12 父が母の旦那であることの不思議。
姉の話の中に父が登場した。
姉という人間が家からいなくなって、一番嘆いたのは父である。
可愛い娘が嫁に行ったことより、捻くれた妻と、捻くれた妻によく似ている下の娘が残った。
その二人に挟まれた自分を嘆いたのである。
私の父は大学教授である。
とは言っても、私はぴんと来ない。
台所の換気扇の下でくたっと台に寄り掛かり、煙草を燻らせているイメージが強い。
草臥れ中年男性である父は、中肉中背、無精髭を生やしており、眠そうな垂れ目をしている。そんな疲れ切った感を漂わせている中年男性が若き青年たちの前で教鞭をとっている姿が想像出来ない。
その前に、母の旦那である事実が信じられない。
*
母とお茶をして、その仕事場から立ち去った後、午後になって起きて来たらしい父と出くわした。
くたっとした草臥れ中年男性は、台所の換気扇の下で煙草を吸って、眠そうな目をこちらに向け、「ああ」とぐだっと言うのである。
「朔羅ちゃん、夏休み中も大変だそうだね。青春しているそうだね。お母さんから聞いているよ」
だが、間違いなく母と父は夫婦なのだから尚更信じられない。
「青春か。解からない。大人は青春って、高校生を言うね」
「青春っていうのはね、過ぎてみると、ああ青春だったなぁと思うんだよ。そういうもんなんだよ」
おとーさんも高校のときは青春だなんて思わなかったなぁ、とか言う。
自分の懐古に浸るあたりとか、理屈っぽいところとか、煙草っぽいところとか、母が嫌いそうな性質をいくつか持つのに、どうしてか彼が母の夫で、私の父なのである。
あれだけ捻くれているから、自分の考えと逆行している人間と結婚しようとか思ったのだろうか。
換気扇に向かってはぁと溜め息混じりに煙を吐いて、父はうっとりと言った。
「お母さんは昨日も今日も綺麗だなぁ」
結婚何年目だ。
母に惚れ込んでいるという時点でこの人も相当変わっている。捻くれていて、人をからかってにやにやしているような性格の母は、見目が麗しかったり頭が良かったりすることに価値を置いたとしても、とても可愛いとは言えない。金平糖を手掴みしてばりばり食べているような女性である。
切れ長の瞳を細め、薄い唇に綺麗に微笑を浮かべて、一個人の自尊心から主義から性格から性質から何から何までへし折りかねない、それが母という人間である。
母の前で、虚栄心や思い込みの激しさや自分の能力をひけらかすような態度をとった男は、自慢や自分に都合の良い論理や理屈を見事に粉砕させられてみな尻尾を巻いて逃げ出したという。
誰に対しても、あくまで母は人を食ったような態度とからかってにやにやするような性質を変えなかった。その代わり、尊敬すべき人を認めたら決して失礼な真似をしないし、好ましいと思った人間に対しては誠意を持ち、信用する。
尻尾巻いて逃げ出すどころか結婚している父は、母という限定されたジャンル内の最高峰といえる。
「お父さんは何でお母さんと結婚しようと思ったの?」
「朔羅ちゃんはお父さんとお母さんの恋バナを聞きたいお年頃かなー?」
「そういうことにしとこう」
「なるほどぉ」
父は煙を吐き出して、換気扇を見上げて考える。
「お父さんがね、何だかよく解からないけど、お母さんに惚れちゃったわけよ。惚れちゃったら最後、惚れ込んじゃったのよ」
「あのお母さんに、ねぇ」
「人生って不思議だよねー」
煙草を吸い、また煙を吐き出す。
「あの人は非凡だから。あの人といるとね、男のプライドずったずたですよ。
当たり前だと思ってたことも、ぐらつかせる。完璧だと思ってたことも、自信をなくさせる。
お父さんはことあるごとに惨めですよ。
だけど、どれほど自分が男として意識せざる意識を持っているか、解かるんです。
社会的な立場として、役回りとして。男は強いとか、女は弱いとか。
そういう意識、男が意識しようとしない目を背けたいような差というやつを思い知らされるんです」
べたっと台所の台に張り付いて、父は言う。
「だからねー世界中の男という男の危機感が働いて、お母さんという存在を捕まえてろっていわれてる気ぃするね。俺はお母さんと結婚して捕まえておくよう使命付けられて生まれて来たんじゃないかって。大いなる力が働いてね。
お母さんの考え方は、ともすれば男に都合の良い世界を覆すかも知れないからね。俺はそういう義務を持って生まれたのかもね」
まあそれでも一向に構わないけどねとか言う。
「それは母を買い被り過ぎやしてない?」
「本当にそう思う?」
煙草を咥えて、横目で情けなさそうに、父は私を見る。
「貴女を幸せにしたいんですって言ったら、私を自分が幸せにするなんて思い上がった考えを捨ててからにしろって言ったんだよー?幸せにしたいってプロポーズが、全ての女性をときめかす言葉じゃないって、初めて知ったよ」
『情けなさそう』にしているだけで、父はその思い出を楽しんでいる。情けない、草臥れた自分を演出して、母の考え方を知って楽しんでいる。自分の状況を楽しんでいる。
母はきっとそれを知っている。それを知っていて、にやにや意地悪く笑って、知力を振り絞ってからかい甲斐があるとか思っているのであろう。
二人の関係は、うわて、またうわてをいくといったやりとりで成り立っている。
父が大学教授ということにぴんと来ない一番大きな理由は、母にある。
小さい頃、母に父の職業が何か訊いたら、「無職だよ。」とにっこりして言われた。小学校中学年まで私はそれを信じてきたのだが、ある日母に連れられて父の勤務する大学に行ってショックを受けた。
父が教壇に立って、学生を前に授業をしていたのである。
「お父さんは先生じゃないのにどうして教えてたの?」と後で聞くと、父は嘆きに嘆いた。
「おとーさんは頑張ってるんだよぉぉぉー?やる気がなかったり寝てたりする学生の前で必死に何か脳味噌に知識を植え付けてやろーと声に独特の節をつけたり特殊な音波を出したりして努力してやつらを洗脳しようとしてるしがない大学教授なんだよぉぉぉぉ。それなのに朔羅ちゃんたらひーどーいー!!
誰?!朔羅ちゃん、お父さんが先生じゃないって言ったのはっ誰!!」
「私だねぇ。」
「蓮華さぁんっ!愛がなぁいっ!!」
蓮華さんこと、母は意地悪くにやにやしていた。
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