間章#2 怯懦
中国地方でもそれなりの規模を持つ鳳霊学園を擁する笠良木市の週末は、駅前に限らず多くの中高生の姿を見ることができる。比較的近隣に巨大な私立大学の付属高校及び中学があることもあって、その生徒が鉄道で行き来することで、もちろん駅前にも中高生があふれる。平日の昼間は閑散としていても、休日になると一気に人であふれかえるのがこの市の週末である。
しかし、それらの活気も寄り付かない場所もある。いわゆる、成人客を対象にした店舗が軒を連ねる路地があり、駅前周辺でもこの路地だけ人通りが極端に少ないのだ。元々は昔ながらの商店街だったものが、そのほとんどの商店がシャッターを閉めてしまい、ある程度の需要のあるものだけが残った結果が今の状態というわけである。中高生などはもちろん入っていくことなどない。恋人同士でよろしくやるだけなら、他に手頃に利用できる施設が他にいくらでもある。
それでも入っていく者はいる。ただ、タクシーという高校生には高級すぎる手段を使うというカモフラージュもしつつ、だが。そしてもちろん、そのタクシー代を払うのは、乗っていた女性ではない。
◇◇ ◇◇
10畳ほどの部屋にベッド一つという簡素なつくりの部屋に、一組の男女がいる。と言えば、これ以上状況を説明する必要もなく、何をしていたかは明白というものである。
ベッドに寝転がり天井を仰ぐ女の横で、男はワイシャツの袖に右腕を通しているところだった。
「すまないね、こんなところで。会社にいたものだから、ここしか用意できなかったんだ」
事が終わってようやく初めて発した男の言葉に、女は気だるげに返した。
「いえ……、急に呼んだのは、私ですから。……来てくれて感謝してます」
女は自らの裸をシーツで隠しつつ、顔を身体ごと男に向けた。長い髪が目にかかるのも頓着せず、男の着替えを見つめ続ける。そうしていると、しばらくして男がネクタイを締めながら女に訊ねた。
「以前会った時から訊きたかったんだが、どうして君みたいな真面目そうな子がこんなことをしている? 見たところ、お金には困っていなさそうだが?」
訊かれても、女は身じろぎひとつしなかった。答える気がないのなら、と男が諦めてネクタイに集中しようとすると、
「……ルール、違反じゃないですか」
その一言だけを口にした。
「マナー違反だという自覚はある。答えたくないのなら答えなくても構わない。カウンセラーの真似事などをするつもりもないしね」
それは男の本心だった。興味本位で訊いてみただけで、返答を強いるつもりもなかった。
女は再び口を噤み、男も構わずネクタイを締め終わって上着を手に取った。そこで、女が再度口を開いた。
「……別に、大したことじゃ。遊ぶついでに、遊ぶお金でも稼ごうかって、思っただけです。真面目でもなんでもないですよ」
男は女のほうを見ようともせず、上着を羽織った。部屋の隅に申し訳程度に設けられているテーブルへ向かい、置いてある自分の鞄を開いた。その中から男が取り出したのは、財布――とビニール袋だった。
「お金はここに置いておく。帰りのタクシー代もある。それと、これは代わりの下着だ。使わないのなら捨ててくれて構わない。……他に欲しいものは?」
女は答えない。男はその無言を否定と捉え、鞄の口を閉めて立ち上がった。男が女の寝ているベッドの足元を通り過ぎ、扉へ繋がるごく短い通路へ差し掛かっても女が動いた様子はなかった。
男がドアノブに手をかけたところで、そのまま止まって話しはじめた。
「私はこれでも、人を見る仕事をしていてね。だから、人の挙動や言葉の抑揚で、その人が内心で抱えていそうなことがある程度はわかる……つもりだ」
男は振り返り、部屋の中へ顔を向けた。この角度では、男から女の顔は見えない。
「君が“売り”をしている理由はわからないが、少なくとも、君がただの遊びでこんなことをしているわけではないことぐらいはわかる」
男は手をドアノブから離し、今度は身体ごと部屋の中へ向き直った。
「もし、お金に困っているのなら、多少の援助はできるが……? もちろん、“これ”抜きで、だ」
男はおそらく、戸惑っていた。なぜ自分がこんなことを口走ってしまったのか、という自分への戸惑いだ。本来は踏み入るべきではない領域に、自分が土足で上がりこもうとしていることへの困惑が、同時に彼の思考力を奪おうとしている。
男が足を一歩踏み出そうとしたその時、女が口を開いた。
「私を……女子高校生を、愛人にでもするつもりですか?」
男は我に返った。何をしていたんだ自分は。過去の自身への非難が思考を明瞭にしていく。
「すまない、出過ぎたことを言った。忘れてくれ」
冷静になった男は、また向き直ってドアノブを回した。
「チェックアウトはしておく。ある程度の融通はするよう言っておくが、なるべく早く出てくれ」
男は部屋を出る間際、
「じゃあ、また」
とだけ残した。
残された女は、惨めさと悔しさに歯軋りする。
◇◇◇ ◇◇◇
鳳霊学園、10月最初の授業も滞りなく終わった。
今日から2週間は冬服への移行期間である。朝の気温はある程度下がってきたこともあり、夏服に混じって冬服を着てきた生徒もいくらかはいたようだが、放課後になってみればそのほとんどが上着を脱いでいたり袖をまくっていたりと、9月とさほど変わらない光景となっていた。
その主な原因が、10月に入ったことによるエアコンの封印だった。窓を開けていても、入ってくる風など涼をとるには微々たる効果しかない。未だに真夏日すら出るだろうという予報すら出ている10月初頭、鳳霊学園の生徒は2週間後の冬服完全移行を戦々恐々たる思いで待つ。
特別教室棟一階、第二会議室。通称、生徒会室。
通例的に生徒会と各委員会委員長の集まる執行部会に使われていたことから、生徒会室と呼ばれるようになったこの教室だが、今ではさらに用途を変え、執行部の暇な時間を潰すために使われているという有様だった。
「ぅあー、なーんでだれもいねーのー?」
パイプイスに座り、スカートが捲りあがるのも気にせずテーブルに両足を乗せつつ孤独を嘆く叫びをあげているのは、生徒会第二書記の水橋彼方である。
「まあ、他のみんなは彼方みたくヒマじゃないからね」
そして、そんな彼方に対して辛辣な皮肉を吐き捨てたのは、高等部会委員長の稲葉直継。彼は一度、教務室を経由してついさっきここに来たばかりである。そんな彼は、その教務室で教師から預かった書類を机の上に並べて、それらを精査し始めた。手持無沙汰な彼方は、当然それらに目をつける。
「なにそれ。追加の面倒事かなんか?」
「面倒事って……まあ、確かに面倒だけどさ。いくらかの部活と研究会が今になって企画持ち込んできてさ。出すなら夏休み前までに出せってあれほど告知したのに。……あぁめんどくさい」
「なんでお前がやってんの」
「君がしないからだよ」
睨まれ、目を背ける彼方。その額には冷や汗がにじんでいる。
「なんで書記の君が一番暇そうにしてんの。後朱雀さんかなり疲れた顔してたけど」
「あ、今日来てんの?」
「そりゃあ、学園祭まであと一か月だし。で、話を逸らさない。なんか仕事言いつけられてないの? ないなら手伝ってほしいんだけど」
直継が明後日の方向を向いている彼方を睨み続けていると、やがて観念したように肩を落とした。項垂れたままゾンビのような覚束ない足取りで直継の傍らまで歩み寄り、
「なにすりゃいいの?」
「これ。こっちの紙にチェックすべき項目は全部まとめてあるから、こっち見ながらやって。研究会は10ぐらいしかなかったはずだから、すぐ終わると思う」
「うへぇ……めんどくせ」
紙束を渡され、辟易した顔でぼやいた。不満げなオーラを全身から立ち昇らせながらも直継の隣に座って言われた通りに作業を始めた彼方は、あることに気付いた。
「つーかさ、なんで今頃よ? 今日この数が一気に出されたわけじゃないっしょ?」
「先生のとこで止まってたらしいね。後朱雀さんが企画書受け取らないから、みんな先生に渡してたみたいだし」
「先生って生徒会顧問の愛理?」
「……ああ。そういえば相羽先生の名前って愛理だったっけ」
「んだよ。愛理、仕事しろよな。ったく」
「君が言えた口かよ……」
なんだかんだと言いながらも順調に仕事をこなしていく二人。一年近く生徒会、委員長を務めてきたこともあって、ぶつくさ言いつつも要領よく書類の束をこなしていった。
「今さらだけどさ」
「なにさ」
「これ全部却下ってできないわけ。仮にも期限過ぎてんだろ? 却下ですサヨウナラってやったって文句言わせないこともできると思うんだけど」
それができたらどんなに楽か、そう言いたげな溜息が直継の口から漏れた。
「相羽先生がいいよって言っちゃったからね」
「愛理、ほんと足しか引っ張らねーのな」
「本人聞いたら泣くよ」
「むしろ泣かせたいね、いろんな意味で。……あらやだ卑猥」
「もういいから、口じゃなくて手動かしてよ」
「へいへい」
まだ何か言おうとした彼方だったが、直継に強い眼光を向けられて口を噤んだ。
鳳霊学園にて11月に開催される学園祭、“鳳秋祭”は、鳳霊学園の高等部中等部合同で行われる唯一の学校行事である。それゆえ、規模だけで言えば鳳霊学園の中でも最大の行事であり、生徒たちの力の入れようも一味違う。同時に、彼ら執行部の負担も大きいものになる。
一月前にもなれば、忙しさも加速する。準備に焦る者が問題を起こしたり、似通った企画を持つクラスや部活同士の対立が問題化したり、浮かれて羽目を外す者も風物詩の如く現れる。これに対処するのは、学内の風紀を取り締まる治安委員会である。
学外からの来賓に応対するのは、基本的に外交委員会の役目である。それ以外にも、外回りを要するものに関しては一部を除いて外交委員会が担うことになっている。
これら二つの委員会は、準備期間から当日にわたって多忙の継続する委員会であるため、基本的に暇であるということがない。
「ほんっと、あたし書記でよかった」
「心底から言ってるのがよく伝わってくる。俺は今少し後悔してる」
「心の底から言ってるってのがよくわかる。高等部会ってそんな大変?」
「治安や外交に比べれば全然」
「あたしに対する嫌味かこのやろう」
直継が委員長を務める高等部会は、中等部をまとめる中等部会と連携を取ることで、高等部と中等部の情報の共有を容易にする役割がある。特に高等部会は、この時期は中等部がどういった状況にあるかの情報を得るために動いていることが多い。
直継が本来するはずでもない仕事をしているのは、たまたまこの日だけ手が空いていたところに生徒会顧問に目をつけられたというだけである。彼にとっては不運というより迷惑極まりないことである。
「まあ俺が忙しいのは鳳秋祭が始まるまでだし。むしろ、始まったら君らのほうが忙しいと思うよ」
「ん?鈴音とかはそうだろうけど、あたしなんかあったっけ」
「2日目にあるじゃないか。出場者が少なかったら出るんでしょ」
「……そういやあったね。考えただけで頭が痛くなる」
執行部の女子らには、委員会とは別に課せられている役目がある。それが、鳳秋祭2日目に行われる生徒会企画、未だに出場する立候補者がほとんど上がっていないミスコンへの穴埋め出場だった。
「憂鬱だ……なんであたしらが」
「意外だね。彼方なんかは乗り気だと思ってたけど」
「んなわけあるか。あんな人を見世物にするようなもの……廃れてしまえとさえ思ってる」
親の仇に向けるような声音で言う彼方に、直継は驚きを隠せない。
「へえ。彼方がここまで露骨に毛嫌いするなんて珍しいこともあるもんだ。なんか嫌な思い出でもあるの?」
「いや、そんなのは別にないけど――」
「ちわーっす! みんな元気ーっ?」
彼方の声を盛大に遮って、ハイテンションに扉を開けて入ってきたのは、生徒会第一書記の片桐亜美だった。第一書記の彼女がこの教室を訪れることに不思議なことはないが、二人を多少なりとも驚かせたのは、亜美が私服を着ていたことだった。
「なんで私服……? てか、今日欠席だったよね」
「いやー、今日実は来るつもりなかったんだけどさ。野暮用で近く通りかかったら、みんなの顔が見たくなっちゃって。生徒手帳は持ってたから来ちゃった」
この時期、3年生の一部は進路を既に決め登校の必要がなくなっている(残りの単位は課題の提出で取得可能である)が、亜美はそれに当てはまらない。その上で来るつもりがなかったと言っていることに、二人はさらに首を傾げることになった。
「てゆーか、今二人しかいないの? 他のみんなはお仕事?」
「あたしらだって仕事してるよ。ってか、よくそんなカッコで校舎入れたね。見咎められなかった?」
「何人か先生には見られたけど、別になんにも。日頃の行いのおかげだよねー」
亜美は私服というだけでなく、髪にウェーブをかけ顔には化粧を施し、右耳にはイヤリングをつけているという、少なくとも学び舎には似合わない様相だった。普段から制服を着崩すこともある彼方が「そんなカッコ」と言うのも無理はない。
一応、普段はかけていない赤縁の眼鏡が化粧っ気を緩和しているようでもあったが、普段かけていない分ファッション的意味のほうが大きくも感じられる。逆に、プライベート感を強調する結果となっていた。
「でも、亜美の私服って久しぶりに見た気がするね。ずいぶんと印象も変わるもんだ。一瞬、誰かわかんなかったぐらいだし」
「でしょー? 新しく買ってみたんだよね、この服」
直継の感想に応じて、見せびらかすように一回転するとスカートが翻り、亜美の白い太腿が二人の前に露わとなった。彼方が「ひゅう」と口笛を鳴らすと、亜美はその視線の先にある自身のスカートを押さえて上目づかいに彼方を睨む。
「あ、見えた?」
「キレーな太腿なら見えた。めちゃくちゃ揉みたい肉付き。てか、触らせて」
「だめー。私、好きな人には操立てるタイプだから」
「そういうこと言われると穢したくなるじゃん。どれ、いっちょ――ぐえ」
両手の五指を怪しく蠢かせていた彼方は、唐突に直継に制服を引っ張られた。潰された蛙のような声を出しながら直継が引っ張るに任せ、元いた席に腰を下ろした彼方は、不満げに口を尖らせて抗議の声を上げる。
「ぶー。暴力はんたーい。これは不当な扱いに断固異を唱えるものであるー」
「俺は事前に性犯罪を食い止めただけだから。犯罪の抑止、防止のためにはやむを得ない力の行使なのだよ」
冗談めかして言った直継の言葉に、彼方は心底不快そうに顔を歪めた。
「うわ、ひでえ。だから国営ヤクザとか言われるんだろーが。ちったあ無辜の民をいたわれっての。お前の親父さんにも言っとけよ」
「やだね。あんな冷徹と頑固が服着て歩いてるような人に意見なんてしたくない。なにされるかわかんないし」
本気8割で語る直継に「どんだけよ」と苦笑混じりに返す彼方は、数回会っただけの件の人物について懐いた印象が間違っていなかったことを知る。
と、そこへ、教室の机に鞄を置いてケータイを見ていた亜美が笑いながら口を挟んだ。
「直継くんのお父さんって、怖い人なんだねー」
「……まあ、それについては否定しないよ。父親じゃなかったらできるだけ関わり合いにならずに過ごしたい類の人だから」
「ずいぶん毛嫌いしてるんだねー……」
亜美まで笑みを苦笑に変え、家族を悪し様に言う直継に戸惑いを見せる。
直継がこうもあからさまに嫌悪を表すことは滅多にない。それを知っていた彼方は、苦笑を表情に固定したまま黙ってしまった。教室に重苦しい空気が下りる中、
「そりゃあね、」
直継は続けて、
「暴力団との癒着に加担してる人が親だなんて、思いたくもないし」
その空気をさらに重くする一言を投下した。
彼方は、苦笑のまま「おいおい……」と咎めるような視線を直継に向け――
亜美は、一切の感情が抜け落ちたかのような表情で、直継を凝視していた。
視線を固定させる直継を怪訝に思った彼方が、その視線を追って亜美の表情に目をやり、ぎょっとした顔で二人を交互に見ている間も、二人は見つめ合ったままだった。――いや、視線は確かに互いに向けられていたが、その目は互いの目ではなく、もっと別の何かを見ていた。
――しばらくして、
「お、おーい、お二人さーん……?」
「……あ」
「――」
鉛よりも重い空気に耐えきれなくなった彼方が小声でそう言うと、二人はようやく視線を逸らした。ひどく重苦しい空気は霧散して消えたが、彼方の深く落ち込んだ気分は改善しない。
「あー……、さすがに聞いてて気分のいいものじゃないね。さすがに引くか。変なこと言って、ごめん」
二人を見ようともせずに謝罪を口にする直継の顔には、後悔の念が浮かんでいた。それを横顔から見取った彼方は、開こうとしていた口を噤み、直継に対する亜美の反応を伺った。
「……」
亜美は沈黙していた。彼方にはこれが不可解だった。先ほどのやり取りに落ち度があるのは、余計なことまで口走った直継だ(と、彼方は思っている)。亜美がそれに過剰反応を示す理由がわからなかった。暴力団云々について問題があるにしても、あの天真爛漫な亜美から表情を消させるようなことが――?
「……いいよ。私も、びっくりしただけだから。気にしないで」
そう言った亜美は笑っていた。――彼方が見る限り、最も無理をした笑みだったが。
彼方にも直継にも、突っ込んで事情を問い質す勇気はなかった。
直継に亜美のことを案じることのできる余裕があったかは定かではないが、彼方は自身の中で渦巻く好奇心を自制心で駆逐する必要があった。そこまでしてようやく、空気を換えてしまうべく今度こそ口を開いた。
「まあ遊びに来るのもいいけど、今日限りにしとけよ? 生徒会書記が反面教師になることないんだから」
「え……あ、うん。……あの、ところでさ、奈都海くんはどこにいるかわからない? ここに来る途中で副委員長に聞いたんだけど、あの子もわかんないって言うし」
唐突な話題転換に亜美も戸惑ったが、その意図を察して、若干不自然ではあっても自らも話題転換に貢献しようとそう訊ねた。
彼方は首を振って否定し、直継に視線を投げる。
「さあ……彼女にわからないなら、今一緒にいる人しか知らないんじゃないかな。直接ケータイで聞いてみれば?」
「えー? 奈都海くん、私のメール気付かないふりして無視するんだもん。ひどいよねー」
「それこそ、日頃の行いのおかげだろ」
彼方に切り捨てられ、亜美は「ぶー」と頬を膨らませた。正論だということはわかっているためか、言い返しはしない。
直継は内心、目の前の女子二人の切り替えの早さに嫌味抜きで感心していた。自分が重くした雰囲気は、その名残すらなく霧散してしまっている。軽口を言い合う余裕まである。雰囲気を害した張本人であるということを差し引いても、自分ではこうも割り切れないだろうな、と笑みすら交わす二人を見ながら、直継は自嘲気味に笑っていた。
「まあいっか。元々自分で探すつもりだったし、そうする」
直継の健全とは言い難い心中を知らない亜美は、鞄にケータイをしまいながらそんな宣言をした。直継は一瞬、なんのことかと考え込んでしまったが、すぐに奈都海のことだと思い出す。
「じゃーね、また明日」と二人に手を振りながら、亜美は生徒会室を後にした。
「あいつ、あのカッコのまま学園中歩き回るつもりかよ……」
亜美の背中を見送っていた彼方は、それが見えなくなってからようやく、溜息混じりに呟いた。とはいえ、呟くだけで着替えろなどと忠告することもなく、すぐに中断していた紙束とのにらめっこに没頭することになる。
その彼方の横顔を見ながら、直継は
「……見てて痛々しいよね」
とだけ口にした。
彼方は――意味を正しく察して、聞こえないふりをした。
◇◇◇ ◇◇◇
帰宅した少女を、男が待ち伏せしていた。
二階建てのアパート。一目見てボロアパートという言葉が最初に浮かぶ程度には年季の入った外観。錆の目立つ階段を上ってすぐ、少女は自分の部屋の扉の前に見覚えのある男の姿を見つけた。
「おかえり」
「……」
無言で睨む少女の前で不遜に笑う男。スーツの男と高校の制服を着た少女の対峙は、やもすれば犯罪の影を見ることもできたかもしれないが、生憎人通りはなかった。
「今月の分は払ったはずですけど」
「そうなんだがなぁ……ちょいと返済に時間がかかりすぎじゃねぇかって話が出てきててなぁ」
「……」
睨む少女の眼光がより鋭くなる。男は表情一つ変えずにそれを見据えていた。
「利子上乗せするって言ったら、どうする?」
「心中します。自分の頭脳のあらん限りを尽くして、あなたに殺害容疑が向くように仕向けたうえで」
「へぇ……脅してんの?」
「……いい加減、退いてもらえません?」
言われて、男は笑みを深くしつつ肩を竦めて玄関扉の前から身体を移した。鞄から鍵を取り出す少女の横で、男はケータイを取り出して弄ぶ。
「しかしこっちも仕事なんでね。返すと言った分は返してもらわねぇと」
「ハッ、仕事? やってることは犯罪そのものでしょ。なんであんたらみたいな犯罪者が野放しに……!」
「犯罪者ぁ? 犯罪者、ねえ……ククッ」
おかしくてたまらない、とでも言いたげに声を上げて笑う男を、少女は怒りに不安を混在させた目で、依然睨みつける。
男は、笑いながらとんでもないことを暴露した。
「同じ穴の狢、だろ?」
「ッ!」
少女の顔から、サッと色が失われた。鍵を持つ手が震え、キーホルダーがカチャカチャと音を立てる。
「犯罪者って意味で言えば、俺らは同じ人種だろーが? なぁ?」
少女は戦慄した。こいつは全て知っている。何をしているかも、それがどれだけ自分にとって致命的な弱点なのかということも。
知られてしまった。もはや、全てのアドバンテージはこの男にある。今までのように、さっきまでのように、反抗することさえ許されないのだと悟った。どんな理不尽なことを求められたとしても、それがこの男の言葉だというだけで、自分は逆らうこともできないのだということを知ってしまった。
考え得る限り、最悪の状況だった。
“最後の手段”を取らなければならないと、少女は諦めるしかなかった。
だから少女は、鞄の中に右手を差し入れて――
「あれ。おっちゃん、何してんの?」
全く予期していなかった声を耳にして、少女の手は寸でのところで――鞄から刃が覗くその直前で止まった。理性が、手を止めていた。
考えてみれば、この程度のことは簡単に予測できたことだ。なにせ、少女の理性を覚醒させたその少年は、彼女の弟なのだから。
「おぅ、坊主。って、誰がおっちゃんだよ、こら。俺はまだ20代だぞ?」
「28だろー? 親父だよ、親父」
「言ったな、坊主? 今日こそ訂正させてやんぞ、こらぁ!」
男は、それまでの少女に対する態度にない、父性すら窺わせる表情で彼女の弟に応じる。そんな男に、少年は懐いていた。少女には非常に不可解かつ不快なことに、この男とじゃれている時が、弟の笑顔を見ることのできる数少ない機会でもあったのだ。
妬みと惨めさに顔を歪める少女は、わざとらしく「ねーちゃん助けてー」などと怯えるふりをしている少年の手首を掴み、素早く鍵を開けて部屋に引っ張り入れた。扉を閉めて、弟と男を分断する。
少年は、姉の取った尋常ではない行動を訝しみ、心配そうに見つめていた。
「……ねーちゃ」
「手洗ってきな」
「……」
「早くッ!!」
びくりと肩を震わせる弟を見て、自分が声を荒げてしまったことに気付いた。しかし、だからといってどうすればいいかもわからない少女は、唇を噛んで自らの中で燻る怒りを鎮圧することしかできなかった。
「何も、そんな強く言うことないだろ」
扉越しに男の声が聞こえて、その努力も水泡に帰した。
「……あなたには関係のないことです。さっさと帰ってください!」
「いや、まぁ、そうさせてもらうけどよ」
ブツッ、と、犬歯が下唇を噛み切った。口の中に、わずかな血の味が広がる。
怒りのあまり、痛みすら感じなくなっていた。その代わり、怒りと悔しさが彼女を苛んだ。こんな境遇に甘んじている悔しさと甘んじなければならない自分の力不足への怒り。もう、限界も近いかもしれなかった。
「……助けて、誰か……」
俯いた少女の口から漏れた静かな悲鳴は、誰に届くこともないまま消えた。
とてつもなく難しい問題を扱っている気がして、先を書くのが怖い今日この頃
一応、着地点は決めているのですが、そこまでの過程について、これでいいのかと悩んでいるところであります
というわけで、次の投稿は……お察しください




