第21話:香の記録、衣の罠
翡翠宮に戻ったユウは、帳面をめくりながら、首を傾げていた。
楚月妃の回復を確認し、日誌を整えていたつもりだった。だが、麗妃に関する記録の欄が――どこか、妙に歯抜けなのだ。
(前は確か……咳が続いていたはず。なのに、二日前から記録が抜けている)
日誌に目立った修正痕はない。だが、宦官が記録する健康帳には、異様なほどの空白があった。
それはちょうど、白い石榴の花が庭に咲いた日と重なる。
(“災いの兆し”……まさか、本当に?)
ユウは薄いため息をついた。
疑うわけではない――いや、疑うべきなのだ。
この後宮では、沈黙こそが毒の兆しなのだから。
翌朝、ユウは台帳を手に、香房へと足を運んだ。
香を調合し、各宮へ配る場所。
香司の女たちは、職人でもあり、政治の手先でもある。
女たちの視線が一斉にユウへ注がれる。だが彼女は怯まなかった。
「翡翠宮からの香の配分記録を見せてください。ここ三ヶ月分を」
「……書庫の者が、それを?」
香司のひとりが眉を上げる。
だが、ユウは無表情で返した。
「書庫は帳簿を司る場。配分記録の閲覧は、正式な権限の内です」
「……少々お待ちください」
渡された帳面を捲るうちに、ユウの指先が止まった。
麗妃の宮――薫花宮には、ここ数日、「桂花香」に加え、もう一種――**“白檀薄荷香”**が届けられている。しかも、正式な申請書なしで。
(これは……季節外れの処方。咳に使う香ではあるけれど、身体が冷える時期では逆効果)
つまり、麗妃にとって有害になりうる香だ。
(誰がこれを加えた?)
記録には、「追加依頼・香袋番号――霜-五三」と記されている。
(“霜”は外部納入香袋の印。つまり……この香だけが、外から持ち込まれている)
その香袋を保管する納香庫へ足を運ぶと、案内役の若い香司がユウを見て、あからさまに戸惑った。
「“霜-五三”……ですね? それは……玉貴人様付きの女官が、直接持ち込まれましたが」
やはり、とユウは思った。
玉貴人――楚月妃だけではなく、麗妃にも仕掛けているということか。
納香庫で香袋を開けた瞬間、ユウの鼻をつく独特な甘さがあった。
白檀の香りの奥に、微かに異なる苦味。
それは――
「……苦杏仁。」
微量だが、杏の種から取れる、青酸を含む成分が感じ取れる。
(これを吸い続ければ、喉を傷め、呼吸を浅くし、寝込みやすくなる……。症状が“風邪”に見える毒)
毒は、姿を隠して香に溶け込む。
誰もが“心地よい香り”と思い込むうちに、身体を蝕んでいく。
その夜、ユウは小さな紙片に記す。
――“霜-五三”。香袋の中に、病を誘う毒。配布先、薫花宮。持ち込み、玉貴人。
とめどなく記録が増えていく。香と帳面と、衣と毒。
この後宮は、香の流れと共に、誰かの意志が忍び込んでいる。
その翌日、麗妃が再び咳き込み、床に伏したと聞いた。
体温は正常、だが息が浅く、胸に圧迫感があるという。
(間に合うか……いや、動くしかない)
ユウは筆を置き、静かに立ち上がった。
次は、“衣”だ。
香と共に、各妃へ配られる染布と下着。
そこにも、香と毒の影が忍ばせられているのでは――
「香と衣」。その二つを繋げば、玉貴人の網が見えるはずだ。
だが同時に、ユウ自身がその網に囚われる危険も増していくのだった。