して、自分が幸せになる勇気はないから。
この涙は、終わりを早めるだけだ。
それでも、私は。
願うしかない。
この不確かな関係ができるだけ長く続くように、と。
好きになって、ごめんなさい。
読んでくださってありがとうございました!
本当にグダグダでしたね……。
今度時間があればともや視点で話を書きたいと思ってます。




