ナメクジ商人の値段
「塩だああああ!」
俺は商人の荷箱へ飛びついた。
白い結晶。
間違いない。
本物の塩である。
ムカデの抜け殻を削った「なんとなく塩味のする粉」ではない。
茸苔焼きへ振れば、絶対にうまい。
「これ、全部ください!」
「大将、待て!」
ガーロの声は遅かった。
巨大なナメクジ商人は、にこりと笑った。
「毎度あり。では、この巣と畑と水場をいただこう」
「高すぎる!」
商売開始から五秒。
俺は完全に足元を見られた。
というか、ゴキブリの足元は最初から床に近すぎる。
「今の注文、なし! なしでお願いします!」
「商いは言葉の約束だよ」
「値段を言う前の注文は無効だ!」
「では半分にまけよう。巣と畑だけ」
「水場しか残らない!」
「大将を交渉から外せ」
ガルダンが重々しく命じた。
「待て! 俺が代表だぞ!」
「今は塩へ飛びついた黒い虫だ」
「その説明、だいたい合ってるのが悔しい!」
商人は喉の奥でくっくっと笑った。
名前はミュル。
地下の水路と洞窟を渡り歩くナメクジ族の旅商人だという。
身体はチュウタより長く、俺の十倍近い。
背には木片を組んだ荷箱が三つ。
足、というか腹の裏が床を滑るたび、ぬらりと光る道が残る。
最初は警戒した。
あの粘液へ触れたら動けなくなるのではないか。
触角で匂いを探ると、水、薬草、それから薄い石灰の匂いがする。
「この道、毒はない?」
「失礼だね。荷運び用の滑走粘液だよ。乾けば透明な膜になる。荷車の軸へ塗ればよく滑る」
「売り物になる?」
「私の身体から出る物へ、いきなり値段をつけるのかい」
「すみません!」
「なるよ。一瓶で茸焼き十枚」
「なるんかい!」
カサカサ二号がすぐに食いついた。
「おっちゃん、歌も買わへん? 一曲で塩ひとつまみ」
「曲を聞いてから決めよう」
「買う気あるんかい!」
初めての交易相手は、なかなか油断ならない。
俺たちは共同会議用の石台へミュルを案内した。
ミュルは普通に座っただけだが、身体が横へ広がり、石台の半分を覆った。
「先生、席がない」
『私の頭を荷箱の上へ置くな』
「一番高い席です」
『商品札をかけるな!』
二号が先生の首へ「古代骨・よく喋る」と書いた札を下げていた。
「これは売り物かい?」
『違う!』
「値段次第やな」
『二号!』
チュウタが台の隅を無理やり空け、先生の下顎をそこへ寄せた。
「先生、こっち詰めれば全員座れる」
『骨に「詰める」という発想があると思うか』
「顎の角度を変えるだけです」
『外れたらお前が拾って戻すんだぞ』
結局、先生は顎を斜めに傾けたまま交渉へ参加する羽目になった。
会議開始前に先生が売られそうになった。
交渉役はガルダン。
記録と計算はジロ。
品物の鑑定は先生。
俺は「欲しい」と叫ばない係。
「役割が消極的すぎる」
「すでに重要性を証明した」
ジロの言葉が冷たい。
ミュルが荷箱を開く。
一つ目は食料と調味料。
岩塩、乾燥した赤い実、香りの強い根、薄黄色の木の実油。
二つ目は道具。
針、細い銅線、小さな刃、火打ち石、布切れ。
三つ目は情報品。
他の巣の印、通行札、地上から落ちてきた文字紙、旅商人が描いた水路図。
俺たちにとっては、全部が宝だ。
人間用の針一本は、ゴキブリ族なら槍が十本作れる。
布切れ一枚は、幼体全員の寝床になる。
塩の塊は、俺の頭より大きい。
舐めるだけで何十日も使える。
世界の大きさが違えば、価値も変わる。
俺は針へ前脚をかけてみた。
つるつる滑る。六本脚で抱えても、先端がこちらを向くたび全員が逃げた。
「危ない! 商品がこっちを刺そうとしてる!」
「針は動いてへん。大将が転がしとる!」
「分かってるけど怖いものは怖い!」
ネズミ族が木片の柄をつければ槍になる。細かく折れば縫い道具にも、石壁を削る針にもなる。
「一本目は俺がもらう」
「隊長より先に忠臣が槍を持つのはおかしい」
「隊長が持つと自分の脚を刺す」
「刺さない! ……三回くらいしか刺さない」
「三回は多い」
ガーロに真顔で却下された。結局、一本目は多数決でガーロの手に渡った。
布切れへ触角を埋めると、柔らかすぎて前が見えなくなった。
「これが幼体の寝床……天国か?」
「大将、商品から出ろ」
「触り心地の鑑定!」
「欲しい係に戻ってるぞ」
ガーロに後ろ脚を引かれた。
人間だった頃なら捨てるような端切れも、今の俺たちには家一軒分の温かさがある。
小さくなったせいで足りない物は多い。でも、小さいから一つの品を百匹で使える。
問題は、こちらに金がないことだ。
「何で払う?」
ミュルの問いに、俺は茸苔焼きを並べた。
「保存食。赤土で毒抜きしてある。乾いたままなら十日は持つ」
ミュルは一本の触角で匂いを嗅ぐ。
「一枚で、塩の欠片一つ」
「安い!」
「そうかい? 君たちには御馳走でも、地下には茸が多い」
「でも毒抜きして保存できる。旅には便利だ」
「味を見る」
ミュルが茸苔焼きへ口をつけた。
ゆっくりだ。
とにかくゆっくり。
一口かじるまでに、俺なら資材庫を一周できる。
「どう?」
「急かさない」
「まだ噛んでる?」
「急かさない」
「飲み込んだ?」
「値段を半分にするよ」
「なぜ!?」
「急かされると味が分からない」
ガルダンが俺の口へ綿苔を詰めた。
しばらく交渉中の発言を禁止された。
ミュルは二枚目を食べた。
今度は誰も急かさない。
長い沈黙。
触角が一度曲がる。
「悪くない。十二枚で塩の塊一つ」
「最初より上がった!」
綿苔を吐いて叫んだ。
「大将、黙る係」
「今のは喜びだから!」
保存食だけでは、欲しい物すべてに届かない。
乾燥茸、殻油、赤土、蜘蛛糸、ムカデ甲殻。
こちらの品を順に見せる。
ミュルは一つずつ調べ、容赦なく値をつけた。
「赤土は重い。買わない」
「殻油は?」
「匂いが強すぎる。半値」
「蜘蛛糸!」
「質はいい。ただし絡まっている。解いて束にすれば三倍」
「ムカデ甲殻は?」
「これは欲しい。北の乾燥穴では、軽い屋根材になる」
値付けの合間、ピノが荷箱の赤い実へこっそり触角を伸ばしていた。
「ピノ、まだ買ってない」
「味見だけ……」
「味見でかじったら買ったことになる商売の仕組みだぞ」
ミュルが横から静かに告げる。
「一かじり、赤実一つぶんだよ」
「たかっ!」
ピノは触角を引っ込め、頬をこすった代わりに小さくすすり泣いた。
売れる物。
売れない物。
手を加えれば高くなる物。
俺たちが役に立つと思う物と、旅人が欲しい物は違う。
面白い。
塩を買うだけの話だったのに、自分たちの仕事が地下の外へつながっていく。
「地図は?」
チュウタが、俺たちの石板地図を持ってきた。
「安全な水場、崩落しやすい道、蜘蛛の庭、女王ムカデの石室。印で分かる」
ミュルの触角が大きく上がった。
「その地図、どこまで正確だい?」
「ジロ」
「既知通路は八割六分。残りは季節の水量で変化します。危険地点は直近十五日で更新済み」
「買おう」
「いくらで?」
「塩一塊、針一本、赤実二つ」
「安――」
俺の口へ、今度はチュウタの尻尾が押し込まれた。
「最後まで聞け」
ミュルは続ける。
「ただし、写しだ。原本はいらない。さらに今後、道が変わるたび更新を買う」
売ってもこちらから失われない。
使えば使うほど情報が増え、また価値になる。
「地図って、食べられないのに塩になるのか」
バグが驚く。
「食べられないからこそ、食べ物を無事に運べる」
俺は尻尾を口から外しながら答えた。
「それに、俺たちの触角とネズミ族の掘る力があれば、他の商人には作れない地図になる」
ゴキブリの俺には、床の傾きと湿度、空気穴、狭い逃げ道が分かる。
チュウタたちには、土の硬さと崩落の兆候が分かる。
二号は遠くの音を拾う。
同じ暗闇でも、俺たちは違う線を見ている。
それを重ねれば、旅人の命を守る商品になる。
この身体で生き延びるために覚えたことが、初めて外の相手から値段をつけられた。
胸の殻の奥が、少し熱くなる。
俺はゴキブリだ。
地上では嫌われるかもしれない。
でも地下の道なら、俺たちの感覚が一番高く売れる。
「ほかに売れる物はある?」
ピノが尋ねた。
ミュルは巣の中を見回した。
「仕事だね」
「仕事?」
「西水路に、荷箱が通れない崩落がある。ネズミ族が穴を広げ、ゴキブリ族が先を調べてくれるなら、通行料を払う」
「払うのは俺たちじゃないのか?」
「道を直した者が、使う者から受け取る。地下商人の決まりさ」
労働も売れる。
地図も売れる。
保存食も、加工すれば売れる。
金貨がなくても、何も持っていないわけではなかった。
交渉は、俄然楽しくなった。
「なら西水路の修理と、安全地図の写し、茸苔焼き二十四枚、解いた蜘蛛糸を三束」
俺は石板へ並べる。
「こちらが欲しいのは、塩三塊、針二本、銅線一本、赤実四つ、滑走粘液一瓶。それと地上の情報」
「欲張るね」
「巣と畑を要求した商人に言われたくない!」
「あれは君が全部くれと言ったからだよ」
「言葉の勢いを商品にするな!」
ミュルは触角をゆっくり揺らした。
「地上の情報一つを外せば、成立」
「情報が欲しい」
「では塩を一つ減らす」
「塩も欲しい!」
「なら針を一本」
「針も槍になる!」
「大将、全部欲しいは交渉じゃない」
ジロが冷静に刺してくる。
俺は焦った。
旅商人が次にいつ来るか分からない。
今ここで取らなければ、全部なくなる気がした。
「じゃあ茸苔焼きを四十枚に増やす!」
「クロ」
ガルダンが低く呼ぶ。
「在庫は?」
「……四十六枚」
「冬支度の食料を売るのか」
「でも次にいつ――」
「急ぐほど、相手の時間で値段が決まる」
ミュルは黙ってこちらを見ている。
今の俺は、塩へ飛びついた時と同じだ。
欲しい。
逃したくない。
その気持ちを全部見せて、仲間の食料まで差し出しかけた。
「……茸苔焼きは二十四枚から増やさない」
俺は言い直した。
「西水路を直せば、ミュルも次から早く来られる。地図は更新する。これは一度だけの取引じゃない」
「ほう」
「今回は塩二塊でいい。その代わり、次に来る日を決める。三十日後。更新地図と新しい保存食を用意するから、残りの塩と針を持ってきてくれ」
「次の商いを約束に入れるのかい」
「こっちは町を作る。欲しい物はこれから増える。ミュルだって道が安全になれば、売れる相手が増えるだろ」
長い沈黙。
今度は急かさない。
触角の先で、ミュルの呼吸を感じる。
ナメクジ族はゆっくりだ。
でも、遅いから考えていないわけではない。
俺たちの高速疾走で相手の時間を踏み荒らしたら、見える値段も見えなくなる。
ミュルが茸苔焼きの欠片をもう一度味わった。
「成立だ。塩二塊、針一本、銅線、赤実、粘液。それと地上の情報一つ。三十日後、残りを持って戻る」
「やった!」
歓声が上がる。
「ただし二号の歌を一曲つけてくれ」
「そこに価値あったの!?」
「旅は退屈でね」
二号が胸を張る。
「毎度あり! 商売繁盛カサカサ節、聞いてってや!」
「その曲、絶対うるさい」
取引の品を並べた。
塩の塊を百匹で持ち上げる。
重い。
人間なら指でつまめる欠片が、俺たちには神輿だ。
「右、上げろ!」
「大将側が低い!」
「俺は指揮役!」
「持て!」
結局、俺も腹で押した。
途中、塊がわずかに傾き、俺の背中へ乗り上げかけた。
「大将、下敷き注意!」
「注意される前に潰れかけてる!」
チュウタが横から支え、事なきを得る。
「隊長が塩の下敷きって、記録に何て書くんだ」
「『塩に敗北』でどうです」
「却下!」
ジロは既に石板へ書き始めていた。
《群走指揮》で歩幅をそろえ、食料庫へ運び込む。
最初の一粒を、茸汁へ落とした。
ほんの少し。
香りが変わる。
茸の苦味が引き、木の実の甘みが前へ出た。
「うまい!」
百匹の声がそろう。
「大将、俺もう三杯目や」
「お前いつも三杯目からが本番だろ」
「四杯目からが本番や」
ガーロまで無言でお代わりの列に並んでいた。忠臣の面目より腹の虫を優先する日もある。
ミュルも一皿受け取った。
「さっきより高く売れそうだ」
「味見しながら値上げを考えるな!」
食後、ミュルは約束した地上の情報を話した。
「北の昇降路を知っているかい」
「女王ムカデの巣で地図を見つけた。地上近くへ続くらしい」
「その先には、人間の古い貯蔵庫がある。食料も道具も多い。ただ、最近は猟師が罠を置いている」
「魔物用?」
ミュルの触角が、ゆっくり下がった。
「赤いゴキブリ用だよ」
資材庫のざわめきが止まる。
「喋る赤いゴキブリが、地上の食料庫を荒らしたと噂になっている。捕らえた者へ、人間の銀貨が出るそうだ」
「喋る?」
「私も遠目に見た。翅が赤く、風に乗って飛ぶ。三匹で人間の罠を破ったあと、仲間を逃がすため一匹だけ残った」
ガーロの左翅が、わずかに開く。
二号の軽口も消えた。
同じゴキブリ。
俺たちとは違う、赤い仲間。
地上で、人間に狩られている。
「場所を詳しく教えてくれ」
「それは次の情報――と言いたいところだが」
ミュルは塩入り茸汁をもう一口飲んだ。
「これは祝いの分だ。北の昇降路から半日の場所。三つ穴の石壁だ」
「ありがとう」
「礼なら、次もこの汁を売っておくれ」
ミュルは荷箱を閉じた。
地下初の商売は成立した。
塩と針と銅線を手に入れ、次の取引も決まった。
そして、地上へ向かう理由まで増えた。
その夜。
共同会議には、いつもより多くの住民が集まった。
「赤い同族を助けるべきだ」
「人間の罠へ近づくのは危険だ」
「交易品を冬まで残す量は?」
「道を直した者への取り分は?」
「次の商人が敵だったら?」
塩一つ手に入れただけで、新しい問題が十個生まれた。
ガルダンが石台を叩く。
「決めるべきことが増えた。食料、仕事、交易、外から来た者、救助」
「そのたび会議を開く?」
ピノが聞く。
「百匹全員が毎回集まったら、話し終わる前に冬になるで」
二号が言った。
俺は、塩を運んだ百匹を見た。
ゴキブリ族。
ネズミ族。
骨人。
同じ巣に暮らしていても、欲しい物も怖い物も違う。
「なら、決め方を先に決めよう」
「決め方?」
「俺たちの巣の掟だ」
先生が、まっさらな大石板を運ばせた。
『一度刻めば、消すのは大変だぞ』
「いいじゃないか」
俺は石板の前へ立った。
「大変なくらい、全員で揉めて決めよう」




