旅立ち
朝起きると、膝にルシエの姿はなかった。辺りを見回すと、近くでりんごを食べていた。
「おはようございます」
「おはよう」
彼女からりんごを投げ渡される。とりあえずはかじって、口の渇きを潤す。
「それを食べたら、出発しましょうか」
「分かった」
短い会話。りんごを食べるシャクシャクという音だけが聞こえる。昨日の暴走がまるでなかったかのような雰囲気。なんとなく、気まずい。話すことは何かないかと頭の中を探す。
「そういえば、今さらなんだが」
「何です?」
「俺をどうやって陸まで運ぶんだ」
「私の足を掴んでいてください」
「おまっ……陸までどれだけ距離があるのかも分からないのに、ずっと足掴んでぶら下がってろってのかよ!」
「あら、それくらいはお安い御用なのでは? 天下の海賊なんですから」
「テメエ……海賊に挑発とはいい度胸じゃねえか。後悔するなよ」
ルシエがくすりと笑う。こんなやり取りももう終わりだ。
「まあ、冗談はさておき。どうしても厳しいならば私がなんとか頑張りますよ。あなたを海上に置き去りにするだなんてことだけは絶対にしませんから、それは安心してください」
「当たり前だ、阿呆」
悪態をつきながら、芯だけになったりんごを海へ放り投げた。
「さて、それでは行きますか」
「ああ。頼む」
「で、どちらまで?」
「あ」
ジャンは目的地について考えるのをすっかり忘れていた。とはいえ、別にどこでもよかった。どこでも生きていける自信はある。後は勘だ。
しばし考えた後、彼ははっきりと目的地を告げた。
「お前の妹の住む町まで」
* * *
一体どれほどの時間が流れただろうか。ジャンはひっきりなしに太陽を見るが、一向に動く気配がない。本気で時が止まってるのかではないかと考えたくらいだ。ルシエの足に掴まりながらの飛行は、それほどまでに彼の体感時間を長くした。
空を飛ぶことに感動していられたのも、ほんの数分。そこから先は、地獄の一人我慢大会だった。
「まだ大丈夫ですかーっ?」
「大丈夫だっ……! 何度も何度も気にしすぎなんだよっ……!」
「だって、声がもう大丈夫じゃないですし……少しずつ、足にかかる力が弱くなってますし……。頼みますから、力尽きる前に諦めてくださいねー! 面白半分で挑発したのは謝りますからー!」
「うるせえっ、いいからもっと飛ばせ!」
「もう……」
ジャンの言葉通り、ルシエが加速する。首が締まるのはジャンだった。正面から来る風がより強まり、息をするのが苦しくなる。限界が近づいてきていた。せっかく助かった命をこんなところで散らすのは、さすがに不毛すぎる。とはいえ、何か諦めるに足るきっかけが欲しかった。
「あ、そうだ。私、もうひとつあなたに聞きたいことがあったんです! 聞いてくれますかー?」
「テメエこの状況でよくそんなこと言えるなっ、まあいい! 言ってみろ!」
「私、歌が好きとは言いますけれど、他の歌を全然知らないんです! ジャンは、好きな歌、ありますかーっ? よければ、歌ってみてくださーい」
「お前っ、こんなっ、体勢でっ、歌えとかっ、ふざけんな! 阿呆!」
「それなら、これでどうです?」
「なに? ――うおおあぁぁぁぁッ!」
不意にルシエの足が急上昇した。当然、限界をきたしていたジャンの握力ではその咄嗟の動きに対応できず、彼の身体は宙を舞った。
死んだ、と思った次の瞬間、ルシエに後ろから羽交い締めのようにして抱きかかえられた。
「これで大丈夫でしょう?」
「……ああ」
うまい具合に、一人我慢大会もやめさせられた。
「さ、ちょっと歌ってみてください」
「分かったよ……。じゃあ、我らが海賊団の団歌を教えてやる」
「おお、いいですね、そういうの。楽しみです」
数日前までは、ほぼ毎日歌っていた曲だ。だが、いざ声に出してみると、随分と懐かしい気がした。
ヨーホー 声出せ 俺たちだけの唄
ヨーホー 教えてやれ 海賊が来る
ヨーホー 帆張り旗揚げ 壊して奪う
ヨーホー 声出せ 俺たちだけの唄
「ヨーホー、ヨーホー……ってな。その日のキャプテンの気分で二回三回繰り返すこともある」
「なるほど。海賊らしい、賑やかで荒っぽい曲ですね」
「そうだろう。キャプテン自作だ。この歌を聞いて大人しく降伏すれば、奪う荷物は半分にしてやるんだ。逃げたり攻撃してきたりしたら、もちろん容赦しねえ。壊して奪っておさらばだ。まさに俺たち海賊を象徴する唄だと思わないか?」
「そうですね。あと、もう一つ言いそびれてたことがあります」
「なんだ?」
「海賊を語っているときのジャン、ちょっと面倒くさいです」
「それは余計なお世話だ」
「ふふっ」
旅の途中、ジャンは何度も海賊の唄を歌った。それ以外には知らないと言った。本当は子守唄や聖歌もおぼろげながら覚えていたが、彼女の前で歌う気にはなれなかった。
その代わり、ルシエの愛の唄を何度か、うろ覚えで歌ってみせた。彼女はそれを聴くと、とてもとても感動した様子で喜んだ。
* * *
「はい、着きましたよ」
「うおっ、と、と」
人のいない浜辺で、ルシエはジャンをゆっくりと地に下した。しかし、彼はうまく足に力を入れられず、転んでしまう。長時間海で泳いだときとは全く違う感覚だった。
「最後の最後まで締まりませんねえ」
「うるせえな……」
「ところで、どうして妹の町に来たかったんですか。言っておきますが、寝取ろうだなんて考えているんなら全身全霊を込めてあなたを呪いますよ」
「んなわけねえだろ……。理由は、特にない。ただ新天地に行ってみたかっただけだ」
「ふうん、そうですか。さすが海賊ですねえ」
「褒められてる気がしねえな」
「まあ、褒めてませんから」
「ったく。お前こそ、最後の最後までひねくれた奴だな?」
ルシエはそれには答えず、浜辺を適当に歩き出した。
「ここ、久しぶりに来ました。あんまりいい思い出、ないですけど、でも陸は面白いものがたくさんあっていいですね」
「せっかくここまで来たんだから、妹にでも会ってきたらどうだ?」
「嫌です。まさか、それを言うためにここまで送らせたんじゃないでしょうね」
「変に勘ぐるなよ。考えすぎだ」
「どうでしょうね」
「お前な。せっかくの別れの時なんだ、お互い後腐れない方がいいとは思わないか?」
「…………」
ルシエは、また答えずに歩き出す。
「おい、何を拗ねてんだよ?」
「……ねえ、ジャン」
「なんだ」
「またいつか、私の歌を聴いてくれますか」
ルシエは微笑みを顔に貼りつけ、尋ねてきた。
ジャンは彼女に近寄り、こう答える。
「またお前に助けられたらな」
ルシエは今度こそ笑った。
「いじわる」
「ああ、海賊は意地が悪いんだ。だから、あえて示してやる」
「え?」
「これが今の、俺とお前との距離だ」
ジャンは、さらに彼女に近づき――そっとルシエの頭を撫でた。吐息が彼の胸にかかる。そのまま、数秒。そして手を放し、後ろに下がった。
ルシエは顔を深く俯けてしまって、ジャンの位置からは顔が見えなくなっていた。
「……それって、縮まりました? 遠ざかりました?」
「さあな」
「ほんと、いじわるですね」
「そうだ。俺は意地が悪い」
ジャンは彼女に背を向けると、陸側へ歩き出した。後ろから音は聞こえない。
「――ぜんっぜん! 締まってないですからねっ!」
「そりゃ残念だ!」
「お元気で!」
「お前もな!」
やがて、大きな翼の羽ばたく音が聞こえた。
その音は、すぐに遠くの方へ消えていった。
…………。
ちら、と後ろを向いてみる。
遠く海の向こう、かすかに見える鳥の影が、こちらを見ていたような気がした。
「本当、締まらねえな」
ジャンはくっくと笑った。