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平民御者視点 前編

 バルベイルお嬢様は、儚げ、という言葉がよく似合うお方だった。


 俺が十五歳の時、馬が好きだからという理由で申し込んだ御者の仕事で、たまたまタイミングが合ったのがバールライ侯爵家だった。前御者が腰を痛め、補佐を募集していて雇ってもらえたのだ。

 親族に犯罪歴もなく、これまでも色々と働いてはいたのでそれが評価されたらしい。ただの平民からすれば、ラッキーなことこの上ない。この家のご令嬢は第一王子殿下の婚約者というとんでもない家に雇われてしまったなと思っていたら、すぐにそのお嬢様と対面することとなった。

 お嬢様が王城に行くために、御者見習いとして馬車に乗ってついていくことになったのだ。

 正直、とても緊張した。友人は平民ばかりで、一歳年下といっても殿下の婚約者という高貴なお方を間近に見るのは初めてだったからだ。


 第一印象は、どこか儚い人。

 金色の髪も碧い瞳も貴族らしくてとても綺麗で、挨拶の仕方とか歩き方とか、どこを切り取っても洗練された人。顔も平民にはいないようなはっきりとした顔立ちの美人で、立ち姿勢も見たことがないくらい美しかった。

 圧倒的なオーラすら感じるぐらいなのに、なぜか儚い、という言葉が自分の中ではしっくりときた。

 だからなのか……その微妙なアンバランスさが気になって、すぐに目が離せなくなっていた。


 バルベイルお嬢様は、慣れてくると少しずつだが挨拶以外の言葉も二言三言くらいならば交わすことが許された。

 しかし彼女はずっと、殿下に合わせて自身の感情を殺している部分があった。俺にも微笑んでくれるようにはなったけれど、彼女の口からは殿下の話しか出てこない。

 好きなものを尋ねても、彼女は自身の好みを言わない。殿下の好きなものが、私の好きなものだから、なんて言って微笑むのだ。

 一途に殿下を想い、殿下に尽くす姿が……とても眩しく思えた。こんなにも想ってもらえる殿下が羨ましくもあった。


 しかし……ある時から、学園に行った後はその表情を曇らせて帰ってくるようになった。一年生の間はそんなことはなかった。お嬢様がニ年生になってしばらくしてからだ。明らかに、その眼差しに寂しさが加わった。

 どうしたらいいのだろう。どうしたら、お嬢様を元気づけられるだろう……

 そんなことを考えていて思いついたのは、きれいな景色を見せるという単純なものだった。これでお金も地位もある男だったら、もっとご令嬢が喜ぶような宝石とか……食事とかドレスとか、色々と出来るのだろうけど。

 金の少ない俺なのだからしょうがない、諦めろと自分に言い聞かせて、お嬢様を俺が知っている中でこの季節に一番見頃を迎える花畑へと連れて行った。

 馬車から降りたお嬢様は、花畑を目を細めて見ていた。優しい眦だ。その時だけは、寂しさが少しだけ消えていた。


「……ありがとう、クルト。気を遣わせてしまったわね」

「俺にはこのくらいしか出来ませんから」

「いいえ……とても綺麗だわ。この花々のように私も自信を持って咲き誇れたら良いのだけどね」

「バルベイルお嬢様は十二分に頑張っておられると思います」

「ありがとう」


 短い会話だったけれど、バールライ侯爵家に三年務めて初めて、お嬢様の言葉が聞けた気がした。

 そして……この会話が、俺とバルベイルお嬢様の最後の会話となった。



 元気を無くしていくお嬢様を心配していた時期だった。お嬢様も三年生になられ、学園生活最後の一年という時、唐突に、お嬢様の眼差しにどこか不安が払拭されたような強い光を見た気がした。それは学園に向かうために馬車に乗る直前だった。

 いつもは俯きがちでゆっくりと乗り込むお嬢様が、俯きがちではあるが、その歩みがやけに早いのだ。いや……早いというよりは、強い?

 とにかく足取りがしっかりとしていて、違和感を持ったことを覚えている。

 それから、その違和感がやけに気になってしまった。何かあったのかと心配しながらも、俺はお嬢様との繋がりを求めていたのかもしれない。

 口には出さないものの、俺はお嬢様には分からないように注意深く彼女を見るようになった。

 しかもちょうど同じ頃に、俺が馬や馬車の手入れをしていると、ふと誰かに見られている気がして、怪しくないぐらいでその視線の主を探すとお嬢様だったことが何度もあった。

 お嬢様から向けられるその眼差しは、これまでのような儚さではなく、かといって厳しさでもなく……優しい、に近いけれど、こう……もっと穏やかな眼差しだった。

 そしてどことなく、バルベイルお嬢様なのに、お嬢様ではない誰かのような雰囲気も感じていた。

 何を馬鹿なことを、とも思うが……三年以上、見守ってきたんだ。この違和感を放っておくことは出来なかった。


 お嬢様からの視線に十回気付けたら何かあったのか聞いてみようと心に決めて、数えていたある日。お嬢様から、休日に王都にある本屋に行くから馬車を出してほしいと頼まれ、二つ返事で了承した。送迎も買い物も何事もなく終わって、お嬢様は数冊の本を手に邸に帰ろうとした。

 それに対して、本は俺がお持ちしますよ、と言うと、お嬢様が一瞬だけにこりと笑ったのだ。

 見たこともない笑みだった。いつもの……淑女の微笑みとは違う。あの、俺を見てくる時に近い、それ。

 まだ八回目だ。でも今のは、三回分に相当するんじゃないかと都合よく考えて、俺はお嬢様に言葉を続けていた。


「バルベイル、お嬢様……お尋ねしたいことが、あります」

「ええ、何かしら?」

「最近……何か良いことがございましたか?」

「良いこと? この本達を手に入れられたことくらいね」


 いつもよりも、はきはきと話す。いや、二人で話したことなど、あの花畑の時くらいなのだけど。


「あの……大変、失礼なことをお伺い、するのですが……」


 緊張した。体が小さく震えるほどだった。

 これでいらないことを言って、避けられるようになったらどうしようという不安が脳裏を過ぎったけれど……もしかしたら……もしかしたら俺だけが、お嬢様のお力になれるかもしれないと、思ったんだ。


「お嬢様は……バルベイルお嬢様、ですよね?」


 なんてことを聞いてくるのかと嫌な顔をされるか、表情すら変えず肯定されて終わるか……背中に冷や汗が流れたけれど、もう聞いてしまったものは取り消せない。

 心臓の音が耳に響くようでドクンドクンとうるさい中で……俺はお嬢様を見つめる。


「……私は私よ? それはあなたもよく知っていることでしょう?」

「はい……」

「なぜそんなことを聞いてきたの?」

「あの……お嬢様が、ここ最近、いつもより足取りが早い、時があって違和感を感じました。それと……これは俺の思い過ごしかもしれませんが、俺のことを見ていませんか? その時の眼差しが……これまでのお嬢様より、優しげなかんじがして……」


 まだ緊張は解けない。俺の勘違いだったら気持ち悪いを通り越して恐いくらいだろう。普段からそれだけ俺に見られているということなのだから。

 下手をしたらクビにもなりかねない。


 嫌だ……辞めたくない。俺はもっと、お嬢様が幸せに笑うところを見ていたいのに。

 ギュッと拳を握って唇を噛んだ時だった。


「……これを持って。私の部屋まで運んで」


 お嬢様はそう言って俺に本を渡してきて、一人で歩き出してしまった。俺は急いでその後を追い、初めて彼女の部屋へと入室を許可されたのだが……


「あ、本はそこに置いて。うん、その机の上でいいわ」


 ぐいーっと伸びをするお嬢様と、やけにはきはきと話す姿に呆気にとられる。


「ほら、早く。早くしないと話さないわよ」


 その言葉に、俺が慌てて本を置くと……


「ふふ。ごめんなさい。嘘よ、ありがとう、クルト」


 バルベイルお嬢様が、俺に笑った。いや、さっきも笑ってくれたように思ったけど……そんなんじゃなく。年相応の、可愛らしい笑顔を向けられて俺の心臓が高鳴った。


「すごいわね、あなただけよ」

「俺……だけ?」

「ええ、私の変化に気付いたのは。いやぁまさか足取りを見られているなんて。さすがだわぁ」


 腕を組んでうんうんと頷くお嬢様。まぁ、座って話しましょ、と言ってソファに座るよう促され、向かい合ってソファに座る。


「……あなたは、誰ですか?」


 開口一番。

 気になりすぎて不敬だったと考えることすらせず聞いてしまった俺に、カッと目を開いて満面の笑みを浮かべたのは、目の前に座るバルベイルお嬢様だ。


「良い! 今のセリフ、良いわ! 一度言われてみたかったの!」

「…………はい?」

「ふふふ、何を隠そう……この私、バルベイル・バールライの秘密を、そなたに教えてしんぜよう!」


 握った拳でドンと胸を叩き、もう片手は腰に当てている。自慢げに見えるその姿は、あの儚げなお嬢様の面影はどこにもなくて……


 もう、本当に訳が分からなかった。バルベイルお嬢様の顔と体と声なのに、表情や言動が全然違う。コロコロと変わるその表情に呆気にとられる。


「信じられないだろうけど、信じて。私も詳しくは分かっていないし、やっと慣れてきたところだから」


 俺がぎこちなくも頷くと、お嬢様は落ち着いて話を始めた。


「私はね、バルベイルであってバルベイルじゃないの。体はバルベイルなんだけど、頭の中に別の人格がいるわ」

「別の人格……?」

「ええ。この表現が一番分かりやすいと思う。とにかくこれまでのバルベイルとは別人の記憶とか思考が、ここに詰まっているのね」


 こめかみより少し上を人差し指でトントンと叩く。


「その別人は、この世界とは全く違うところで生まれ育った女性よ。オオバアキというの。アキが名前ね」


 こういう名前、と机の上にあったペンと紙でその名を書いてもらったけれど、俺には記号にしか見えなかった。

 お嬢様──というか、アキ様というか──の話を夢物語だと思わなくもなかった。けれど……目の前の彼女はすごく真剣だったし、信じてと言われたのだから俺にはそうするしかないと思った。

 だから話を否定することなく頷いていると、途中でお嬢様が怪訝そうに俺を覗き込んできた。


「……何も言わないけど、大丈夫? 通報したりしないわよね?」

「通報?」

「騎士団に連れて行って、バルベイルを名乗る怪しい者がいますって捕まえようとか思ってない?」

「そんなこと思いませんよ! あの……何というか、大変だったんだな、と思って……」


 こんなことしか言えない自分に嫌気が差す。大変なのは当たり前だ。聞いてるだけの俺ですら困惑しているのに、当の本人は相当なものだろう。

 それに……やっと慣れてきたところだという人に、すごく失礼なことを聞きそうになっている。

 もう元のバルベイルお嬢様には会えませんか、なんて……今のアキ様を否定するような言葉になりかねないのに。


「……バルベイルお嬢様のことは、どのくらい分かっているのですか?」

「全部分かるわよ。この世界の知識も教養も、全部バルベイルのものだし、思い出だってあるわ。バルベイルはすごいのね。頭がとっても良いから、学園でも困らずに過ごせたし」


 学園……そうだ。この方は、一度だって学園を休んでいない。それだけじゃない。王子妃教育で王城にも通っていたし、家の中でだって、バルベイルお嬢様として過ごしていた。

 アキ様はこことは全然違う習わしで生きてきたと言っていたのに、当たり前のようにバルベイルお嬢様の生活をこなしている。

 ……誰にも、頼ることなく。もしも俺が言い出さなかったら……この方は、これからも一人で過ごしていたのだろうか。


 これは分不相応なことだとは分かっているけれど……一人にしてはいけないと思った。


「……あの、学園とか王城で困っていることはないですか? 俺でも何か、出来ることがあれば……生活のお手伝いとかは……」 


 俺のその申し出に、お嬢様は少しだけ黙り込んだ後、うーん、と一度唸った。


「……実はね、予知夢、的なもので。私はこの世界のバルベイルがこの先どうなるのかを少しだけ知っているの」

「予知夢……ですか」

「うん。それでね、バルベイルは今のままではあまり幸せにはなれないのよ。少なくとも、私がその予知夢のようになるって思うと絶対に嫌」


 その瞳は、お嬢様としては見たことのない強さを秘めたものだった。


「だから私は現状を打破するために、これから色々するつもり。あ、もちろん、バルベイルとして、ね。表ではちゃんと貴族令嬢らしくするし、この話だってクルトにしかするつもりはないわ」

「俺にだけ、ですか?」

「ああ、ごめん。プレッシャーをかけちゃう言い方になったわね。えっと、気付いてくれたのがクルトだけだから、クルトにしか話してないの。自分から話すことでもないだろうし。それこそ頭のおかしな人だと思われるわ」


 それは……確かにそうかもしれない。だってこの方がバルベイルお嬢様だと気付いたのは、俺がそれだけ見ていたからで……

 この家の人達が、バルベイルお嬢様のことを俺ほど気にしているとは思えなかった。

 だからこそ。プレッシャーなんていくらでもかけていい。むしろ俺を……


「クルトにも迷惑をかけないようにはするから。もしかしたら迷惑をかけちゃうかもしれないけど、その時は──」

「かけてください」

「え?」


 口を開けて呆けたお嬢様に、俺は強く言い寄る。


「プレッシャーも迷惑も、かけてください。俺しか知らないんだったら、俺に出来ることをお手伝いさせてください!」


 立ち上がりそうな勢いで言えば、お嬢様は数度まばたきをして、ふいに一瞬、辛そうな顔になった。

 え、と思った時にはもう笑っていたけれど。


「……私は容赦も遠慮もないわよ? いいの?」

「もちろんです」

「ありがとう。今すぐに出来ることはないから……そうね、次のステップに進めるようになったら、お願いすることもあると思うわ。その時にまた話をしましょう」


 分かりました、という俺の返答を聞いて、にやり、と片方の口だけ上げて笑うお嬢様だったのだが……俺にはこれまでの笑みよりも少し不自然に思えた。


 ……一瞬のことだったんだ。一瞬だけ、辛そうに眉を顰めた気がしたのだけれど。今はもう、普通に笑っているだけだ。俺の思い過ごしだったのだろうか?


「よろしくね、クルト」

「こちらこそ、よろしくお願いします」


 お嬢様は頷いてくれたけれど。これから先、あんな表情にはさせたくないな、と思ってしまう自分がいた。



 お嬢様の秘密を知ってから少し経つが、相変わらず、バルベイルお嬢様はバルベイルお嬢様だった。完璧なご令嬢でお淑やかな雰囲気を纏い学園へと通っている。

 でも馬の手入れ中に視線を感じ、見上げると窓越しに目が合うことが増えた。そこからお嬢様は小さく手を振ってくれたりして、俺は素直に嬉しくてたまらない気持ちになる。

 俺しか知らない、彼女のこと。しかし俺はまだ、頼られたことが一度もない。

 次のステップと言っていたが、それはいつになるのだろうと考えていたら、その数日後に馬車を降りる際にお嬢様から部屋へと呼ばれた。

 今日も数冊の本を運ぶためのお供として入室する。机の上に本を置いて、前のようにソファに向かい合わせに座ったところ、お嬢様はすぐに本題へと移った。


「じゃあ早速だけど。クルトの服をね、貸してほしいのよ」

「…………へ?」


 いきなりのことに、俺は固まった。ちょっと何を言われているのか分からなかった。


「へ、じゃなくて。服を貸してほしいの」

「服? 俺の、ですか?」

「そうよ」


 やっと俺に意味が通じたことに満足したのか、お嬢様が楽しげな口調となる。


「……なぜですか?」

「走り込みをする服がね、ないのよ」

「走り込み……?」

「この家の裏道あたりをね、ぐるっと走りたくて。人通りが少ない時間に走って体力をつけたいの。でもバルベイルの持っているものって全部ドレスで走れるようなものがないのよ。だから、クルトに借りようと思って」

「だからって……え、でも、どうして俺の服なんですか?」

「誰かに見られても、クルトが走ってるように見えるかもしれないでしょ? さすがに令嬢ががっつり走ってるとこを見られるわけにもいかないし」

「確かに、そう、だと思いますが……髪の毛はどうするのですか?」

「髪の毛はまとめて黒い布を巻くから大丈夫よ。それだけは既にやってみたけど、それなりに見えるわよ」


 ちょっと待ってて、と言って、クローゼットを開けて黒い布を取り出し戻ってくると、座ってから慣れた手付きで髪を束ねて、布を頭に巻いてみせた。


「どう? 遠目からだと、まぁまぁ誤魔化せそうじゃない?」

「まぁ……確かに、見えなくも……ない? ですが……」

「汗拭きにもなるしね。でも、服は買ったら家族に怪しまれそうでしょ? それなら借りるしかないかなって」

「俺の……服を……」

「ええ、そうよ。だってクルト以外に借りれる人いないし」

「いや、でも。俺の服、ボロボロのやつばかりで……」

「じゃあ新しいのを買ってプレゼントするから、古い服をちょうだい」

「それは、その新しいのを着たらいいのではないですか?」

「もしもの時のためにクルトに見えるようにしたいのだから、クルトが着てない服を着ても意味ないでしょ?」


 もう、と呆れたように言われても。


「ええ、っと。でもですね、その……」

「あ、靴はね、買うための言い訳をちゃんと考えているから、靴までは借りないわ」

「……何と言うのですか?」

「つま先が痛いからヒールのない靴でダンスの練習がしたい、と言って買うつもりよ」


 ……その理由なら、靴は入手出来そうだけど。服もどうにか出来ないかな。だって俺の服って……バルベイルお嬢様が、俺の服を?

 いやいやいや。だめだろ。それはだめだ。

 あんな小汚い服、お嬢様に着せるわけにはいかない。


「もちろん服を借りるのにタダでとは言わないわ。私も何かクルトが欲しい物をプレゼントするから」


 その言葉に、俺は自分の気持ちがグラリと揺れたのが分かった。いや、さっき着せるわけにはいかないと思ったばかりじゃないか!


「欲しい、もの」

「ええ。それこそ、私に出来ることなら何でもいいわよ」

「何でも……」


 もう俺の決意なんてグラグラだ。それこそ一生懸命洗ったやつならば貸しても大丈夫なのかな、なんて思っている。そのぐらい、お嬢様からの提案は魅力的すぎるもので……

 服の対価にしては、釣り合わない気がする。だってそれは、お嬢様の時間を長いこと拘束してしまうことになるものだからだ。

 しかし、思いつくのがそれしかない。


「あの……俺、お恥ずかしい話なのですが、文字が書けないんです。読むことは出来ますが……」


 こんなにも何でも出来る人の前で教養の無さを認めるのは恥ずかしい。けれど認めないことには、俺の希望は叶わない。


「お時間を取ることになるので、都合がつかなければかまいません。空いている時間などで良いので、文字を書けるようになる練習をさせてもらえないかと……」


 伏し目がちで話していたから、お嬢様がどんな表情をしているのか分からない。人をバカにするような方ではないけれど、少しだけ顔を上げるのが恐かった。

 しかし、お嬢様からは俺が思っているよりもずっと肯定的な意見が返って来たので、俺は思わず顔を上げることとなった。


「それはもちろん良いわ。クルトは学園に行かずに働いているのだし、仕事に使わないのだから書けなくて当たり前よ。平民出身者ならば、文字の読み書きは出来ない人の方が多いという統計も出ているわ。だからクルトが恥ずべきことは何もないし、むしろクルトは私なんかよりずっと立派だと思っているわよ」

「俺がお嬢様よりも立派だなんて」

「自分で働いてお金を稼いでいるじゃない。確かに知識や教養でいえば私の方があるでしょうけど、私は自分の手でお金を稼ぐような仕事はまだ出来ないわ。両親が整えてくれた場で養ったものしかないけど、クルトは自分自身で考えて動いて、積み上げてきた信頼と実績がある。それは人間として、とても立派なことよ」

「……ありがとうございます」

「だから恥じる必要はない。生まれによって出来ること出来ないことがあるのは当然なんだから。もっと堂々としていればいいのよ。服貸してやるんだからお前の知識を寄越せー! ぐらい強気にきたって怒らないわよ、私は」


 ふふ、と笑ったお嬢様に、俺もつられて笑い返す。

 恥じることはないと言ってくれるようなお方だから、俺も自分の希望を口に出来たのかもしれない。教養がないことの恥ずかしさとか惨めさとか……劣等感とかが、何となく、薄らいだように感じられた。


「文字かぁ……それなら、まずはこんな方法からだったらどうかしら」


 お嬢様は紙にスラスラと文字を書き始めた。そこには俺の名前と、俺が世話をしている馬達の名前が書かれた。


「ペンをあげるから、まずはこれを上から何度かなぞってきて」

「なぞる」

「ええ。書き順はこの矢印に沿ってね。すぐにやってみる?」

「はい」


 ペンを渡されて、ペンの持ち方と紙の押さえ方なども教えてもらう。


「そうそう。その調子。上手いわね。そんなかんじでやってみて。明日はちゃんと全部の文字を順番に書いたものを渡すから。ある程度なぞる練習をして、なぞらなくても書けるようになってきたら、仕事とか生活に直結した単語を練習しましょう。単語はこっちで見繕っておくんだけど……って、そんなやり方で大丈夫?」


 促されるままに書いてみたが、なぞった文字はぶれてて全然きれいじゃない。けれど、それが楽しいと思った。文字を教えてくれるだけじゃなく、俺のことまでしっかりと考えられていて……これはもう、服を貸さないという選択肢はどうやっても残らなかった。


「ありがとうございます。俺も……服、お嬢様の背丈になるべく合うサイズのものを探してきます。少しお待ち下さい」

「ありがとう! 助かるわ!」


 やったーと喜んで笑う顔を、とても可愛いと思う。

 元のバルベイルお嬢様とは違って無茶苦茶なことを言う方なのに……気付けば俺は、この方から目が離せなくなっているのだった。


 

 家に帰ってから、着古した中でも綺麗に見えるものを全力で洗った。家族に不審な目で見られたけれど、気にしている暇はなかった。

 後日、洗ったものを持って行くと、なんと俺用の新しい服を三着も上下で買われていて驚いた。どこでいつ買ったのかと聞けば、先日新しいドレスを頼むタイミングで、いつも送迎をしてくれている御者に内緒でプレゼントしたいの、と言って見繕ってもらったらしい。


「既製品だし、大体の背格好で選んでもらったんだけど。ドレスを仕立ててくれている人がクルトを遠目で見て選んだから、たぶん合うと思うわ」


などと言って。それなら尚更、このきれいな方をお嬢様が着てくださいと言ったけれど、彼女は首を縦に振ることはなく。俺の古い服も返ってくることはなかった。

 もらった服はこれまで着てきたどの服よりも生地も着心地も良かったのだけど、持って帰った日には家族から大変に不審がられることとなり、説明に苦戦した。



 そしてとうとう、お嬢様が俺の服を着て走り込みをする日がやってきた。しかしこの日、予想だにしないことが起きた。いや……正確には、お嬢様が大変な思いをした。

 初日ということもあり、本当は散歩ぐらいで終わらせる予定だったけれど、ちょっと走りたくなって走ってみたんだそうだ。それが良くなかった。

 帰りが遅くなれば迎えに行こうと思っていたら、とんでもなく息を切らしながらお嬢様が帰ってきて、俺は慌てて水を準備して木陰へと誘導した。


「……こんなにも、体力が、ないなんて……どうなってるの、よ……ダンス、してるん、だから……もうちょっと……マシだと、思ってた、のに……」


 肩で息をするお嬢様に許可を得て、背中を擦る。

 その細い体に、初めて触れた。こんな時なのに俺は、この方の婚約者になんてなれないから、触れるのはこれが最後かもしれない、なんて考えてしまっていた。


「……クルト? どう、したの?」


 背中を擦っていた手が止まっていたから、お嬢様が不思議そうに俺を見ていた。息切れは少し治まったみたいだ。


「……いや、なんでもありません」

「……本当に? ならいいんだけど……助けてくれてありがと。楽になったわ。クルトがいてくれなきゃ道端で倒れてたかも」


 頭に巻かれていた布が落ちた。煌めくような金色の髪が現れる。眩しい色だと思った。とても綺麗で、貴族らしい色だ。

 助けられたなら良かったと笑って誤魔化そうとしたけれど、碧眼の瞳にじいっと見つめられると言葉に詰まる。

 しばらく沈黙したまま見つめ合っていたけれど、その沈黙を破ったのはバルベイルお嬢様だった。


「……綺麗な黒い目よねぇ」


 ぽそりとお嬢様がそうこぼして、俺は間抜けにも、へ? と一言しか返せなかった。


「私の……あきの世界ではね、黒髪黒目が普通だったの。私もそうだったのよ? だからなんか……クルトを見ていると落ち着くのよね」


 これこそまさに、しみじみ、なのだろう。懐かしさも含んだような瞳で見つめられる。この眼差しには覚えがあった。


「もしかして……俺のことをよく見ているのは、この色が懐かしいからですか?」

「うん。そう。ごめんね、不躾に見ちゃって」

「いえ……お嬢様が好きなだけ、その……見てもらって、大丈夫です」

「え、本当に? 嬉しい。じゃあ今度からは遠慮なく見るわね」

「はい」


 今まで遠慮してたのか、とも思ったが、これで目が合うことが多くなるならば、俺としても嬉しいことだ。

 こんなこと……前のバルベイルお嬢様では考えられないことだ。そもそもありえないことなのに、お嬢様があまりにもすんなりと俺をそばにおいてくれるから、俺はどんどんと欲が膨らんでいく。

 この方の秘密を知っているのが俺だけならば……これから先も俺だけを頼ってくれたりはしないだろうか、なんて夢みたいなことを考えてしまうようになっていた。



 お嬢様が息切れをひどくせず走れるようになり、俺もふにゃふにゃせず文字が書けるようになった頃。俺達はこれまでより頻繁に、二人きりで話をすることが増えていた。

 お嬢様は、正直に言ってとても可愛かった。俺といる時だけは気が抜けるの、と肩の力を抜いて笑う姿に、俺はいつも胸が締め付けられる気持ちになっていた。

 この気持ちを口にすることは……叶わないかもしれないけれど。それでもこの方のお役に立てるなら、この痛みも受け入れていきたいと、そう思っていたんだ。


 そんな俺にとって、人生で一番といっていいほど葛藤する日が訪れた。


「……実はね、クルト。彼の方が浮気をしてるのよ」


 一口紅茶を飲み、カップを置いた直後に憂いを帯びて発せられた言葉。

 当然、俺は取り乱した。


「彼の方……とは、その……お嬢様の……いや、お嬢様と、婚約を結んでおられる……方、ですよね?」

「そう。前からなんだけどね。浮気相手と出会ったのは二年の半ば頃で……三年になってからいよいよ本格的にね、イチャつき始めたわ」

「イチャつき……?」

「ベタベタ触り合って、チュッチュッと口付けあって、君だけだよ愛してるよと愛を囁きあっているのよ、二人は」

「なっ、え、それ……!?」


 カッと真っ赤になった俺はそのままに、お嬢様はまたカップを持ち上げて静かに紅茶を飲む。


「いよいよ……この時がやってきたのよ」


 ごくりとつばを飲み込んでしまうような緊迫感。お嬢様はそっとカップを戻す。その所作はとても美しく、物音一つ立てない完璧さだ。


「……ここからが私の本当の闘い。ここでどこまで出来るかが、勝敗を握る鍵となるの」

「お嬢様、一体、何を……?」

「……やるしか、ないわ」


 その一言を告げた後…………

 カッと目を見開いたお嬢様。この顔は……以前も見覚えが……?


「いざここに! 名付けて! 浮気探偵大作戦の始まりよ!」

「………………はい?」


 呆ける俺をおいて、お嬢様はその作戦を熱く語り出した。


「私はね、予知夢のおかげで二人がどこで逢引するのかを知っているの。もちろん私という婚約者がいながら会うのだもの。人目につかない場所になるわ」


 ギッと睨む様は、まるで鬼のよう。


「これは立派な裏切り行為よ。裏切っているのはバルベイルだけじゃない。我が家も、王家も、国民ですらも裏切っていることになるのに……次代の王となる男が、見えないところでこそこそと不誠実なことを繰り返すなんて……許して良いはずがないわ!」


 立ち上がったお嬢様が、拳を握る。


「そんな不埒者に、私が不幸にされる未来なんてありえない! 確固たる浮気の証拠を集めて、一泡吹かせてやろうじゃないの!」


 拳を天高く上げ、高らかに宣言した。


「さぁ、クルト! 今こそ立ち上がる時よ! あなたは私の影武者として、この作戦の一端を担うのよ!」


 ドドーンと音がしそうな勢いに押され、目を瞬かせる。

 ……何やら先程、不穏な言葉が聞こえた気がする。


「作戦はこう! まず私が──」

「ちょっと待ってください、バルベイルお嬢様」

「……何よ? 今からが良いところなのに」

「いや……俺があなたの影武者って……何のことですか?」

「ああ、そこね。まぁ聞いて。浮気の証拠集めにね、張り込みをしようと思うのよ。張り込みをするにあたって、大事なのは私のアリバイよ。この作戦が完遂するまでは、私は普段通りの生活をしておかなければならないの。でないといざって時に、あることないこと言われて私が悪者にされかねないわ」

「は、はぁ……」

「私が家にいるであろう時間に、あの二人は逢瀬を重ねる。その現場を私は張り込むから、ね?」

「……から、ね?」


 清々しいほどの笑みを浮かべたバルベイルお嬢様に、嫌な予感しかしなかった。


「クルトには、私のドレスと金髪のかつらで私の影武者になって、この部屋で待機してもらいまーす♡」

「いや無理ですって!」


 俺は立ち上がって必死にお嬢様を止めた。


「何が無理なのよ。大丈夫よ」

「いやいやいや! 俺がお嬢様の影武者になんて、無理に決まってるじゃないですか! しかもドレ……ス……ドレス……え、俺、ドレス……?」

「そうよ。影武者なんだから、私と同じ格好をしてもらうわ」

「無理です! 入りませんよ!」

「ちっちっち。甘い甘い。心配御無用! この日のために、少し大きめのドレスを買ってるから」

「買っ……いつ……!?」

「クルトの服を買った時よ。私もこれから背が伸びるかもしれないし、最近ちょっと太り気味だから緩いドレスが欲しいわぁと呟いたらね、仕立て屋さんが気を利かせてくれたの。ああいう人を仕事が出来る人、というのね」


 あ……あんな時から……この計画を……?


「かつらもね、その時に。今後、王太子妃となった時のために、今から客観的に自分の見栄えを確認したいと言ってね。髪って後ろが見えないじゃない? 王太子妃として、後ろ姿こそ美しくありたいから同じ髪色のものが欲しいわ……って、呟いたら……この通り!」


 じゃーん! と出されたのは、お嬢様の髪色と同じもの。

 こんな時に満面の笑みを向けないで欲しい。


「この机に座って、うずくまって寝ているフリをしてくれればいいから。座っていたら背格好なんてそんなに分かんないわよ」

「誰か入ってきたらどうするんですか!?」

「そこはね、ドアに張り紙をしておくから大丈夫」

「張り紙……?」

「『ただいま仮眠をとりながら読書中。極力、入室はお控えください』って」

「そ、それだけですか?」

「実は張り紙はもう何度か試してみて、私の部屋に入ってくる可能性のある人達は対応出来てるから。侍女なんて、私が寝たフリしてても最初は戸惑いながら声をかけてきてたけど、今じゃ静かに入ってきて、紅茶だけ置いて帰っていってくれるのよ? 何も問題ないわ!」


 ま……まずい。このままでは、本気で……


「ただねぇ、この手段は家の近所で逢引してる時にしか使えないから、使えるとしてもニ回だけかな。さすがにクルト一人で着替えて張り紙張って待機してて、っていうのは厳しいものね。ちゃんと私がセッティングしてから出るから、安心して!」


 いや、パチンっとウインクされても……どうせならもっと違う場面で見たかったですよ……そういう可愛いのは。


「……それよりもっと……厳しいところがたくさんあるでしょう?」

「どこよ。言ってみなさい」


 どうしてそんなに自信があるんですか……


「まず俺がドレスを着るってところです。男がドレスなんて……」

「あら、そんな男女で区別してはいけないわ。確かにドレスは主流が女性だけど、デザイナーには男性も多いし、最近は男性用のドレスだってあるらしいじゃない。デザイナーの彼らは、試着の時に自分で身につけたりもするって聞いたわよ」

「その人達は仕事でしょう? それに、その間の俺の仕事はどうなるのですか?」

「あ、そこはちゃんと手配するわ。その日、あなたは有給!」

「……有給?」

「お給料が出る休みよ。そもそもね、あなたは毎日毎日働きすぎ。たまには休みを取りなさい」

「え……いや、だって、それが普通で……」

「真面目なんだから。あなたにだって趣味ややってみたいことがあるでしょ? もっとお休みを取っていいのよ」

「…………でも、その休みの日に、お嬢様に付き合っていたら俺は休みじゃないですよね?」

「うっ……痛いところをつくわね」


 バルベイルお嬢様はそこでやっとその笑みを崩した。しかし……俺としては、休みにでも会えるのであれば嬉しいことではあるのだが……頼まれた内容が内容なだけに、すぐには頷けない。ちゃんと、真意を知りたかった。


「……何でそこまでするんですか?」 

「何で?」

「何度かの逢瀬を目撃するだけではいけないのですか? ここまでやらないといけない理由はあるんですか?」

「そりゃあ、楽しいからよ」


 あっけらかん。まさにそれだ。


「こんな楽しいこと、やらずにいるなんて嫌だもの」

「楽しい……」

「ええ。これをやらずに証拠不十分にでもなったら、立場の低い私が泣き寝入りしなければならない事態になるわ。そうなると私が知っている最悪の結末に近づいてしまう」

「最悪の、結末」

「十数年、殿下のため、国のため、国民のために身を粉にして尽くしてきたのはバルベイルよ。あんな浮気相手じゃない。この体になって分かったけれど、バルベイルの努力は並大抵のものじゃないわ。それこそ、何も考えずとも自然に、息をするかのように淑女の振る舞いが出来るぐらい」


 それには……俺も頷くしかない。あの方は常に高貴なお姿だった。たとえそれが、辛そうにしている時ですら。


「バルベイルの努力を踏みにじるなんてさせないわ。それに私からしたら、殿下なんて好きでもない、慕ってもいない相手だもの。やるならとことん、容赦なく、よ」


 好きでもない、慕ってもいない、というところに安心してしまったのは……今は考えるべきではないことだった。


「私にとって生き辛くなるような可能性が残っているのなら、今、やりたいようにやって、人生を楽しんだ上で足掻ききってみせるわ。絶対に、あんな未来になんてさせない」


 お嬢様は一度深く息を吐き出した。そこに込められた決意が、滲み出ているかのように。


「お願い、クルト。協力して」


 その時に真正面から見つめられ、俺は気付いてしまった。

 ……たぶん、お嬢様は自分で気付いていないが……その瞳は不安気に揺れていた。

 この不安は俺しか知らない。俺だけが感じ取れたことだ。

 それはとても誇らしくあると同時に……とても悔しかった。

 不安な気持ちにさせたくはない。けれど俺には、今すぐその不安を払拭するだけの力がないのだ。こんな無茶な作戦で証拠集めなんてしなくても、この方を幸せに出来る手段があるならば、そうしたいのに。


「……多くてもニ回だけ、ですか?」

「うん、そう! 二回だけ!」


 何も持たない俺には、この方に協力することしか出来ないのだ。


「分かりました。一応、ご令嬢らしい座り方、教えてくださいね」

「ありがとう! ありがとう、クルト! テーブルマナーから何から、全部教えるわよ!」


 飛び跳ねるように喜ぶ姿を見て、俺はソファの背もたれに沈み込んで大きく息を吐き出した。


 これで……良いんですよね、バルベイルお嬢様。あなたはきっと、幸せになれますよね?

 答えの返ってこない問いに自嘲気味に笑って、俺はまた目の前の元気なバルベイルお嬢様へと向き合うのだった。



 証拠集めも何とか順調に進み、どんどんと卒業式が近付いていた。お嬢様が言うには、この卒業式で、お嬢様の未来が決まるらしい。

 私は幸せになるのよ、と言いながら、お嬢様は台本だといって何枚もの紙に色々と何かを書いているようだった。

 この台詞回しは……ちょっとクドいわね、なんて言いながら、俺も時折読む練習に付き合った。


「もうちょっと、悪ぶって言えない?」

「バ……バルベイル! 貴様は!」

「いいかんじ!」


 こんなところで、初の呼び捨てをすることになるとは……少し……いや、かなり、残念ではある。こんな風に言うのではなく、もっと込めたい感情は違っていたけれど……それを口には出せなかった。

 この頃のお嬢様は、楽しそうではあるけれど、時折、一瞬だけ辛そうに俺を見ることが増えていた。その目は、俺が手伝いを買って出た時と同じもので……

 その視線に気付く度、言いしれぬ不安が俺の中に生まれていたのに。俺はそれを深く考えないようにしてしまっていた。

 今この瞬間、お嬢様といられることが、幸せだと思っていたんだ。



 次の作戦は、何と前侯爵当主に会いに行った後で、隣国との国境近くにある宿を探しに行くのだという。前侯爵が引退後に移り住んだ土地がたまたま国境地帯に近かったのだそうだ。

 前当主の元を訪れることは侯爵夫妻が決めたそうで、それに便乗するのだとか。俺も御者として送迎を任されてはいたので、旅には同行する。


「関心が薄いけど、普段から良い子だったからバルベイルへの信頼はあるのね。少し周辺を見て回りたいと言えば即了承がもらえたわ。だから、当日はよろしくね」

「……分かりましたが……日程的に無茶なことはしないでくださいね。長旅ですから、疲れを残されてはいけません」

「ありがとう、クルトはやっぱり優しいね。そうそう。あの辺なら、その本に載ってある草花も見れるかもしれないわ。探してみましょうよ」


 この頃には、俺も文字の読み書きは終えて、計算や歴史や生活に関する教養をお嬢様から教えてもらっていた。今は『馬のすべて』という本をプレゼントされ、読み込んでいるところだった。


「旅行なんていつぶりだろ。楽しみだわぁ」

「アキ様の時は、旅行には頻繁に行かれていたのですか?」

「んー学校もあったしそうでもないけど、バルベイルよりは出てるわね。あ、そうだ。そのあき様、っていうのやめて。むずがゆい」

「むずがゆい」

「あきの世界ではあんまり、様付けで呼び合ったりはしないのよ。年上だったら、さん、とかかな」

「あきさんで、よろしいのですか?」

「うん。そっちの方がいいな」


 歯を見せて笑うあきさんことバルベイルお嬢様に、俺は馬の乗り方を教え、二人で馬に乗って宿探しすることとなった。

 彼女は着実に、新たな一歩を踏み出す準備をしていた。

 それを一番近くで見ていたはずの俺は……お嬢様のお手伝いをするだけで、自分自身をどうこうすることは、何一つしていなかったのだ。


 

 とうとう、バルベイルお嬢様の卒業式当日。俺は彼女以上に、朝から緊張と心配と不安がごちゃまぜになった感情に押し潰されそうだった。

 お嬢様から課せられた使命は一つ。お嬢様を侯爵家の馬車で送り届けた後、一旦邸に帰り、家紋の入っていない馬車に乗り換えてお迎えに行くことだ。

 彼女はたった一人で、その闘いに挑む。

 そばにいられない自分が悔しくて仕方ないが、乗り込むわけにもいかない。

 到着してからはもう、気が気じゃなかった。時間がかかりすぎていないか。言いがかりを付けられてはいないか。騎士に無理矢理、捕らえられてはいないか……いくつもの疑念が浮かんでは消え、浮かんでは消え……

 どうか……どうか、彼女が無事でありますように。

 強く祈ること数回……こちらに走ってくる人が見えた。

 お嬢様は予定通り、裸足で走ってきた。ドレスも両手でそれぞれ握って持ち上げ、裾の先から足が見えている。

 勢いよく馬車に乗り込んだお嬢様は、すぐさまその一言を発した。


「出して!」

「はい!」


 俺には聞きたいことが山程あった。けれどそれらを喉の奥にぐっと押し込めて、安全第一ながら最速で邸へと帰れるようにとにかく急いだ。

 邸に帰り着いて馬車を降りる時、お嬢様の目元が少し赤らんではいたが、俺はそれに気付かないフリをした。


「……お疲れ様でした」

「何を言ってるのよ。これからよ、これから」


 明るくて強いお嬢様に、俺はそれ以上、かける言葉が見つからなかった。

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