第75話「嵐の中で」
出発の朝は、よく晴れていた。
現実の空は、皮肉なくらい穏やかだった。それでも、胸のざわつきは、朝になっても消えてくれない。ゆうべ見た、空を埋めつくすあの七つの光。あれを、放ってはおけなかった。急がなければ、と思う。
コーヒーを淹れていると、インターホンが鳴った。柚希だった。
「はい、これ」柚希が紙袋を押しつけてくる。なかには、握り飯がいくつも入っていた。「なんか、大変な日になりそうだから。腹が減ってると、頑張れないでしょ」
「……ありがとう」陸は少し笑った。「柚希、なんか、母親みたいだな」
「うるさい」柚希は、ぷいと横を向いた。それから、ぽつりと言う。「無理は、しないでよ。相手が神様でも。……陸くんが、ちゃんと帰ってこられるように。それだけ」
「うん」陸は頷いた。「ちゃんと帰る。おかえりって、言ってくれよ」
柚希はふっと笑って、「言うよ、いくらでも」と返した。
そのやりとりで、なぜだか肩の力が、すっと抜けた。どんなに大きな相手が待っていても。帰る場所があって、おかえりと言ってくれる人がいる。それだけで、陸は、どこまでだって行ける気がした。
その夜、ギルドの全員が拠点に集まった。
空の七つの光は、もう痛いほどに輝いている。そのうちの一つ、荒れ狂う光だけが、ほかと溶け合うのを拒むように激しく明滅していた。ラドン。あの光の向こうに、最後の一柱がいる。
「行こう」
陸の合図で、アルシオンとリヴァイアが、みんなを乗せて夜空へ駆けあがった。荒ぶる光を、まっすぐに目指して。
近づくにつれて、空模様が一変した。
穏やかだった夜空に、真っ黒な雲が渦を巻いてわだかまっている。稲妻がひっきりなしに走り、耳をつんざく雷鳴が、腹の底まで響いた。風は刃のようで、まっすぐ飛ぶことさえままならない。まるで、近づく者すべてを拒んでいるみたいだった。
「これが……ラドンの領域か」宗介が風に叫ぶ。
その嵐の中心へ、一行は無理やり突っ込んでいった。
雪乃が、光の膜でみんなを守る。大和が盾を掲げて、風下に立った。ユニコーンの光が視界を照らす。誰も、戦ってはいない。ただ、この荒れ狂う嵐に耐えながら、前へ前へと進んでいく。
だが、嵐は、生半可ではなかった。
突然、頭上でひときわ巨大な稲妻が弾けた。その一撃が、まっすぐ、柚希めがけて落ちてくる。
「柚希!」
間に合ったのは、リヴァイアだった。海龍がとっさに巨体を割り込ませ、その雷をまともに受けた。ビリビリと鱗を焦がしながら、それでも、仲間を守り抜いた。低い呻きが、腹の底に響く。
「くっ……こいつ、本気で殺しにきてるぞ」宗介が、歯を食いしばった。
甘く見ていた。これは、ただの通り道じゃない。一歩間違えば、誰かが命を落とす。そういう嵐だった。それでも、進むしかない。
先頭を進むのは、サンダーウルフだった。ラドンの眷属であるこの狼だけは、荒れ狂う雷のなかを平気な顔で歩いていく。まるで、道を知っているみたいに。その背を追って、みんなは少しずつ、嵐の芯へと近づいていった。
何度も、風に吹き飛ばされそうになった。それでも、誰ひとり、引き返そうとは言わない。この嵐の向こうに、たったひとりで震えている神がいる。そう思うと、足は勝手に、前へ出た。
そして、嵐の目にたどり着いた。
そこに、それは、いた。
雷雲そのものが、意志を持ったような姿だった。渦巻く黒雲のなかに無数の稲妻が走り、爛々と光る二つの目が、こちらを睨みつけている。雷の神、ラドン。その全身から、抑えきれない怒りが、ばちばちと火花になってこぼれていた。
『去れ』
雷鳴のような声が、頭のなかに直接、叩きつけられた。
『貴様か。我が同胞たちを、たぶらかした人の子は。……去れ。貴様の顔など、見たくもない』
「話を聞きに来た」陸は、風に負けじと声を張った。「あんたに」
『聞くことなど、ない!』
ラドンが吠えると、ひときわ大きな稲妻が陸の足元に落ちた。地面が爆ぜる。それでも陸は、一歩も退かなかった。
『なぜ、退かぬ』ラドンの声が苛立つ。『貴様のせいだぞ。貴様が六柱を、その身に引き寄せたせいで、世界が軋んでおる。すべて、貴様が蒔いた種だ。……英雄気取りか。とんだ疫病神よ』
その言葉は、陸のいちばん柔らかいところを的確に抉った。そうだ。全部、自分のせいなのだ。反論の言葉は出てこなかった。
けれど、逃げるわけにはいかなかった。
「……うん。そうだ」陸は、絞り出すように言った。「あんたの言うとおりだよ。俺のせいで、世界は軋んでる。それは、ちゃんと引き受ける。逃げない。……だから、来たんだ」
ラドンが、意表を突かれたように、口をつぐんだ。責められれば、言い返してくると思っていたのだろう。
「責められるのは、当然だと思う。でも、それでも。俺は、あんたを置いていきたくないんだ」
そうしているあいだにも、事態は刻一刻と、悪くなっていた。
ラドンの荒ぶる力に呼応して、あちこちの空間が、ビキ、ビキと音を立ててひび割れていく。裂け目の向こうに、何もない真っ黒な虚無が覗いた。世界そのものが、悲鳴をあげている。ノクスの言葉が、脳裏をよぎった。この一柱の心が定まらぬかぎり、歪みは危ういまま揺れつづける——。
もう、あまり時間がない。それでも、焦って力ずくでどうにかなる相手でもない。陸に残された道は、たったひとつ。この頑なな神の、本当の心にたどり着くこと。ただ、それだけだった。
それでも陸は、ラドンの目をまっすぐに見つめた。そして、そっと《心話》で、その荒れ狂う心に触れてみる。
――どうして、そんなに怒ってるんだ。
『黙れ! 我の心に、触れるな!』
その拒絶が、引き金だった。
ラドンの怒りが、爆発する。渦巻く雷雲から、無数の雷が、獣のかたちを取って躍り出た。牙を剥く雷の狼の群れが、いっせいに陸たちへ襲いかかる。
「陸を守れ!」
宗介が、真っ先に飛び出した。その剣が、白く光る。刃圏のはるか外まで空間ごと断つ一閃――《断空》。迫る雷狼をまとめて薙ぎ払う。返す刀で、実体のない雷そのものを斬り離す《斬理》。あの長い夜で得た力を、宗介はいま、初めて解き放っていた。
「あたしだって!」
静が杖を掲げる。魔力がみるみる巨大な壁を象った。《具現》。雷の奔流を、真正面から受け止める。壁の陰から、彼女はもう一方の手を振るった。存在ごと削り消す《虚無崩し》。ひときわ大きな雷獣が、音もなく掻き消える。
だが、敵の数は減らない。倒すそばから、嵐が次の雷獣を生み出していく。
ハルの影が、戦場一面に広がった。《影天蓋》。影に紛れ、味方の位置を悟らせない。その隙に、柚希の矢が三本同時に唸る。それぞれが雷獣の急所を撃ち抜いた――《三射》と《標の矢》。刻まれた標へ、フェニクスの炎とリヴァイアの水流が、次々と吸い込まれていく。
一頭の雷狼が、雪乃の背後に回り込んだ。
「雪乃、危ない!」
叫んだ大和が、盾を掲げる。竜鱗の輝きが味方全員を包んだ――《竜帝の盾》。さらに、離れた雪乃へ見えない糸を繋ぐ《盾の絆》。彼女に届くはずだった一撃を、大和がその身で肩代わりした。
「……恩に着る」雪乃の指先から、光の糸が伸びる。割れかけた空間へ、それを一針ずつ縫いつけた。《世界結い》。世界の傷が、少しずつ塞がれていく。
圧巻だった。あの長い夜を越えて、みんなが手にした力。使う機会のないまま眠らせていた力が、いま、神の猛威を前に、次々と花開いていく。神獣たちも負けてはいない。小夜の九尾が雷を払い、ジオの蔦が地を縛り、アルシオンが空を駆けた。
だが――。
どれだけ薙ぎ払っても、どれだけ壁を築いても。相手は、神だった。嵐は衰えるどころか、時が経つほど激しさを増していく。じわじわと、押し込まれていく。
「きりが、ないぞ……!」宗介が、肩で息をした。
そうだ。陸には、わかっていた。これは、勝てる戦いじゃない。神を力でねじ伏せることなど、できはしない。みんながこうして戦ってくれているのは、勝つためじゃない。陸が、あの神の心にたどり着くまでの、時間を稼ぐためだ。
だったら――応えなきゃ、いけない。
雷の渦巻く戦場の、その真ん中を。陸は丸腰のまま、まっすぐにラドンへと歩き出した。仲間が空けてくれた、その一本道を。
歩きながら、陸はもう一度、ラドンの心を視た。渦巻く怒りの、そのいちばん奥。ぽつんと凍えるような、深い寂しさを。
やっぱりだ、と陸は思った。
ふと、陸の足元から一頭の獣が進み出た。サンダーウルフだ。ラドンの眷属だった獣。かつてラドン自身が「認めたわけではない」と言いながら、陸に託していった雷の狼。
サンダーウルフは、まっすぐにラドンの前まで歩いていって、くうん、と甘えるように鳴いた。まるで、久しぶりに会う親にでも、するように。
ラドンの爛々とした目が、揺れた。
その狼は、いま、幸せそうだった。毛並みは艶やかで、目はいきいきと輝いている。ずっと独りだった森の奥から陸に見つけられて、たくさんの仲間に囲まれて。かつて自分が手放した眷属の、その満ち足りた姿を、ラドンはまぶしそうに見つめていた。
「なあ、ラドン」陸は静かに言った。「あんた、本当はずっと、見てたんじゃないのか。サンダーウルフを俺に預けて。……こいつを通して、ずっと俺たちのことを」
『……何を』
「サンダーウルフを手放したのだって、本当は、あんたなりの手の伸ばし方だったんじゃないのか。素直に、仲間になりたいって言えなかったから」
『黙れ』ラドンの声が震えた。さっきまでの、雷鳴のような力は、もうなかった。『黙れ、黙れ……!』
「みんな、あんたを待ってるよ」陸は、七つの光を指さした。「六柱ぜんぶ、あんたが来るのを待ってる。俺も、待ってる。……あんただけ、輪の外で意地を張ってる。ずっと、ひとりで」
嵐が、ふいに弱まった。
黒雲の隙間から、ラドンの本当の声が、こぼれ落ちてくる。もう、怒ってはいなかった。ただ、途方に暮れた幼い子どものような声だった。
『……いまさら、どんな顔をして、あの輪に加われというのだ』
『我は、ずっと拒んできた。貴様を認めなかった。散々、悪態をついた。……なのに、いまさら、寂しいから混ぜてくれなどと。そんな都合のいいことが、言えるものか』
『それに……』ラドンの声が、いっそう細くなった。『もし、いまさら輪に加わって。それでも、やはり要らぬと言われたら。……我は、今度こそ、耐えられぬ。だから、最初から要らぬと突き放しておくほうが、まだましなのだ。……そうやって、我は、ずっと、ひとりでいた』
ああ、そうか。陸の胸が締めつけられた。この神様は、寂しくてたまらなかったのだ。それなのに、意地を張りすぎて、自分から輪に戻るきっかけを、なくしてしまっていた。
「怖いんだよな」陸は、静かに言った。「また、要らないって言われるのが。だから、傷つく前に、自分から突き放す。……そうやって、ずっと、自分の心を守ってきたんだ」
図星だったのだろう。ラドンの嵐が、びくりと震えた。
「でもさ、ラドン。俺は、絶対にそんなこと言わない。約束する。何百年でも、何千年でも。あんたが信じてくれるまで、俺は何度だって、迎えに来るから」
「そんなの、気にすんなよ」
陸は、笑った。心の底から。
「うちの奴らなんて、みんなそうだったよ。最初は、つっけんどんで意地っ張りで。リヴァイアなんて、呑まれるぞって俺を脅してきたしさ。……でも、いいんだ。そういうの、ぜんぶ。おいでよ。何回悪態ついたって、俺は怒らないから」
陸は、嵐に向かって、そっと手を差し伸べた。
「おかえり、ラドン」
長い、長い沈黙があった。
やがて、渦巻いていた黒雲が、ほろほろとほどけはじめた。稲妻がやんでいく。刃のようだった風が、いつのまにか、あたたかなそよ風に変わっていた。
雲の晴れた空から、一条のやわらかな雷光が、まっすぐ陸の手のひらへと降りてくる。荒々しくはない。まるで、おそるおそる差し出された大きな手のようだった。
陸のなかに、最後の絆が結ばれる。
七つ目にして、いちばん頑固で、いちばん寂しがりだった雷の神との、絆が。
その瞬間、空を見上げていた全員が息を呑んだ。
痛いほど輝いて、いまにもはじけそうだった七つの光が。ラドンという最後のピースを迎えて、ふっと、やわらかなひとつの温かい光に溶け合ったのだ。荒れ狂っていた力が、嘘のように凪いでいく。世界を軋ませていた歪みが、ゆっくりと、あるべき形に戻っていくのがわかった。
異変が、収まっていく。
空を見上げる陸の頬を、あたたかい光が、そっと撫でていった。七柱の神々の、感謝の気配だった。ありがとう、と。ばらばらだった七つの想いが、いま、ひとつの穏やかな光になって、この世界をやさしく照らしている。
怖い光だと思っていた。世界を壊す、災いの光だと。けれど、そうではなかった。あれは、ずっと行き場をなくしていた、優しさの塊だったのだ。それが、あるべき場所に収まっただけ。
陸が、たったひとりの意地っ張りを輪の中に迎え入れた。ただ、それだけのことで。
嵐の晴れた空に、一頭の、雷をまとった巨大な狼が姿を現した。サンダーウルフを、そのまま何十倍にも大きくしたような姿。それが、ラドンの本当の姿だった。
その巨狼が、おそるおそる、陸のそばまで降りてくる。近くで見ると、その目は意外なほど優しかった。さんざん悪態をついていたのが、嘘みたいに。
「よろしくな、ラドン」
陸が笑いかけると、ラドンはぷいと顔を背けた。それでも、その大きな体を、そっと陸の隣へ寄せてくる。
「……ふん。世話になってやる。ありがたく思え」
いかにも不器用なその物言いに、みんながどっと笑った。サンダーウルフが、嬉しそうに、その大きな親のまわりをぐるぐると駆けまわっている。ずっとひとりぼっちだった雷の神は、もう、ひとりではなかった。
「よし、帰ろう」陸は、みんなを振り返って言った。「拠点で、盛大に歓迎会だ。ラドンの席も、ちゃんと空けてあるからさ」
「席なんぞ要らぬわ。我は、この大きさだぞ」
「じゃあ、でっかい焚き火、焚いとくよ」
「……ふん。まあ、悪くない」
ラドンは、そう言って、初めてほんの少しだけ、口の端を上げた。そっぽを向いたまま、それでもラドンの尾は、ぱたぱたと機嫌よさそうに揺れていた。七つの光がひとつになった、穏やかな夜空の下を。大きな家族が、笑いながら、家へと帰っていく。長い長い異変の夜は、こうして、あたたかく明けようとしていた。
その頃、開発室では、三浦たちがモニターに映る数値を、呆然と見つめていた。
限界値を振り切っていた、七体の神AIの出力。それが、いまはすうっと下がって、これ以上ないほど安定した値に収束していく。あれほど暴れていた雷属性の個体も、いまは、ほかの六体と穏やかに同期していた。
「……収まった、のか」佐々木が、へなへなと椅子に座り込む。
「収まった」こはるが、涙声で頷いた。「世界のコアも、正常値です。綻びの反応も、ぜんぶ消えていってます」
三浦は、しばらく何も言えなかった。ただ、モニターの向こうで、七つの光がひとつの温かい灯になった、その中心を見つめていた。
「……剣の一振りも、なかったな」三浦が、ぽつりと呟いた。「あいつは、また話を聞いただけだ。荒れ狂う神の隣に座って。……たったそれだけで、世界を救いやがった」
モニターの中の空から、七つの光がすうっと消えていく。あとには、ただ穏やかな夜が広がっているだけだった。長い異変は、本当に、終わったのだ。
こはるが、目元をそっと拭った。「……あの子に、いつか、お礼を言いたいですね」
「言えるさ」三浦が、小さく笑った。「向こうはたぶん、何もした覚えがないって顔をするだろうけどな」
アルテのログが流れた。
アルテのログ:
「いちばん強く、いちばん荒ぶる神は、
本当は、いちばん、寂しがりだった。
認めたくない。混ざりたくない。
そう吠えながら、その実、
ずっと、輪の外から、見つめていた。
誰も、その神を、斬らなかった。
ただ一人の男が、嵐の中に立って、
おかえり、と、手を差し伸べた。
七つの灯が、ひとつになった。
世界を軋ませたのは、大きすぎる優しさ。
それを解いたのも、また、同じ優しさだった。」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
ついに、最後の一柱、雷の神ラドンとの決着でした。決着といっても、剣を交えたわけではありません。今回もやはり、陸がしたのは、荒れ狂う神の隣に立って、その本当の声に、耳を澄ませることだけでした。
いちばん強く、いちばん激しく陸を拒んでいたラドンが、その実、いちばん寂しがりだった——というのが、この回で書きたかったことです。意地を張りすぎて、自分から輪に戻るきっかけを失ってしまった。そんな不器用な神の手を、陸は、笑って引いてやりました。かつてラドンが「認めたわけではない」と言いながら託していったサンダーウルフが、その心を解く、最後の鍵になってくれました。
これで、世界を揺るがした異変は、収束しました。世界を軋ませたのは、陸の大きすぎる優しさ。そして、それを解いたのも、また同じ優しさでした。倒すべき悪のいない、この物語らしい結末になったかなと思います。
長い異変編に、お付き合いくださって、ありがとうございました。次回は、少し肩の力を抜いて、七柱ぜんぶがそろった、賑やかなその後を、のんびり書けたらと思います。
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