第23話:沈黙は毒の香り
針子部屋の奥に佇んでいた老女官は、糸を巻く手を止めた。
「――銀燕? ああ……あの子なら、昨日から来ておりませんね」
「昨日から?」
ユウは眉をわずかにひそめた。
「布地の繕いを担当していた、と聞いています。麗妃さまのお召し物、主に下着の……」
「ああ、その子ですとも。布を織るのが丁寧でね、香り袋の縫い目にも気を遣っていた。だが、昨日の朝、姿を見せぬままで……」
老女官の言葉は曖昧だったが、明らかに動揺を含んでいた。
「届け出も、捜索の報告もなし。誰も彼女を探していないのですか」
「ここは後宮ですよ。誰かが消えても、大声を出してはいけない場所なのです」
老女官の目が、すっと細くなる。
「あなたも……お気をつけて」
後宮では「叫ばぬこと」が美徳とされる。
嘆きも痛みも、静かに飲み込む。それが妃たちと女官たちに求められる“品位”。
――だが、それを逆手に取れば、何でも「なかったこと」にできる。
布と香を扱う者が一人、姿を消した。それは単なる偶然か、口封じか。
ユウは、翡翠宮の物納帳を持ち出し、銀燕の記録を確認した。
彼女は布だけでなく、“香袋の縫い目に香粉を封じる細工”も任されていた。
(つまり、布に仕込まれた毒香の“直接の加工者”)
ならば、彼女が消えた理由は明白だ。
――「真相に最も近い者」は、最初に消される。
その日の夕刻。
ユウは薫花宮近くの裏庭で、土にまみれた草履を見つけた。
片方だけ、縁に銀の糸飾りが残っている。
(銀燕の持ち物……)
足跡はそこから先に進まず、庭の片隅にある小井戸の縁で消えていた。
井戸の水は濁っていた。最近誰かが何かを沈めたのか、底は見えない。
――だが、井戸は密封されておらず、警備も曖昧。
そして、そのそばに、誰かが立っていた。
「……あなたがここにいるとは思いませんでした」
ユウの背に声をかけたのは、桂宮の宦官・サイだった。
年若いが聡明な男で、以前から何度か会話を交わしていた。
「サイ殿。銀燕のことをご存じですか」
「知りません」
即答だった。
だが、その目は泳いでいた。
「彼女は、桂宮の縫製部にも出入りしていましたよね。香袋の縫製で何度か……」
「ユウ殿」
サイの声が低くなった。
「今すぐ、この話を終えましょう。でないと、あなたも次に“沈む”」
その言葉に、ユウは片眉を上げた。
「“沈む”? 井戸にですか」
沈黙。
それが、答えだった。
――誰も、銀燕を探していない。
誰も、彼女の名を記録に残していない。
なぜなら、「彼女がいた」と証言すれば、次は自分が消されるから。
沈黙は、毒と同じだ。
少しずつ広がって、命を蝕む。
ユウは井戸の縁をそっとなぞった。
冷たい石の感触の奥に、喉の奥を締めつけるような無力感があった。
その夜。
翡翠宮の寝所で、麗妃はまた咳き込んだ。
だが、侍女たちはただ黙って水を差し出すばかりだった。
誰も原因を訊ねない。誰も異変を疑わない。
その静けさこそが、最も残酷な毒。
ユウは帳面を閉じると、蝋燭の灯を見つめながら呟いた。
「……次に、沈むのは誰か。あるいは……私か」




