99 ささやかな願い
紫苑は急いで自室に戻ると姿見の前に立ち自分の背を確認する。
鏡に写った自分の背にはいくつもの傷が残っていたが、浅い傷から徐々にふさがり元通りにもどっていく。
鬼化しているとはいえ、身体にできたばかりの無数の傷がこの速度で治っていくのはどう考えても可怪しい。
すっかり全身の傷が癒えると紫苑は鬼化を解き汚れてしまった着物を着替える。
薄々気づいてはいたが、鬼化するたびに鬼の力と時渡りの力が身体と馴染んでいくのを感じていた。
きっとそう遠くない内に呪印の効力が解け元の姿に戻るだろう。
記憶のないときは自分が妖になってしまうことがとにかく怖かったが、今は違う。
自分が鬼になってしまうことよりも、鬼になることで月天と一緒にいられなくなるのではないか?というほうが怖いのだ。
それぞれ七妖の一族は血統を重んじる傾向がある、特に妖狐と鬼は滅多なことがなければ一族以外の者から嫁を取ることはないのだ。
このまま紫苑が鬼化すれば間違いなく月天の伴侶としてふさわしくないと一族の者たちが黙っていないだろう。
「どうして鬼に生まれてしまったのだろう……妖狐に生まれたら良かったのに」
誰にも聞こえることのないつぶやきは夜の闇の中へと消えていった。
◇◇◇
昨晩は鬼化して力を使ったせいかいつもよりもぐっすりと寝てしまった。
時間を見るとすでに巳の刻を指しており、慌てて支度を整えて執務室へと向かう。
執務室には白夜がおり自分の机で何か薬品を調合していた。
「すいません、遅れてしまいました」
紫苑が白夜に頭を下げると、白夜は紫苑の顔をちらりと見て再び視線を薬品の方へと戻す。
「気にするな、今日は執務は休みになっている。それよりも、月天様の元へ顔を出してきたほうがいいのでは?」
どうやら昨晩の出来事は白夜の耳にも届いていないらしく、いつもの調子で言葉をかけてくる。
紫苑は昨晩見た月天のひどく傷ついたような表情が頭から離れず、自分が会いに行っていいものか頭を悩ます。
「何を考えているのか知らないが、月天様はあなたが来てくれれば嬉しいと思いますよ」
白夜は手元で調合していた薬品を瓶に詰めると、それを持って執務室を出ていこうとする。
「私はしばらくは極夜の側についている。なにかあれば念思をとばせ」
「あの!極夜さんの状態は悪いのでしょうか?」
「良くはないが、命を失うほどではない。あまり気にするな」
白夜はそう言うとそのまま紫苑の方を振り返ることもなく部屋を出ていった。
部屋に一人残されてしまった紫苑は月天に会いに行くべきか迷ったが、このまま距離をおいていても仕方がないと執務室を出て月天の自室へと向かう。
月天の自室へはいくつかの手順を踏んでからでなければ行けないのだが、昨晩教えてもらった自分の部屋の寝室にある通り道を使って移動する。
昨日と同じく月天の寝室に出ると、すでに部屋の中はきれいに整えられており血の香りも残っていない。
寝室にはすでに誰の姿もなく、隣の部屋に月天と黄金の気配を感じ紫苑は遠慮がちに顔を覗かせる。
「ッ! 紫苑、もう体調は良いのか?」
月天は紫苑が顔を出すと慌てて紫苑の元へ駆け寄り顔や手などあちこち触って傷を確かめる。
「黄金、お前はもうよい下がれ」
月天が黄金を追い払うかのように片手で下がるように命じると黄金は直ぐに頭を下げて部屋を出ていく。
黄金が部屋を出ていく際にいつもより顔色がひどく悪いように感じ声をかけようかと思ったが、月天に話しかけられてすぐに意識がそれてしまう。
月天に手を引かれ長椅子に一緒に座ると、月天はひどく心細そうな表情で紫苑の方を見てくる。
「紫苑、昨夜はすまなかった。意識が朦朧としていたとはいえ君を傷つけるなんて」
「大丈夫だから、気にしないで?私こそ月天や極夜さんたちにまで無理をさせてしまったごめんなさい」
「紫苑のためならあのくらいどうということはない。それよりも、私を助けるために時渡りの力を使ったのかい?あの力はあまり多用しないほうがいい、いらぬ者たちの興味を引くことになったら大変だ」
「うん、分かった。これからはなるべく使わないようにする」
「約束だよ紫苑?私以外の前では絶対にあの力は使わないでおくれ」
月天は握っていた紫苑の手に口付けを落とすと、ようやく緊張が解けたようにいつもの優しい笑みを見せてくれる。
「実は、もう二度と私に会ってくれないのではないかと心配していた。何よりも大切だと言いながら自分の手であんなにも傷つけるなんて……嫌われてしまっても仕方がないと思ったんだ」
俯きがちにそう言う月天の頬を両手で優しく触れると、月天の瞳を見つめる。
「月天、何があってももう二度とそばを離れたりなんかしないよ。それにどんどん鬼の力が身体に馴染んでいるみたいで傷もかなり早く治るようになってきたの!だから昨日のことは気にしないでね?」
「確かに以前より身体から香る鬼の香りが強くなったような気がするな……そうなると、あまり悠長なことは言ってられないかもしれない。できるだけ早く術者としての地位を固めたほうが良さそうだな」
今はまだ術者見習いのただの人間として夢幻楼に置いているが、紫苑から香り始めた鬼の香りに気づき周辺を探り出す者が現れるかもしれない。
そうなる前に手出しがしにくいように紫苑の地位を固めてしまったほうが良いだろう。
月天がこれからのことを考えていると、小鉄が手紙を持って現れる。
「月天様、妖猫のご当主の琥珀様より手紙が届いております」
「ご苦労、下がってよい」
月天が小鉄から手紙を受け取るとそこには妖猫の一族の花紋が押してあり、これが正式な手紙であることがうかがえる。
封を開けて中を確認すると、相談したいことがあるため三日後に上ノ国の屋敷に会いに行くと書かれていた。
ただ会いに来るだけならば今までも何度か会ったので不思議はないが、手紙には紫苑も同席させるようにと書かれている。
月天は忌々しげに手紙を読み終えると、小さくため息を付いてどうしてこうも次から次へと問題が起きるのかと天を見上げる。
「月天、どうしたの?何かまた問題でも起きた?」
「あぁ、少しばかり面倒なことが起きそうでね。妖猫の当主の琥珀が三日後に会いたいと言ってきたんだ。それだけならばいいのだが、その席に紫苑も同席させるようにと書かれていてね」
予想外にも自分の名が出てきたことに驚くが、月天の力になれるのならばできる限りのことはしたい。
「月天が迷惑でなければその席に出てもいいかな?できるだけ他の里の当主のことや幽世の事情を知っておきたいの」
月天の側にいたいならば、このまま幽世の情勢について知らないままではいられない。
少しでも力になるには最低限各里の当主の性格や考え方を知っておくほうが今後役に立つだろうと思い月天にお願いする。
月天は困ったように少しその場で考えると、仕方がないと紫苑が同席することを許す。
「紫苑、琥珀はああ見えても妖猫の一族を統べる当主だ。何を言われても迂闊に返事をしてはならないよ?」
「うん、分かってる。月天の足をひっぱるようなことはしないから」
「紫苑はどんどん強くなっていくな、この幽世に来た頃は捨てられた子猫のように震えていたというのに」
月天に笑いながらそう言われると、なんだか気恥ずかしくなって背を向けてしまう。
「紫苑?怒ったのか?背を向けていないでその愛らしい顔を見せておくれ?」
紫苑は自分に微笑みを向ける月天を見つめながら、月天とこうしている時間が少しでも長く続けばいいと願う。
なんのしがらみも無い世界で二人で過ごせたらどれだけ幸せだろうか。
ただ月天の側でこの笑顔を見ていたいと願うのは罪深いことなのだろうか?
紫苑はこれからのことにただ思いを馳せることしかできなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
予定ではあと一話で終わりです〜
長くなってしまった…