プロローグ. アラクネの屋敷
プロローグ
その日はひどい土砂降りだった。昼に旅立った時は雲ひとつない快晴だったのに、日が暮れる頃から突然重たい雨粒が地面を叩き始めた。結局、真っ暗な夜になっても雨は止むどころかさらに激しくなり、カシオは突然の不運を恨みながら大きな木の下で雨宿りしていた。
「こうなるなら、急がずにさっきの村でもう一日休んでから移動すればよかったな」
よりにもよって人家ひとつ見えない山道。今日中に山を越えなければ娘の誕生日に間に合わないと思い急いだ結果が、こんな疲れる事態を招くとは。小雨程度ならどうにか移動できただろうが。
「はあ、これは駄目だな。下手をしたら滑って怪我をする」
ランタンはあるが問題は暗闇ではない。前もよく見えないほど大粒の雨が降っており、灯りに頼っても周囲が見えにくい。それに服越しでも痛いほど荒々しく、木の下にいても容赦ない自然の怪物は頬や服を打ちつけ、体温まで奪っていく。
(今からでも引き返すべきか? だが距離を考えれば、どちらへ行っても遠くて危険なのは同じじゃないか)
頼れるのはランタンひとつ。地面はぬかるみ、まともに雨も避けられないので野宿もできない。だがここで立ち尽くしているのも危険だ。数日間移動し続けて疲労は溜まっているし、早く風雨をしのげる場所を見つけなければ体温が下がって死ぬかもしれない。
(雷が落ちそうではないし、もっと枝や葉の多い木を探そう)
寒さに身を震わせた男は背負っていた鞄を胸の前に抱え直し、大事そうに抱きしめた。鞄の中には商売で稼いだ金と、娘のための大切な誕生日プレゼントが入っている。
(せっかく商品を全部売れたのに。風邪をひけば薬代で消えるんだから、病気にはなれない)
平凡な商人。いや、正確にはあまり商売がうまくいっていない貧しい商人であるカシオは、家で待っている家族を思い浮かべながら冷えていく身体を無理やり動かした。娘の好みに合わせて買った可愛らしい人形。
プレゼントを受け取って喜ぶ娘の顔。妻は彼を見るなり抱きしめ、温かい食事を出してくれるだろう。この山を越えればそれなりに大きな村があるので、そこで馬車に乗ればすぐ家に帰れる。カシオは風邪はもちろん、転んで怪我をしないよう細心の注意を払った。
どれだけ金を稼いで帰っても、怪我や病気の身体で帰れば喜ばれるはずがない。身体を壊せば金も稼げず、この金を家族ではなく自分の治療に使うことになる。普段から収入は乏しいのだから、自分で金を減らすような真似だけは絶対にしたくなかった。
しかし雨脚は弱まる気配もなく、森の土をますますぬかるませてカシオを困らせた。不安定な小さな灯りを頼りに森道を進んでいたカシオは、もう限界だと倒れそうになったその時、幻のように立派な屋敷を目にした。
最初は幻覚かと思った。この近くの山にこんな大きな屋敷があるなど、一度も聞いたことがなかったからだ。
(ものすごく大きいな。なぜこんな森の真ん中に屋敷が? 貴族の別荘か? まあ何でもいい。とにかくあそこで雨をしのごう)
大きさだけ見ても普通の人間には買えない建物は、金持ちの所有物だという推測を抱かせる。だが大きいだけで灯りひとつなく、寂れた不気味な雰囲気にカシオは一瞬立ち止まり、建物をよく観察した。
これほど大きな建物なら管理人がいるはずだ。しかし人の気配はまったくなく、ランタンで壁を見るとあちこちが腐食している。もしかすると廃墟なのではないか。しかし風雨を避けられるなら、幽霊屋敷でも構わない。
疲れ切って寒さに震える男にとって、幽霊よりも休める安全な場所の方が重要だった。それでも念のため、大きな門をドンドン叩いて人がいるか声を張り上げた。
「どなたかいらっしゃいますか?」
誰もいなければ無理やり入って朝まで世話になるつもりだった。しかし予想に反して、中から勢いよく扉が開き、彼を迎えてくれる人物がいた。
「あらまあ、こんな深い森まで人が来るなんて」
幽霊屋敷のような外観とは似つかわしくないほど、神秘的で妖艶な雰囲気を漂わせる美しい女性だった。まさか本当に人がいるとは思わず、カシオは驚いてしばらく言葉を失った。反対に女性は予想外の客の来訪にも驚かず、微笑みを保ったままだった。
「あの、失礼します。森を通っていたら突然雨が降ってきまして。よろしければ明日の朝まで泊めていただけないでしょうか」
朝になっても雨が止まないかもしれないが、それは明日考えればいい。落ち着いて助けを求めながら、カシオはどこか違和感のある女性がこの館の主人なのか、それとも管理人なのか推理し始めた。
普通に考えれば管理人だろう。しかし働く人間というにはあまりにも美しすぎる。普通の女性には感じにくい、上流階級特有の威圧感のようなものがある。
だが顔ではなく服を見ると、特別良い素材やデザインではない。真夜中に灯りひとつ持たず客を迎えた女性は、頭からつま先まで冷たいほど白い髪と肌、そして衣服をまとい、まるで幽霊を思わせた。
寝間着だから簡素なのかもしれないが、それでも裕福な人間が着るような素材ではない。もしかすると一人で放置された別荘に追いやられた不遇なお嬢様なのだろうか。
「もちろんです。どうぞお入りください。こんな大雨の中、大変でしたでしょう」
女性は優しく微笑んだが、異様に白い顔とは対照的に瞳だけが赤く輝いていた。まるで獲物を前にした獣の目のようだった。カシオは本能的にぞっとする恐怖を覚えたが、再び嵐の森へ戻りたくはなく、その感情を必死に押し隠した。
「山の天気は気まぐれですから、こうして突然雨が降ることもあるんです。でもたぶん、明日の朝には止みますよ」
優しく手招きし微笑む彼女から、何か怪しい違和感を感じ取ったのは生物としての直感だった。というのも、立派な大きさの屋敷なのに内部は人が住んでいるようには見えなかったからだ。積もった埃、人の温もりを感じない冷たさ、カシオの灯り以外に光ひとつない空間。
(使っていない場所を放置しているだけか? きっとそうだろう)
身体に溜まった疲労と激しい雨、そして遅すぎる時間という条件がなければ、カシオはこんな幽霊屋敷にわざわざ泊まろうとはしなかっただろう。だが雨だけだった空からついに雷鳴が響き、思わず白い女性について行ってしまった。
「本当にありがとうございます。朝になったらすぐ出ていきます」
屋敷の中まで雨音が聞こえるほど外の天気が荒れているのか。それとも屋敷が古すぎて音を遮れないのか。カシオの心のどこかで早くここを出ろと警告が鳴っていたが、彼の身体は疲労に屈していた。
せめて風雨を避けられただけでも震えていた身体が落ち着いてきていたからだ。白い女性はゆっくり休むよう優しく言い残し、カシオを一階の部屋に残して去っていった。閉じた扉の向こうで足音が遠ざかるのを確認して、彼はようやく安堵の息を吐き、胸に抱えていた鞄を下ろした。
「なんて幽霊みたいな女なんだ。魔物かと思った。でも部屋は綺麗だな」
客室として用意された部屋は簡素な家具しかなかったが、それでも十分使えるほど清潔で壊れた箇所もなかった。やはり人が使う部屋だけ整理して暮らしているのだろうか。
(金持ちの別荘管理人にしては管理状態が酷いし。捨てられた屋敷にこっそり住む人もいるって聞いたことがあるな。まあいい。疲れたし早く寝よう)
カシオは鞄の中の可愛い人形が濡れていないのを確認して満足そうに笑った。奥には妻のために用意した化粧品もある。金も無事だから、今回帰れば半月ほど家族と過ごせるだろう。
(あれほど欲しいとねだったんだから喜ぶだろうな)
早く娘と妻の顔が見たいと思いながら、カシオは鞄を閉じ、濡れた服を適当に脱いで布団にもぐり込んだ。そして力を抜いた瞬間、果てしない眠りの底へ引きずり込まれた。
辛い商売と長旅の疲れ、無事に終えられた安堵感。その重みがそうさせたのか、彼は驚くほど早く深い眠りに落ちた。しかし熟睡しているはずなのに、言いようのない息苦しさが襲ってきた。意識は眠っているのに、身体だけが目覚めている。
(苦しい)
丈夫な布で全身をぐるぐる巻きにされたように手足が動かず、呼吸も苦しい。金縛りだろうか。疲労が溜まりすぎて、身体が眠っていても頭が休めていないのかもしれない。そして何より耳元で聞こえる不気味な音が気になった。
カサカサ。無数の虫の脚が木を這うような不快な音。以前、森の近くの宿で巨大なムカデがそんな音を立てて移動していたのを見た記憶がある。ついに耐えられなくなったカシオは無理やり目を開けた。暗闇だ。そしてその闇の中で、背筋が凍るほど無数の赤い点を見た。
「ひっ!」
「あら。目が覚めてしまったのね。まだ繭にしていなかったのに」
暖かな灯火ではなく、魔物の身体から生まれる不吉な光。目の前にある無数の赤い点が魔物の瞳だと気づいたカシオは、全身に鳥肌が立ち、息が止まりそうになった。ゆっくり顔を近づけてきたのは、数時間前に彼を迎えた白い女性だった。
しかし今の彼女は違う。人間の女性の上半身の下に、巨大な白い蜘蛛の胴体が繋がっている。本でしか見たことのない伝説級の魔物アラクネ。そして周囲には普通の蜘蛛より遥かに大きく、人の頭ほどもある蜘蛛が何千匹も脚を動かしながら不快な音を立てていた。
「ま……魔物。蜘蛛」
震える声で正体を指摘すると、人間のような女性型の魔物はにっこり微笑み、いたずらっぽくカシオの頬を軽く叩いた。しかしその指ですら虫の脚のように不気味に感じられる。
「そのまま眠っていれば、何も知らずに楽に死ねたのに」
「アラクネ? じょ、上位魔物は……人間を食べな、食べないって……」
人間の言葉を話せるほど長い年月を生きた魔物は数えるほどしかおらず、出会えることも数百年に一度あるかないかだという。情報も古い本に書かれた信憑性のない内容であり、伝わる話に過ぎないのだから、あるいは間違っているのかもしれない。だがアラクネは相変わらず微笑みを浮かべたまま頷いた。
「そうだ。人間もその程度は知っているのだな。もちろん私も人間をそれほど美味しいとは思わない。だが栄養が豊富だから、必要な時があるんだ」
せっかく意識を取り戻したのだから、なぜ死ぬのか理由くらいは教えてやろうと思ったのだろうか。白い魔物は親切にも、カシオの頭上にある巨大な蜘蛛の巣の間にぶら下がった黒い蜘蛛を指差した。人間の姿ではないが、馬車三台を合わせたほどもある巨大な蜘蛛だ。しかし下にいる蜘蛛たちと違い、ぴくりとも動かないのが不自然だった。
「残念ながら私の夫は私より弱くてね。数年前、交尾の最中にうっかり少し食べてしまったせいで、体がひどく弱ってしまったんだ」
アラクネより少し弱い上位魔物。傷を治すには栄養豊富な動物、あるいは人間を食べるのが一番だという意味だ。それがカシオが死ぬ理由だった。しかし、この世の誰が死を喜んで受け入れられるだろうか。カシオは死にたくなかった。
死ぬつもりなどないどころか、彼は天井に吊るされた巨大な蜘蛛を見た瞬間、恐怖を超えるある感情を抱いた。この空間を埋め尽くす蜘蛛と山のように積み上がった蜘蛛の巣。それを見た途端、商人の頭は高速で回転し始めた。魔物の糸は普通の糸よりも高価であり、上位魔物の糸ともなれば貴族や王族の衣服に使われる高級品だ。
ましてや伝説級魔物であるアラクネの蜘蛛の糸なのだから。貧しい商人は死の恐怖を前にして、自らが成功を掴んだ理想の未来を見た。それが勇気を与えた。そして勇気とともに利己的な心を呼び起こし、他人の犠牲を正当化した。
「助けてください。ティアラが、娘が待っています。もうすぐ誕生日なので、贈り物を届けなければならないんです」
「だめだ。せっかく体格のいい人間が捕まったんだから。さあ、まず口を塞いで息の根を止めなさい。暴れられると消化によくない」
「代わりに他の人間をたくさん差し出します! 望むなら継続的に何人でも捧げます!」
その場しのぎの出任せではないことは、生きたいと願って輝く必死な目を見れば分かるだろう。アラクネは獲物に過ぎない人間の叫びよりも、その揺るぎない瞳の奥にある感情に少しばかり興味深いものを感じた。そこで彼に近づく子蜘蛛を手振りで止めると、いたずらっぽい笑みを浮かべて尋ねた。
「お前、何か別の企みがあるな。何だ?」
「あなたの作った蜘蛛の糸をください! その代価として、望むだけ人間を差し出し続けます。貧民街には身元不明の浮浪者や孤児がたくさんいますから、消えても困りません」
これまでこんな生意気な提案をした人間がいただろうか。蜘蛛の糸を狙った者は多少いたが、商人としての欲望が死への恐怖を打ち負かした人間は見たことがない。ほんのそれだけの興味に過ぎなかったが、長い年月を生きた魔物は人間が思うよりも寛容な面があった。
「そうか。確かに、一匹ずつ這い込んでくるのを待つのも面倒ではあるな。蜘蛛の糸を持っていかれたところで、私が困ることもないし」
闇の中でも赤い瞳はすべてを見通していた。人間の欲望が、激しく脈打つ心臓のように蠢いているのが、ほんの少しだけ面白かったから。
「いいだろう。では契約をしよう」
しかし魔物は魔物。寛大に見える行動の中には、人間とはまったく異なる恐ろしい価値観が宿っていた。
「お前の命を助け、蜘蛛の糸を与える。その代わり、お前は私の夫のための餌とともに、最も大切な人間を一人連れて来い」
最後の言葉を聞いた瞬間、カシオの表情がわずかに固まった。彼はこの経験を通して、魔物が決して親切ではないことを思い知った。
「そうだな。さっき言っていた娘がいい。その子を、私たちが結ぶ契約の『証』にしよう」
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