人間一人を救うために
人間一人を助けるために、ゴキブリが何匹必要か。
答え。
多ければ多いほどいい。
「ギッ、ギギッ」
「クロちゃん。六匹で突っ込めば、たぶん六匹まとめて捕まります」
訂正。
数だけでは駄目らしい。
俺たちは、レンを連れ去った神殿の男たちを追い、村の北端まで来ていた。
そこにあったのは、窓の少ない古い穀物倉だ。石を積んだ土台。分厚い木の壁。正面には槍を持った見張りが二人。裏手にも一人。屋根の下には鐘まで吊ってある。
ずいぶん立派な倉だ。
中身が麦なら褒めてやった。
今入っているのは、何も悪いことをしていない若者である。
評価は星一つだ。寝床が固そうなので、さらに半分引きたい。
「処分は夜明けの祈りのあとだ」
「逃がすなよ。あれは黒い穢れに惑わされている」
扉の前で、神殿の男たちがそんなことを話している。
処分。
便利な言葉だ。
殴るのか。村から追い出すのか。それとも、二度と口が利けなくなるようなことをするのか。
俺の触角が、ぴたりと止まった。
「クロ」
ガーロの低い声がした。
「命令しろ。壁でも扉でも壊す」
「ギ……」
壊したい。
ものすごく壊したい。
できれば扉だけではなく、あの偉そうな白い服の男たちの鼻も、心が少しだけ素直になる形に曲げてやりたい。
だが、駄目だ。
レンを助けるだけなら、ガーロが扉を蹴破り、俺たちが飛び込めば済むかもしれない。けれど、それをやれば村の人間たちは明日からこう教えられる。
黒い魔物が神殿を襲った。
レンは魔物の仲間だった。
だから神殿は正しかった、と。
ふざけるな。
あいつらが自分で仕掛けた印を、俺たちはこの目で見ている。
あ、ゴキブリの目はたくさんの小さな目が集まっているので、この複眼で見ている、と言うべきかもしれない。
そこは今どうでもいい。
「ギギッ。ギ、ギギギ」
「正面突破はしない。レンさんを外へ出して、それから仕掛けた証拠も持ち帰る……ですね」
ルビーが俺の触角の動きを読んだ。
「欲張りだねえ」
天井近くの梁に逆さで張りついた二号が、楽しそうに羽を震わせる。
「でも、嫌いじゃないよ。救出だけじゃ腹の虫が収まらないからね」
腹の虫なら、ここに六匹ほどいる。
全員かなり怒っている。
俺は地面に小石を並べた。
倉を表す大きな石。正面に白い欠片を二つ。裏に一つ。小枝で扉を描き、その下へ細い溝を引く。
「俺が掘る」
チュウタが胸を張った。
「床下までなら行ける。石にぶつかったら、石のほうにどいてもらう」
頼もしい。
ただし、それは交渉ではなく粉砕という。
「鍵は?」
ガーロが訊く。
俺は倉の扉を見た。
人間の拳より大きな、青銅の錠前。鍵穴そのものは、さすがに俺でも通れない。だが錠箱の横に、留め具の外れかけた隙間がある。
人間なら傷とも呼ばない、小さな割れ目。
ゴキブリにとっては、正面玄関である。
「ギッ」
俺が自分を指すと、全員が黙った。
「……中に入るの?」
ルビーの触角が下がる。
「あの箱、途中で鍵を回されたら潰れるよ」
「ギ」
「平気じゃないでしょ。クロの『平気』は、だいたい平気じゃないんだから」
その通りなので反論できない。
俺は前脚で土を叩いた。
一度。
二度。
三度。
俺が鍵。チュウタが地下。二号が音を聞く。ガーロとルビーが退路を作る。
そして正面は――。
「わたしが行きます」
振り返る前に、リリアが言った。
月明かりの下、白銀の髪が揺れている。
彼女はもう剣の柄に手を置いていた。笑ってはいたが、その笑みの奥で、青い瞳がまったく笑っていない。
「神殿の方々にお願いします。中に病人がいるかもしれませんので、治癒をさせてください、と」
「断られたら?」
ガーロが訊いた。
「もう一度お願いします」
「それでも断られたら?」
「扉が偶然、風で開くかもしれません」
今夜は無風だ。
勇者の言う偶然は、だいたい壁まで巻き込む。
「駄目だよ、リリア」
二号が梁から降りてきた。
「扉を壊すのはクロの合図のあと。壊すならね」
「……わかりました」
リリアは素直に頷いた。
なぜだろう。
素直に頷かれると、余計に不安になる。
◇
「夜分に申し訳ありません!」
リリアのよく通る声が、倉の正面で響いた。
「どなたか、具合の悪い方が中にいると聞きました!」
「立ち去れ。ここは神殿の管理下だ」
「治癒だけです。すぐに終わります」
「必要ない!」
「必要ないかどうかは、怪我人に聞くべきでは?」
うん。
最初から強い。
もう少し時間をかけて穏やかに喋ってほしいのだが、あいつの穏やかは普通の人間の攻撃開始一歩手前である。
見張り二人の注意がリリアへ向いた瞬間、俺は壁の影から走った。
カサカサカサカサカサッ!
地面の小石が腹の下を流れる。六本の脚をずらして動かし、止まらず、滑らず、一気に錠前の裏へ。
人間の視線が怖くないわけではない。
むしろ怖い。
俺たちの姿を見た人間の足は、ときどき考えるより先に落ちてくる。あれは山崩れと同じだ。しかも山崩れと違い、こちらを狙って曲がる。
だが今は、怖がっている暇がない。
錠箱の脇へ触角を差し込む。
湿った金属の匂い。古い油。人間の手の汗。そして、細い隙間から流れてくる冷たい空気。
入れる。
俺は頭をねじ込んだ。
前脚。胸。腹。
平たくなれ。
もっと平たくなれ。
今だけは自分がゴキブリでよかったと思え。
いや、それはちょっと悔しい。
「ギ、ギギギ……!」
翅が金属に擦れた。腹が挟まる。後ろ脚で扉を蹴り、身体を斜めにして押し込む。
ぬるり。
入った。
中は、青銅でできた巨大な獣の腹だった。
歯の並んだ板。太いばね。上下に動く三本の留め金。それぞれが俺の胴より太い。油の海が足先にまとわりつき、呼吸孔を塞ごうとする。
くさい。
暗い。
狭い。
そして、どこを押せば開くのか、さっぱりわからない。
俺は錠前というものを少し甘く見ていた。
外から見ると、鍵を入れて回すだけではないか。
中ではこんなに大勢の金属が働いていたのか。
反省する。
鍵にも生活がある。
今度会うときは敬語を使おう。
「上。右。少し細いのが震えてる」
箱の外側から、二号の脚音が伝わってきた。
声ではない。
扉を爪で叩く、ごく小さな振動だ。
短く二回。長く一回。
俺たちが決めた合図である。
俺は触角を広げた。
暗闇の中、見えるものはほとんどない。代わりに、金属を伝わる振動が全身へ入ってくる。
リリアの声。
見張りの苛立った靴音。
裏手では、チュウタが土を削っている。
ザッ。ザザッ。ゴン。
最後の音は、たぶん石に頭をぶつけた。
頑張れ。
俺もいま、鉄の板に頭をぶつけた。
仲間である。
痛みの種類は違うが、痛いという一点で深く分かり合えた。
俺は一本目の留め金へ前脚をかけた。後ろ脚二本で箱の壁に踏ん張り、残りの脚で隣の歯車を押す。
「ギィィ……!」
重い。
当たり前だ。これは人間が人間を閉じ込めるための錠だ。ゴキブリ一匹が開けることなど、作った職人も想定していない。
なら、想定外を見せてやる。
六本脚をなめるな。
一本で駄目なら六本ある。
六本で駄目なら、愚痴を言いながらもう一度やる。
「ギギギギギッ!」
カチン。
一本目が上がった。
よし!
俺が心の中で拳を突き上げた、その瞬間。
ガチャン。
全部、元に戻った。
……なるほど。
同時に三本上げるのか。
脚が六本あってよかった!
本日二度目である。
◇
「治癒師の資格はあるのか」
「ありません」
「では帰れ」
「でも、治せます」
「資格がないと言っただろう!」
「怪我は資格証を見て治るのですか?」
扉の外では、リリアが一歩も引いていなかった。
まずい。
見張りの声が大きくなっている。
そしてリリアの声は落ち着いている。
あいつが本当に怒ったときほど、声は静かになる。
急げ、俺。
リリアが扉ではなく見張りを偶然開けてしまう前に。
俺は三本の留め金へ脚を振り分けた。
前脚二本で一番上。中脚二本で中央。後ろ脚一本で下。残る一本をばねへ引っかける。
身体が、変な形に引き延ばされた。
美しくない。
ゴキブリに美しさを求める者がいるかは知らないが、今の俺はたぶん相当ひどい。
けれど、力は入る。
せーの。
「ギィッ!」
上がる。
三本が、少しずつ。
あと半分。
あと少し。
カチッ。
外で、別の音がした。
鍵穴に、何かが入った音。
え。
待て。
いま鍵を差すな。
「中を確認する。そこを動くな」
見張りの声。
ギャアアアアアアッ!
もちろん声には出せない。
人間の鍵が回った。
箱の中の世界が、一斉に動き出す。
歯車が唸り、ばねが縮み、俺が持ち上げかけた三本の留め金が、凄まじい力で落ちてきた。
俺は脚を離した。
右へ跳ぶ。
歯が閉じる。
腹が挟まる。
「ギッ!?」
痛い!
痛い痛い痛い!
平たい身体だから大丈夫?
そんなわけがあるか!
平たい身体にも厚みはある!
俺は翅を畳み、腹をねじった。金属の歯が背中を擦る。呼吸孔から空気が抜け、目の前が白くなる。
だが、その瞬間。
三本の留め金が、順番に動くのが見えた。
下。
上。
中央。
それから、ばねが横へ逃げる。
順番だ。
同時ではない。
俺が間違っていた。
「どうした?」
外の見張りが、鍵を途中で止めた。
「鍵が重いな。油が固まったか」
違う。
ゴキブリが挟まっている。
頼むから気づくな。
いや、それ以前に回すな。
見張りが、さらに力を込めた。
歯が迫る。
そのとき、外で風が爆ぜた。
ドォンッ!
「うわっ!」
「す、すみません。くしゃみが」
「どんなくしゃみだ!」
リリア。
助かった。
今のは絶対にくしゃみではないが、助かった。
見張りが鍵から手を離す。歯車がわずかに戻った。
俺は腹を引き抜き、油のたまった隅へ転がり込んだ。
息が苦しい。脚が一本、痺れている。背中も痛い。
でも、生きている。
そして、開け方もわかった。
「短、長、短。下、上、真ん中」
二号の振動が届く。
あいつも聞いていた。
「ギッ」
俺は返事をし、もう一度立った。
◇
同じころ、チュウタは地面と喧嘩していた。
あとで本人から聞いた話では、最初の穴は石の土台に当たった。
二本目は古い排水溝へ抜け、泥水を頭から浴びた。
三本目には、ネズミ除けの金網が埋まっていた。
「地下に金網を置くやつは性格が悪い!」
チュウタはそう叫び、金網の結び目を一本ずつ噛み切ったらしい。
立派である。
歯は欠けた。
そして四本目。
石の土台が一か所だけ沈み、床板との間に土の薄い場所があった。
そこへ、ガーロが運んだ枝を差し込む。
ルビーが見張りの足音を数え、止まるたびに合図する。
「いま」
ゴリッ。
「止まって」
ぴたり。
「いま」
ゴリゴリッ。
土が落ち、床板の裏が見えた。
その向こうから、人間の咳が聞こえた。
「誰だ」
レンの声だった。
「ネズミ……じゃないよな」
「ネズミじゃない。俺はチュウタだ」
「名前は立派にネズミっぽいな!?」
驚いているわりに、返しは元気だった。
よし。
少なくとも喋れる。
「助けに来た。静かに床から離れろ」
「まさか、あの黒い……」
「仲間だ」
チュウタは、土の向こうで胸を張ったという。
「クロは、助けると決めたやつを置いていかない」
◇
下。
俺は一番下の留め金を持ち上げた。
カチッ。
上。
ばねが押し返してくる。四本の脚で踏ん張る。痺れた一本が滑った。それでも触角を歯車へ巻きつけ、身体ごと引いた。
カチン。
最後は中央。
ここだけが、妙に重い。
外では見張りがリリアを追い返そうとしている。
「これ以上騒ぐなら拘束するぞ」
「どうぞ」
「なに?」
「その代わり、大声で村の皆さんを呼びます。病人への治癒を神殿が拒んだ理由を、一緒に考えていただきます」
「貴様……!」
リリア、強い。
強すぎる。
俺も負けていられない。
「ギギギギギギッ!」
六本の脚が震える。
背中の傷が熱い。腹が痛い。油で何度も滑る。
それでも押す。
レンが、俺たちを見つけてくれた。
怖かったはずだ。
気味が悪かったはずだ。
それでも、踏まなかった。叫ばなかった。俺たちが畑を直したことを見て、神殿の印まで教えようとしてくれた。
なら今度は、俺たちが見つける番だ。
暗い箱の中からでも。
分厚い扉の向こうからでも。
仲間になれるかもしれない人間を、見失ってたまるか。
「ギィィィィィッ!」
カチャン。
三本目が上がった。
錠の横棒が、ゆっくりと引っ込む。
開いた。
俺は箱の隙間から転がり出た。
新鮮な夜気が、呼吸孔へ飛び込んでくる。
うまい。
空気がうまい。
油以外の匂いがするだけで、世界はこんなに美しかったのか。
「開いた!」
二号が小声で笑う。
「チュウタも床下へ着いたよ!」
俺は錠前の裏から、扉をほんの少し押した。
隙間ができる。
ガーロの太い前脚が入り、音を立てないよう扉を支えた。
「クロ」
「ギ」
「ひどい姿だな」
「ギギッ!」
お前にだけは言われたくない。
ガーロの顔には、さっき運んだ泥が乾いて、左右に立派な縞ができている。
「格好いいと言ったんだ」
嘘をつけ。
だが、悪い気はしない。
油まみれの相棒に「格好いい」と言われる日が来るとは、前世では想像もしなかった。
◇
扉の内側は、板で三つに仕切られていた。
一番手前には縄と棒。中央には、神殿の印が押された袋や紙。奥が牢だ。
証拠はある。
ルビーが紙の匂いを覚え、二号が袋の位置を確かめる。
俺とガーロは奥へ走った。
床の隅から、土をかぶったチュウタの頭が出ている。
「遅いぞ、クロ」
「ギギ」
こっちは鍵に食われかけたんだ。
「俺は地面に三回負けた」
では引き分けだ。
床板が静かに持ち上がる。
その横で、レンが壁に背をつけていた。手首は縄で縛られ、頬には赤い痕がある。
暗がりを走る俺を見て、レンの肩がびくりと跳ねた。
当然だ。
人間の顔ほどあるゴキブリが、油まみれで近づいてくる。
俺だって逆の立場なら、もう少し上品な救助隊を希望する。
「……本当に来たのか」
レンは息を呑んだ。
「俺一人のために?」
「ギ」
俺は前脚を上げた。
ルビーが小声で訳す。
「一人だから、置いていく理由にはならないって」
「そうか」
レンは一度、目を閉じた。
そして、妙な顔で笑った。
「参ったな。神殿の偉い人より、ゴキブリのほうがずっと話がわかる」
見る目のある人間である。
今度会ったら握手をしよう。前脚で。
ガーロが縄を噛み切った。チュウタが開けた穴は狭いが、人間一人なら腹ばいで通れる。
「先に行け」
「出口には勇者がいるよ」
二号が羽音で急かす。
「見張りがもう限界。あのお姉さんも、たぶん限界」
外から、静かな声が聞こえた。
「最後にお願いします。扉から離れてください」
何をする気だ、リリア。
急げ。本当に急げ。
レンは穴の前に膝をついた。
これで助けられる。
証拠もある。
誰も大怪我をしていない。
今夜の作戦としては、百点だ。
そう思ったとき。
レンの動きが止まった。
「……待ってくれ」
彼は穴へ入らず、顔を上げた。
「何してるの。早く!」
ルビーが囁く。
「行けない」
「怖いなら、チュウタが前を行く」
「違う」
レンは牢の奥を指した。
板壁の向こう。
息を殺す音がする。
一人ではない。
二人。
三人。
もっといる。
鎖が、かすかに鳴った。
「ここに閉じ込められてるのは、俺だけじゃない」
レンは、俺たちをまっすぐ見た。
怖がっている。
脚も震えている。
それでも、穴から離れた。
「俺だけ逃げたら、あの人たちが代わりに罰を受ける」
扉の外で、見張りが鐘の縄へ手を伸ばす音がした。
時間がない。
なのにレンは、牢の奥へ戻ろうとしている。
「頼む」
人間の若者が、油まみれのゴキブリへ頭を下げた。
「みんなを助けるまで、俺もここに残る」
百点だったはずの作戦が、その一言で粉々になった。
まったく。
人間一人を救うだけでも大変なのに。
助けようとした人間が、さらに人間を助けたいと言い出した。
面倒だ。
本当に面倒だ。
俺は触角を高く上げた。
――そういう面倒なら、大歓迎だ。




