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everlasting  作者: 花村音葉
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5.蓮沼和希

 蓮沼和希には、愛という概念がわからない。ご大層な講釈を垂れるつもりはないが、己はおそらく「人間不信」というものに近いのだろうなと、漠然と考えていた。相手から自分に向けられる感情というものを、和希はどうも信用できなかった。その時々で向けられる、その場限りの好意や悪意はすぐに酌み取ることができる。けれど、総合して相手が自分をどう思っているのか、自分を好きでいてくれるのか、それとも嫌いでいるのか、そのあたりのことを和希は判別できないでいた。そして、判別できないでいてもさして困ることがなくて、そのまま放置して生きてきた人間だ。

 だって、相手が自分のことをどう考えているかなんて、至極どうでもいいことだ。和希には和希なりの感情があって、和希なりに好きな人間と嫌いな人間がいる。その評価に、相手からの好意なんてこれっぽっちも関係していないのだ。相手が和希のことを好きでも、和希にとって気に食わない相手というのはいる。逆に、相手が和希のことを毛嫌いしていたとしても、和希にとって好ましい人間というのもいる。だから、相手からの評価や好悪が理解できなかったとしても、和希はこれっぽっちも困っていなかった。もちろん和希を嫌っている人間と良好な関係を保つのは難しいが、それはその場その場で向けられる感情を酌んで行動していれば、さして問題にはならなかった。

 和希はそんな自分の性質にちっとも困っていなかったわけだが、客観的に見て何かが欠落しているという自覚はあった。和希の胸の中心にはぽっかりと穴が空いているのだ。大抵の人は、そこの抜け落ちている場所にあるはずのものを求めて行動する。きっとそれが「愛」というものなのだろうと、和希はよくわからないなりに定義していた。


 水島菜穂と出会ったのは、数合わせで呼ばれた合コンだった。和希は顔かたちはさほど悪い方ではないので、数合わせや客寄せパンダがわりに合コンに呼ばれることは多くあった。そこにいる女の子たちは、たいてい一生懸命和希の胸の真ん中に手を伸ばしてくる。そうして何も掴めなかった女の子たちは次第に諦めて、合コンが終わる頃には和希の周りにいる男子たちと仲良くなっているのだ。その時もそういう結末を迎えるだろうと思って合コンに参加したわけだが、そこで和希は自分に負けず劣らず空虚な目をした女の子を見つけた。あまりにもぼんやりと座っているものだから、ろくに女の子を眺めていなかった和希にも数合わせの子だと把握できてしまった。男女とも数合わせを用意するなんて妙な話だったが、まあ数合わせ同士仲良くするか、と話しかけたのが、水島菜穂と名乗った女の子との始まりだった。

 菜穂は、和希に負けず劣らず胸にぽっかりと穴の空いた女の子だった。後から彼女の姉に家庭のゴタゴタを聞いて、原因はそこかと合点がいったものだ。きっと彼女は、破局を迎えようとしている両親を見続けて、「愛」というものを諦めてしまったのだろうと思った。その概念を捨ててしまったから、彼女の胸には大きな穴が空いていた。

 穴が空いている同士なんとなく始めた交際は、思いの外居心地が良かった。和希のようにぽっかりと穴が空いた人間にとって、その穴にあったはずの概念を他人から求められることは、存外心理的な負担になるものだ。けれど菜穂は同じくらい大きな穴が空いていたから、穴にあるはずのものを求めようという発想がなかった。それはきっと、菜穂にとっての和希も同様だったのだろう。二人の間にあったのは、愛という欠落した概念などではなかった。ただ、菜穂と一緒にいる間だけは、和希は自分に欠落している穴を意識しないでいられた。

 菜穂との交際は、一種の契約関係のようなものだった。お互いに相手のそばが居心地がいいなら、継続する。ただし、どちらかが他に居場所を見つけたら、その段階で二人で話し合ってさよならをすることになっていた。それだけの薄っぺらな関係は、しかし「他に居心地のいい場所がない」という理由のみによって、四年も続いた。その関係性に、菜穂も和希も満足していた。

 均衡が崩れたのは、菜穂の病気がきっかけだった。和希にとって菜穂以上に居心地のいい相手はいないのに、菜穂はそっと和希から離れていった。それが菜穂にとって居心地のいい場所が見つかったという理由なら、契約通りの別れだったはずなのに、菜穂はどこにも居場所を見つけてはいなかった。菜穂はただひとりになろうとしていた。和希は、そういった形での契約終了に納得がいかなかった。お互いが一番居心地がいいなら、最期の時まで一緒に居たっていいじゃないか。けれど菜穂はそれには頷かなかった。和希をそっと突き放して、ひとりで遠くに行ってしまった。押し売りのように骨壷に入れたエンゲージリングは、和希の抗議の気持ちの表れだった。契約と違うだろう、菜穂。二人とも、相手以外に居心地のいい相手を見つけていないのに。一方的に契約を終わらせてしまった菜穂に、ほんの少し怒るような気持ちでいた。


 菜穂がいなくなっても、日常は問題なく回った。見舞いの時間を確保するために、菜穂を便宜上婚約者にしてしまっていたから、会社では少々腫れ物に触るような扱いを受けはした。けれどそれも便宜上であったし、正式に婚約を交わしたわけでもない恋人を喪ったところで、和希のルーチンワークにはなんら影響するものでもなかった。和希は「婚約者を病気で亡くした男」という肩書きを憐れまれながら、いつも通りに仕事をするだけでよかった。

 ただ、当然だが菜穂に会えることはなかった。

 菜穂と和希は二人とも一人暮らしをしていて、同棲をする予定も特にはなかったが、特に理由もなくお互いの家に泊まり合うことは多くあった。たいていの場合、仕事に疲れた和希が晩ごはんをたかりにいく形で、菜穂の家に泊まることが多かった。菜穂は特別料理上手というわけではなかったし、手抜き料理が並ぶことも多かったが、彼女の部屋で二人で食卓を囲むと、なんだかほっと肩の力が抜けるような気がしていた。

 菜穂を亡くすということは、その食卓を失うということでもあった。仕事で疲れた夜、無性に菜穂のハヤシライスが食べたいと思った。ハヤシライスは、菜穂が作ってくれる料理の中で和希が一等好きなメニューだった。市販のレトルトなんかでは味わえない、菜穂のハヤシライスが恋しかった。ハヤシライスをつつきながら、菜穂とくだらない話をしたかった。

 気づけば、胸にぽっかりと空いていた穴には菜穂がするりと入り込んでいて、穴は菜穂でいっぱいになってしまっていた。


 毎年、菜穂がいなくなった季節が近づくと、姉の真穂は和希を飲みに誘う。正孝も菜穂のことはよく知っていたから、義妹の追悼のために妻を居酒屋へと快く送り出す。真穂はひどく妹のことを愛していたようで、彼女は何年経ってもこの二人きりの飲み会だけは潰れるまで飲む。そうして泣きながらくだを巻く真穂を見ながら、和希は愛とは難しいものなのだな、と改めて学びなおすのだ。

 愛の定義は、いまだにわからない。でも和希の胸の穴は菜穂で埋め尽くされてしまったから、もうそこに「何もない」と言うこともできなくなってしまった。穴を埋めたものを愛と呼んでいいのなら、きっと記憶の中で微笑む菜穂が愛なのだろう。これを、愛と呼んでもいいのならば。いつか和希が死ぬときに、菜穂と再会できたのなら、そのときに答え合せをしてみようか。


 そんなことを戯れに思いながら、今日も和希は、指輪をはめ損ねた己の左手の薬指に、そっと口づけを落とすのだ。

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