33.舞い落ちる花びら
※残酷描写があります。
摘んだ花を大事そうに両手に抱えたアンヌさんは、一見すると、親切そうな花屋さんといった印象だった。
だけどその顔は不安そうに青ざめ、目線は落ち着きなく宙をさまよっている。
「リーゼロッテ…あの…話があるの」
「…なんの話でしょう」
思わず冷淡な口調になる。
アンヌさんは傷ついたような表情を浮かべた。
でも、殺されかけたのはこっちなのに、今更そんな顔をされても困る。
「…怒ってる、わよね。当然ね」
「……」
「あのね、…ごめんなさい…あの時、助けられなくて…」
「…どういう事ですか?」
なぜ今、わたしに謝るんだろう。
わたしなんて死んでもよかったから、王妃の元へ連れて行ったはずじゃあ…?
アンヌさんはいたたまれない様子で花を何度も持ち替えながら言った。
「わたし…まさか、あの方があんなにひどい事をするなんて思ってもいなかったのよ。本当よ。だって、あなたは以前はあの方のお気に入りだったし…あんな風に傷つけるなんて…」
「王妃はああいう方ですわ」
「そう、そうなのよね…」
なんだか歯切れが悪い。まだ言いたい事がありそうだった。
「…何か、事情でもあったんですか?」
アンヌさんはぱっと顔を上げた。
「…実はね、恥ずかしい話なんだけど、わたし、前に入れあげていた男の人にお小遣いを渡していてね…だけど女官のお給料じゃ足りなくなって、何度か高利貸しに借りてしまったのよ。気が付いたら結構な額になっていたんだけど、でもそんな事とても主人には言えないでしょう? …それで王妃にお給料の前借りをお願いしたら、お手当をあげるからちょっと手伝ってほしい事がある、と言われて…」
…アンヌさん、結婚しているのに宮廷の別の男性に入れあげて、お金を貢いで、借金をして、それでお金ほしさに王妃の悪事の手伝いをしていたのか…。
西の離宮で、王妃からお金の入った袋をそそくさと受け取った彼女の姿が思い出される。
呆れ果てた顔のわたしを見て、アンヌさんが慌てて言った。
「でもね、もう全部主人に話したの! 彼、もちろんすごく怒っていたけれど、とにかく借金を全部肩代わりしてくれて…今回だけは大目に見る、って許してくれたのよ」
「…それは…とっても優しいご主人ですわね」
優しいというか、ただのお人好しのような気もするけど…。
アンヌさんの顔に生気が戻った。
「ええ、そうなの。だからわたし、もう他の殿方を追いかけるのはやめて、一生彼を大事にして生きていこうと思って。それで…迷惑をかけたあなたにも、許してほしいと思ったのよ」
アンヌさんの茶色い瞳が、じっとわたしを見上げる。
…改心した、という事なのかな?
それともこれも王妃の罠?
どちらにしても、今重要なのはわたし個人が彼女を許すかどうかなんていう問題じゃなく、これが王妃対策に活かせるかどうかという一点だと思う。
「わかりました」
「それじゃ…」
喜びを浮かべたアンヌさんを遮るように、わたしは言った。
「では、一緒に王立騎士団に来ていただけますか? 王の前で、王妃のやった事を証言していただきたいのです」
「…それは…」
アンヌさんの顔からたちまち喜びの色は消え去った。
取って代わったのは、恐怖だ。
「…無理よ。出来ないわ」
「どうしてですの? 王妃は魔獣を呼び込み、王に害をなそうとしています。その前に王妃を止めるには、彼女の悪事の証拠が必要なんです」
「でも…」
「アンヌさん!」
煮えきらない態度にしびれを切らして、わたしはがしっと彼女の肩を掴んだ。
「あなたが証言してくだされば、王妃のたくらみは止められるんですのよ! 王のお役に立てるならご主人もきっと喜ぶと思いますわ! それにあなたの身柄は、王立騎士団が責任を持ってお守りいたしますっ!!」
「そ…そう…かしら? それなら、まあ…」
アンヌさんは王妃を恐れているんだろう。
でも事情を話せば、団長代理のエアハルト様はきっとアンヌさんに優秀な護衛を付けてくれるはずだ。
「王立騎士団」の名前が効いたようで、ものすごく乗り気ではなさそうだったけれど、アンヌさんは不承不承頷いてくれた。
「ありがとうございます。それでは、さっそく騎士団本部へ参りましょう!」
「あ、待って、その前にこのお花をお部屋に持って行かないと…」
くるり、と踵を返しかけたアンヌさんの表情が凍り付いた。
わたしもそちらを向く。
レンガの道を、宮殿の方からやって来る人影があった。
背の高い男性だ。
近付いてくるにつれ、顔立ちがはっきりとわかるようになる。
その男の人は、超のつくほどのハンサムだった。
長めの黒髪、痩せた頬、ちょっと愁いを帯びた葡萄色の甘い瞳。
身なりからして貴族らしく、暗色系でまとめたジャケットやコートには大人の色気が漂っている。
見覚えはなかったけど、宮廷の女性達の心を一人でごっそり攫ってしまいそうな男性だ。
だけど、アンヌさんは頬を染めるどころか、その人を見て怯え切っていた。
「…アンヌさん?」
「ひぃっ…お、お許しください…ケリー男爵!」
わたしの声など耳に入っていない様子で、アンヌさんは男性に向かってそう叫んだ。
つられてわたしも彼を見やる。
…この人がケリー男爵?
穏やかそうな人だけど…アンヌさんは尋常じゃない怯えようだ。よく見ると体を小刻みに震わせている。
その内に、ケリー男爵がわたし達の目の前まで来て立ち止まった。
まっすぐにアンヌさんを見て、ほほ笑みを浮かべる。
うわあ、なんて甘くとろけるような笑顔…!
「アンヌ」
ぞくぞくするような深いテノールで呼びかけられ、アンヌさんがびくりと震え上がった。
男爵が言った。
「君の事は残念だよ。もっと王妃に尽くしてくれると思っていたのに…今日でお別れだね。さようなら」
「お待ちください! 違うのです、わたしは…」
必死の形相のアンヌさんが男爵に一歩近づこうとした時。
彼女は、ごぼっ、と何かを吐き出した。
胃液と血液が混じったようなもの。
それから喉を掻きむしった。持っていた花の束がばらばらと地面にこぼれ落ちるけど、それどころではなく。
「あっ、あぐっ…う、げぶっ…ぐ…」
よろめき、宙を引っ掻いて、もう一度血を吐くと、アンヌさんはどさっと傍らの花畑の中に倒れた。
「…アンヌさん!」
彼女に駆け寄りつつも、わたしは目の前で起こっている事が信じられなかった。
よく晴れて、蝶がひらひらと飛んでいる中庭で――さっきまでわたしと話していた人がいきなり血を吐いて倒れる?
まるで非現実的だ。
だけど花畑に膝をつき、動かなくなったアンヌさんの体を揺すっても、反応はない。
まさかと思って首に触れる――脈拍は感じられない。
アンヌさんは死んでいた。
「嘘…」
ざっ、と足音がして、ケリー男爵がわたしの横に立ち、倒れたアンヌさんを見下ろした。
「――おやおや。驚いたな、まさかこんな所で儚くなるとは。きっとその女官には何か持病があったんだろう」
わたしは死神でも見るようにその男を見上げた。
美しい貴人――ケリー男爵は、散歩に来たかのように落ち着き払った顔をして、わたしに話しかける。
「気にしなくて構わないよ。すぐに鳥が死体を処理するから」
「…あなたが…」
やったのか、という言葉は声にならなかった。
近付いて来る鳥の群れの羽ばたきで、掻き消えたから。
でも――鳥にしては大きい音がする。
空を見上げて、わたしは目を疑った。
こちらを目がけて一斉に飛んでくるのは、鳥なんてかわいいものではなく。
それは獰猛な顔つきをした翼竜の群れだった!
「ひっ…!!」
思わず口から悲鳴が漏れる。
隣の男爵は悠然と立ったまま、まるで旧来の知己に挨拶するかのように、翼竜の群れに手を挙げた。
その手のひらが…いや、彼の体全体が、禍々しい魔力を放っている。
「おいで、僕のかわいい小鳥」
するとその言葉が聞こえたかのように、上空でホバリングしている群れの中の一頭が、こちらを見た。
その一頭の翼竜は花畑めがけてまっすぐ滑空した。
水面で魚を獲るトンビのように、わたしの目の前でアンヌさんを両脚で掴み上げる。
そして、軽々と彼女を持ち去って行った。
群れに戻ると、彼らはギャアアアア、ギャアアアア、と耳障りな叫び声をあげなから、どこかへ飛び去って行った。
アンヌさんの死体と共に。
翼竜の羽ばたきが巻き起こした風は花を散らし、幾つもの花びらがひらひらと地面に舞い落ちていく。
悪夢のような光景が過ぎると、男爵はわたしを見て、優雅に言った。
「さて。これで何も問題はない。万事解決だ。もしも君が、僕達に楯突こうなどという愚かな気を起こさなければ、ね」
「…あなたがアンヌさんを殺したの?」
不思議と恐怖は感じなかった。
麻痺していたのかもしれない。
目の前でアンヌさんが死に、翼竜の群れに運び去られただなんて、まだ脳が認めるのを拒否していたのかも。
だから、わたしは向こう見ずにも、ケリー男爵にさらに質問を重ねた。
「あなたが、フェリシテ王妃も殺したの? …アンヌさんを殺したのと同じ毒で」
男爵は腰をかがめ、わたしにぐっと顔を近付けた。
思わず見とれるほど整った顔立ちは、近くで見るとさらに迫力がある。
だけど彼の葡萄色の瞳は、果てのない洞窟のように虚ろだった。
なんの感情も読み取れない。
その瞳がわたしを捕らえ、脳髄に響くようなテノールが囁く。
「そうだと言ったら?」
「あなたの…」
「余計な事をしないようにね」
わたしの言葉を遮って、男爵が言う。
優雅だけど傲慢なところは王妃とよく似ている。
「君の大事な婚約者エアハルト・フォン・グレーデンを、僕はいつでも殺せる。彼が生きたまま四肢を裂かれる姿を見たいかい? あの小鳥達が一斉に襲いかかったら、さぞ見物だろうな」
「…!!」
「もし君がそういう趣味の持ち主でないのなら、何を知ったとしてもしっかりと口を噤み、ノルドハイムの屋敷で大人しくしている事だよ。いいね、ロッテ?」
わたしは完全にケリー男爵の空気に呑まれていた。
葡萄色の目を見て、羊のように従順に頷く。
「…いい子だ。素直な子は好きだよ」
ぞっとするほど甘い声でそう言うと、男爵は悠然と、元来た方へ引き返して行った。
その後ろ姿を見送っていると、急激に恐怖が襲ってきた。
背筋が凍りついて足が動かなくなるような恐怖だ。
ケリー男爵は闇魔法使いだ。
それも、相当強力な魔力を持つ。
ソフィア達が二重に結界を張り直したはずの王宮に、いとも容易く翼竜を呼び寄せたのだから。
そして王妃を裏切ろうとしたアンヌさんの動向を読んで、おそらく遅効性の毒で殺し、その死体を翼竜に運び去らせた。
彼は手足のように魔獣達を操れるんだ。
たぶん本当に、ケリー男爵はエアハルト様を殺すだろう。
わたしが王妃のお腹の子の事を誰かに話せば。
翼竜の群れに襲われれば、人間なんてひとたまりもない。
広い中庭で、わたしは一人、放心したように座っていた。
アンヌさんが倒れて押し潰した花畑の花だけが、彼女の存在の名残りを留めていた。




