第103話「世界のいちばん深いところ」
その夜、ログインの前に、柚希から電話がかかってきた。
「あのね、しばらく、休み取ったんだ」柚希の声は、少し照れくさそうだった。「最後の旅だもん。ちゃんと、最後まで見届けたくて」
「そっか」陸は、静かに笑った。「ありがとな」
「なに言ってんの。あたしが、行きたいだけ」柚希が、ふふ、と笑った。「今夜、行くんでしょ。あの、世界のいちばん深いところ」
「ああ」陸は、窓の外の夜空を見上げた。「行こう」
その夜の拠点は、いつもと空気がちがっていた。
宗介たちも、ガロードも、シィラも、みな世界樹のもとへ集まっている。七柱の神々まで、そろって顔を出していた。ノクスも、ガイアも、ゼフィロも。旅の終わりを、見守るために。
「……無事に、戻ってこいよ」ラドンが、腕を組んで、そっぽを向いた。「べつに、心配して来てやったわけではないからな」その尾が、落ち着かなげに、ぱたぱたと揺れている。荒ぶる雷神の面影は、もう、どこにもない。
「準備は、いいかい」ノクスが、静かに問うた。
陸が頷くと、世界樹がこたえるように、ざわりと枝を鳴らした。
そのときだった。ずずん、と地が揺れ、世界樹の根もとの地面がゆっくりと割れていく。太い根がみずから身をよじり、地の底へと下る大きな道を、つくりはじめた。
「この樹の根をたどれば、世界のいちばん深いところへ行ける」ガイアが、厳かに告げた。「いのちの源が眠る場所へ、な。だが、この道を開けるのは、この樹を育てた者――お前だけだ」
陸が根にそっと手を触れると、根はうれしそうに脈打ち、下へと続く光の道を照らしだした。
「行ってくる」
陸たちは、その根の道を、下りはじめた。
どこまでも、下へ。太い根が壁となり天井となって、一行を地の底へと導いていく。上を見あげても、もう、出てきた地上は見えない。下りるほどに空気があたたかくなり、かすかな鼓動のようなものが、足の裏から伝わってきた。まるで、生き物の体のなかを、下っていくようだった。
やがて一行は、途方もなく広い空洞へと、たどり着いた。
思わず、誰もが息をのんだ。
そこは、世界の、いちばん深い場所だった。見あげるほど高い岩の壁が、脈打つように、ほのかな光を宿している。どくん、どくんと、大地そのものがゆっくりと息をしているようだった。あたたかく、古く、生きている。誰ひとり、見たことのない場所だった。
「これは……」シィラが、かすれた声でつぶやいた。「世界の、根そのものだ。すべての生命が、ここから生まれ、いつかここへ還っていく……」
そのときだった。空洞のあちこちから、ちいさな光の粒が、ふわふわと集まってきた。
「うわっ」大和が身構える。「なんだ、こいつら」
だが、その光たちに、敵意はなかった。むしろ、陸のまわりに、うれしそうにまとわりつく。ほんのりとあたたかく、まるで久しぶりに会った友を、迎えるように。
「……なついてくる」陸が、目をまるくした。
「生きとし生けるものは、みな、お前を知っているのさ」シィラが、目を細めた。「お前が、いつだって、いのちに手を差し伸べてきたから。ここは、そういう場所だ。お前を拒む理由なんて、どこにもない」
光の粒たちは、陸の肩や手のひらの上で、うれしそうに跳ねた。柚希がそっと手をのばすと、その光は、彼女の指先にもちょこんと止まった。あたたかかった。触れているだけで、胸の奥がじんわりとほどけていくような、やさしい光だった。
光の粒に導かれるように、一行は、さらに奥へと進んだ。
空洞のいちばん底に、それはあった。
巨大な、光の塊。ゆっくりと、脈打っている。まるで、大きな、大きな心臓のように。近づくにつれ、あたりの空気が、どくん、どくんと震えた。鼓動に、合わせるように。それは、この世界のすべての生命が、そこから流れ出す大いなる源――生命の、みなもとだった。
だが、ガロードの顔から、血の気が引いていた。
「……主。この、奥だ」老騎士の声が、かすれる。「とてつもなく大きな、何かが……眠っておる」
陸が、そっと一歩、踏みだした。
その瞬間。
脈打っていた光が、ふわり、と大きくふくれあがった。眠っていた何かが、ゆっくりと、身じろぎする気配。そして――。
『……だれだ』
古い、古い声が、みんなの胸の奥に直に響いた。とてつもなく大きく、けれど、どこかひどく寂しげな声だった。
『わたしを……呼ぶのは、だれだ』
陸は、その声に、胸を突かれた。これまで出会ってきた、どの存在ともちがう。あまりに大きく、あまりに古い。だが、その奥にあるものは、いつもと同じだった。長い長い時を、たったひとりきりで過ごしてきた者の――底なしの、寂しさ。
その声とともに、大きな光がゆっくりと明滅する。まるで、長い長い眠りから、目を覚まそうとするように。
陸のまわりに集まっていた光の粒たちが、いっせいに、その大きな光のほうへ向きなおった。まるで、親の目覚めを待ちわびる、子どもたちのように。
「起きようと、してる……?」柚希が、息をのんだ。
だが、次の瞬間。ふっと、光がしぼんだ。まるで、まだ覚めきれない、とでもいうように。あたりを照らしていた光の道も、そっと、勢いを弱めていく。
「……今日は、ここまで、みたいだね」ノクスの声が、静かに響いた。「あれは、まだ、深い眠りのなかにいる。無理に起こしてはいけない。急いてはならないよ」
陸は、明滅する光を、じっと見つめた。あの寂しげな声が、まだ、胸に残っている。
「わかった。……また、来る」陸は、静かに告げた。「お前が、ちゃんと目を覚ませるように。今度は、俺たちが、そばにいる」
光が、ほんの少しだけ、あたたかくまたたいた気がした。
その夜も、めいめいが光の粒になって、溶けていく。陸も静かに目を閉じ、その輪郭を、脈打つ光のなかへほどけさせた。
開発室では、こはるが、モニターにかじりついていた。
「三浦さん……世界樹の根が、マップの、いちばん底を突き破りました」こはるの声が、震えている。「その下に……データの、ない場所があるんです。わたしたちが、作ってもいない、領域が。あの子たち、そこへ、潜っていって……」
「地図の、外か」三浦は、画面に映る脈打つ巨大な光を、じっと見つめた。「なあ、こはる。あの光は……たぶん、俺たちが作ったものじゃない。この世界が生まれたときから、ずっと、あそこにあったんだ」
三浦は、ふと、口をつぐんだ。
「……この世界の、心臓だよ」
その夜、観測者アルテのログに、これまで一度も記されたことのない、短い一文が刻まれた。
『目覚めのときが、近づいている。世界のいちばん深いところで、ずっとひとりきりで眠りつづけてきた、いちばん古いいのちの――』
ヘッドセットを外すと、部屋のなかは、しんと静まりかえっていた。陸の耳には、まだ、あの声が残っている。だれだ、と。わたしを呼ぶのは、だれだ、と。
ほどなくして、スマホが震えた。柚希からだ。
『あんな場所が、あったんだね』少し間があって、もう一通。『……あの声、すごく、寂しそうだった。早く、起こしてあげたいね』
『ああ』陸は、静かに返した。『あいつも、ずっと、ひとりだったのかもな』
窓の外の夜空を、陸はじっと見上げた。世界のいちばん深いところで、ずっと眠りつづけてきた、大いなるいのち。旅の終わりは、もう、すぐそこだった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
いよいよ、最後の旅がはじまりました。世界樹の根をたどって、世界のいちばん深いところへ。たどり着いたのは、これまでのどの場所ともちがう――大地そのものが脈打つ、生命の源でした。
これまでは、忘れられ、傷ついた者たちが、陸を風で、闇で、拒みました。けれど、ここは正反対。生きとし生けるものが、みんな、陸を歓迎してくれる。だって、陸はいつだって、いのちに手を差し伸べてきたのですから。あの光の粒たちの、あたたかいこと。
そして、その奥で眠っていた、大いなるいのち。『わたしを呼ぶのは、だれだ』――とてつもなく大きくて、とてつもなく寂しいその声。ずっとひとりきりで眠りつづけてきた、この世界のいちばん古いいのち。……やっぱり、この子も、ひとりだったのですね。
「実装した覚えがない」力の正体に、開発室も、そして観測者アルテも、静かにざわめきはじめました。旅の終わりは、もう、すぐそこです。
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