8.本名で呼んでもらえるように…
8.本名で呼んでもらえるように…
不本意なかたちで大学を辞めざるを得なくなった私は学費を出してくれている良心にどう説明したらいいか悩んでいた。まさか事実をそのまま伝えたのでは勘当ものだ。けれど、そもそも自分から頼んで進学させてもらったわけではない。本当は就職して早く社会に出たかったのだけれど、両親がどうしても大学くらいは出ておけというので、子供の頃から好きだったデザイン科がある学校を選んで進学した。そんなことを松崎さんが二度目に店に来た時に話した。相変わらず、他に客がいなかったので私はカウンター席に座った松崎さんの隣に座っていた。
「だったら、アルバイトをしている広告代理店に就職することになったというのはどう?」
「え、そんなウソなんてすぐにばれちゃうわよ」
「ウソじゃなければいいんでしょう?」
「無理、無理! そんなに都合よく就職なんてできないもの」
「それが無理じゃないんだ。これ…」
松崎さんがバッグから出したのは私のスケッチブックだった。
「えっ! どうしてそれを?」
「ごめん、この前、泊めてもらった時に目についたので見せてもらったんだ。そして、この才能を埋もれさせておくのはもったいないと思った…」
なんだか話がよく見えてこない。私が考え込んでいると、松崎さんはニヤッと笑って名刺入れから1枚の名刺を取り出した。
「ボクが取引している広告代理店の担当にこのスケッチブックを見てもらったんだ。そしたらこれを書いた人に会ってみたいって」
益々解からなくなった。いったい彼は何が言いたいのかしら…。えっ! ちょっと待って…。それってもしかして…。ちょうどその時、店のドアが開いて常連の客が入って来た。
「それ、今度ちゃんと聞かせて」
そう告げて、私はカウンターの中に入った。
閉店後、私は彼をウチへ連れて来た。
「ごめんなさい。また終電を逃しちゃったわね」
「いいんだ。今日は最初からそのつもりだったし、ボクも明日は休暇を取ってる」
「本当? じゃあ、今夜も泊って行く?」
「カオリさんさえよければ」
「じゃあ決まりね。それと、店以外では美紀だから」
私は冷蔵庫から缶のバドワイザーを日本取り出した。一本を彼に手渡して腰を下ろした。
「さっきの話、どういうこと?」
すると、彼はもう一度名刺を取り出して話し始めた。
「この赤川さんという人がデザイナーとしてのカオリさんにに興味があるって」
私はその名刺を手に取ってみた。
『株式会社P&W編集長赤川辰夫』
P&Wと言えば広告代理店の中では国内ではトップクラスの会社だ。その編集長が私のデザインに興味があるなんて。
「つまり、もしかすると…」
「ほぼ、いい方向で話がまとまるはずだよ。うちはP&Wにとって、上玉のクライアントでもあるからね」
私は彼の顔と名刺を何度も見比べた。偶然知り合ったこの人は一体どういう人なのか。そんなことさえ知らずに私は勝手にこの人を彼氏にしてしまった。
「松崎さんって…」
「そんなことより、乾杯しよう」
そう言ってバドワイザーの缶を掲げた松崎さんに私は抱きついた。そして、その夜は初めて同じ布団で彼と一緒に朝を迎えた。
翌朝は少し早めに起きて二人分の朝食を用意した。簡単なものだけど、彼は美味しそうに食べてくれる。そして、彼も今日は仕事が休みだと言っていた。
「今日はお休みでしょう?」
「そうだよ。カオリさんは?」
「私も」
「じゃあ、デートしようか?」
「いいわよ」
なんだか嬉しくて思わず笑みがこぼれる。彼がまた私のことを“カオリ”と呼んだ。ちゃんと自然に本名で呼んでもらえるように、もっと彼と一緒に居る時間を作りたいと思う。




