65 続々女郎花《おみなえし》
沢村は手にした刀を腰に挿し、草履を履き庭へと降りていく。
「……もう、止して下さい。宗右衛門殿、止して下さい!」
必死に叫ぶ若橘を宗右衛門は笑った。
「簡単な事だ、お前が此方へ来るだけで良いのだ」
「行かなくて良い……若橘、私がそなたを守る。いくら宗右衛門殿であっても、容赦はせぬぞ!」
沢村の言葉を宗右衛門は鼻で笑った。
「沢村、自分の腕を過信するでない!! お前を倒してでも、俺は若橘を連れて帰らねばならん」
宗右衛門は刀を抜いた。
刀が人の血を欲するように、鈍い光を発する。
「若橘、下がっておれ、此れは私と宗右衛門殿との話だ……」
近付こうとした若橘を沢村は制した。
沢村も刀を抜く。互いに低い体勢で構え、相手の様子を伺う。仕掛ける瞬間を狙うが、そう易々と、双方共に隙など見せるものではない。
睨み合い、気迫を漲らせる。ほんの一瞬の呼吸の違いが、生死分ける戦いである。
若橘は息を呑んだ。下手に声を掛ければ、其れに気を取られたほうが、命を落とす。
機が熟したか、双方から斬り込んだ刀が合わさり、火花が散る。そして、また双方が離れた。
どれ程のものか、味わうように互いの剣の腕を見極める。
沢村の後ろに居た若橘は、裸足で庭へと駆け下り、懐剣の鞘を投げ捨て、自分の首に刃を突きつけた。
「……自害致します、沢村様と離れる位なら、自害致します!!」
若橘の目からは涙が零れ落ちており、本気である事だけはよく分かる。
其れを見た宗右衛門の目がきらりと光り、若橘へと刀を向ける。
「若橘、そんな事をしても無駄だ!! 其処を退きなさい!!」
「嫌でございます!! わたくしは沢村様を失ってまで生きていとうござません……宗右衛門殿が抜けさせてくれぬなら、死にとうございます」
若橘の手は震えていなかった。確かに、しっかりと懐剣を握り、その首に当てられている。本気で死ぬつもりのようだった。
「……若橘、まだ死ぬな。私が死ぬとは限らぬ……宗右衛門殿を倒せば良い!!」
沢村の言葉に若橘は涙を流しながら、首を横に振った。
「いいえ、宗右衛門殿を殺めれば、里は追っ手を掛けます。けっして逃れられるとは思えません。沢村様を巻き込んだわたくしが悪いのです……」
若橘がそう言ったとき、若橘が手にしていた懐剣が、鎖に巻き上げられた。
空を飛んだ懐剣を、一人の男が自分の方へと鎖で導いた。
若橘の懐剣を手にしていたのは、翔太だった。
翔太は若橘の横に降って湧いたようにすっと現れた。
「おい、いい大人が何の真似だよ?」
唖然とする若橘の横で、翔太は彼女の懐剣を手にして、にたりと笑った。
「何やってんだ? お前。こんなおっさん達の喧嘩に巻き込まれて……」
「……翔太?」
若橘は泣き腫らした赤い目で、翔太を見た。翔太は若橘の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
「宗右衛門殿、こいつは連れて帰っても良いが、使い物になんねえよ。沢村にイカれちまってる。草(忍び)にしては身軽でもなく、走るのも遅い。ましてや、沢村以外の男に抱かれることもねえ……だろ?」
翔太は此処で言葉を切って、若橘を見た。
若橘は顔を赤くして、その翔太を睨みつける。こいつだけは、何が言いたいのか、全く腹の立つ男だ。
「……止めとこうぜ。其れより、沢村のほうが役に立つと思うがね?」
翔太は意味ありげに笑った。
こんな時に悪知恵が働くのが翔太だ。翔太の登場で張り詰めた場の空気が一気に、穏やかなものとなる。
「其れは如何いうことだ、翔太!!」
宗右衛門が苛立ったように、声を荒げ、翔太に尋ねた。
「沢村が仲間になれば、良いんだろ? ほら、饅頭屋の夫婦みたいにさ……」
「やっぱり、お前は馬鹿だ。あれは饅頭屋だから良いのだ。侍は違う、柵が邪魔をする。簡単にはいかぬ」
宗右衛門は取り合おうとしなかった。饅頭屋だから良いのであって、侍はそうもいかぬ。しかも、重郷に仕える家臣である。逆に情報が漏れる心配があった。
「……宗右衛門殿、どうせ此のままでは、殿はご隠居だ。柏井の方の始末を今夜つけたのであろう? もう、本家にとって、今の殿は必要無い。大内も大友もどちらも、殿のお味方にはつかぬからな。ご隠居されるのに、私は付いて行こうと思う。岡垣城近くにご隠居の為のお屋敷も、探してきた……」
そして、沢村は刀を捨て、その場に土下座をした。
「……頼む、若橘を私に頂きたい……」
其の姿に、若橘はまた涙を流し、沢村の横に自分も座り、手を突いた。
「……宗右衛門殿、お許し下さい。もし、お許しにならないと謂うのであれば、此の場にて、切り捨てて下さい」
宗右衛門は一瞬、天を仰いだ。
その宗右衛門の元で、翔太も跪く。
「宗右衛門殿……生意気言いました。ですが、許してやって下さい……侍が必要な時には、沢村様を呼んでは如何ですか? 重郷公に仕えるばかりでは、沢村様の腕がもったいないというものです……来てくれますよね!?」
翔太は沢村を見て、愛嬌のある笑いをした。
遣ろうと思えば、こんな可愛らしい笑いが出来るのだと、若橘は思った。
「……負けですね、宗右衛門殿……」
何時しか、隼人が宗右衛門の後ろに立っていた。
隼人は翔太を見て笑った。
上手くやった、と誉めているようだった。
隼人は志乃との別れを済まして来たのだろう、すっきりとした顔をしていた。
「若橘、此の筑前に居てやれ、紅梅姫様も志乃も此の筑前の地で眠っている。お前が二人の分も此の筑前で幸せになってくれ」
「おい隼人、若橘を此処に残す事を認めたような事をいうな!!」
宗右衛門は低い声で、隼人を叱った。
だが、隼人は怯むことは無い。
「……宗右衛門殿、もう、答えは決まっている筈です……許してやるのでしょ?」
宗右衛門は隼人のその言葉に、自分の刀を鞘に納めた。そして、彼らに背を向け、背後の沢村にこう語った。
「……用が有る時は必ず呼ぶ。此の筑前で待機していてくれ。此れから俺達は東へ行く。東に織田信長という、面白き男が居るそうな。まだ若いが、此れからはあのような男が、天下を揺るがすのかもしれん。大内の権力も、大友の武力も、何時まで続くか……この世とは面白い。若橘と、笑って過ごすが良かろう……若橘、沢村殿の良き子を産むのだぞ」
宗右衛門は白み始めた東の方へと歩き出した。
其の後を、翔太と隼人も付いて行く。
翔太は若橘の頭をくしゃくしゃともう一度撫でた。
隼人は片手をだるそうに挙げ、手を一回だけ振る。
其の無言の仕草には二人の思いの丈が、全て詰まっていた。
若橘は沢村に肩を抱かれ、三人の後姿を何時までも、何時までも見送った。
もしかしたら、此れが今生の別れになるかもしれない。
若橘の涙は止まる事無く、流れ落ちる。
よく見ると、三人が歩いて行った道の脇には女郎花が、黄色い敷物のように沢山、咲いていた。
薄暗い、東へと伸びた道を、黄色い女郎花が明るく照らし、三人を導いていくようだった。




