35.お届け物です(前編)
それからわたしは、王宮にプールされている馬車を借りてノルドハイムの屋敷に帰った。
王宮とは様々な人の思惑が絡み合う場所だ。
事情があるにせよないにせよ、来た時とは違う馬車に乗って帰りたい人もいる。
そんな時にもスムーズに屋敷に帰れるようにと、貴族用に常に数台の馬車が用意されているんだ。
本来なら今日は会議の後、エアハルト様と一緒にグレーデン家に戻る予定だった。
ハーマン先生の最後の診察を、明日受ける予定だったから。
だけど既に婚約は破棄された。
それも、最悪の形で。
わたしがグレーデン家に歓迎される事は、もう二度とないだろう。
〇〇〇〇〇
エアハルト様の言った通り、調停人はきっちり翌日にうちの屋敷を訪れ、驚くわたしの両親に淡々と婚約破棄を宣告した。
だんまりを決め込んだわたしから何も事情を聞いていなかった父はもちろん反発した。
だけど、元々が父親同士の親交から生まれたに過ぎない、身分違いの婚約だ。
約束を交わした相手側のお父様は既に亡くなっているし、身分の高い公爵側から婚約破棄を申し入れられたら、こちらは泣き寝入りするしかない。
――とはいえ、わたしから言い出した婚約破棄なんだから泣き寝入りも何もないんだけど。
調停人はわたしの父に強引に書類にサインをさせ、さっさと帰って行った。
両親はすぐさまわたしに根掘り葉掘りエアハルト様との事を尋ねたけど、明らかに元気のないわたしの様子を見ると、とりあえずはそっとしておいてくれた。
〇〇〇〇〇
それから3日間、わたしはひたすら部屋に籠もり、毛布を被ってぼーっとしていた。
何もしたくなかったし、食欲もなかった。
頭では、このままじゃいけないと分かっていた。
ディートリンデがケリー男爵の子を身籠っている事。
ソフィアがシャルロット王女だという事。
それを、ヨハン王とソフィア、そして王立騎士団の人達に伝えないといけない。
そして、アンヌさんの事も。
彼女の死はまだ報じられていないはずだ。
とても辛いけど、ご家族にそれを伝える必要がある。
――だけど、どうやって?
わたしが口を開けば、今度はエアハルト様が殺されてしまうのに?
それにもしかしたら、ソフィアにとっては余計なお世話かもしれない。
もし、エアハルト様とあのままうまくいっていたら、王位なんて継がずに平民のまま彼と結婚した方が幸せな気がする。
結局、王様が誰だとしても、大多数の国民にはあまり関係のない話だ。
平和な日常が続くのなら、頂点が誰でも大差ないとしたら?
アンヌさんの旦那さんだって、もしかしたら彼女の悲惨な死に様なんて、聞きたくないかもしれない。
フェリシテ様を亡くしたヨハン王のように、妻の思い出を美しいまま残しておきたいと思っているかもしれない。
――そんなのは言い訳に過ぎないと、本当は分かってる。
ソフィアにもヨハン王にもアンヌさんの旦那さんにも、知る権利と、その後どうするか自分で選ぶ権利がある。
そしてわたしには、彼らに事実を伝える義務がある。
だって逆の立場だったら、わたしなら絶対に知りたい。
自分の出自や、大切な人の生死を。
だけど、それがエアハルト様の命と引き換えとしたら――。
わたしには、口を開く事なんて出来ない。
絶対に出来ない。
考えただけで、心臓が潰れそうになる。
そんな事になる位なら、婚約破棄をしても、誰に何を言われようとも、知らないふりをして口を噤んでいた方がずっとましだ。
たとえそれでヨハン王を、ソフィアのお父様を、見殺しにする事になって、も――?
そうだ。
ディートリンデとケリー男爵は王の命を狙っている。
十中八九、このままでは王は命を落とすだろう。
でもそれを阻止すれば、今度はエアハルト様の命が危なくなって――。
ああ、堂々巡りだ。
わたしにはどうすればいいのかが本当に分からなかった。
何かを選べば、何かが失われる。
だからわたしは途中から考えるのをやめて、ただ毛布を被ってぼんやりしていた。
来客を告げられたのは、そんな時だった。
〇〇〇〇〇
「リーゼロッテ、お客様よ」
ノックの音がして、お母様がわたしの部屋の扉を開けた。
いつもなら侍女が来客を告げるはずなのに、わざわざお母様が来るなんてどうしたんだろう。
だけど、誰が来たって会うつもりなんてなかった。
ほんの一瞬、エアハルト様かもしれないと思ったけど、そんなはずはない。
彼はもう絶対にこの屋敷に来たりはしない。
プライドが高いから、とかそういう話じゃなくて――彼はきっと、それが何であれ、わたしの意志を尊重してくれる人だから。
「…帰ってもらってください」
毛布をすっぽり被ったまま、わたしはくぐもった声を出した。
お母様がぴしゃりと言った。
「せっかく来ていただいたのになんですか。起きて、きちんとご挨拶なさい! ――さあ、どうぞお入りになって」
…ん?
お入りになって、って…お客さん、もうそこにいるの!?
お母様が遠ざかっていく足音がした。
だけど、人の気配がまだ残っている。
――お母様、わたし、部屋着ですっぴんなんですけど!!?
貴族の娘がこんな格好で来客に応対していいんですか?
…もしかしてお母様、実はすごくわたしに怒ってらっしゃる!?
おそるおそる、毛布の隙間から覗いてみる。
はたして扉の近くに人が立っていた。
だけど、顔どころか手足すらよく見えない。
茶色の長いローブの前をしっかりと合わせ、大きめのフードを目深に被っている。
隠れ具合はわたしといい勝負だ。
ぱっと見では、性別すら判断できない。
「…どなたですの?」
毛布から用心深く顔を出して、わたしは警戒しつつ尋ねた。
もし、これがディートリンデの差し向けた刺客だったら?
ヘッドボードの引き出しにペーパーナイフが入っているから、素早くそれを取り出して構え、大声を出そう。
運が良ければ、開いたままの扉から誰かが助けに駆けつけてくれるかもしれない。
その人はフードの隙間から、ふっと笑った――ような気がした。




