359回目 口は災いのもとだから、取り締まるのは当然のこと
口に出して文句を言うなら、誰にも頼らず自分でやっていけば良い。
不平不満は、それだけで害悪だ。
それがトモルの考えである。
そもそも、不平不満とは無責任の代名詞だ。
自分で何かをすること無く、他人にケチをつける。
それは、他人に責任がある事が前提の話だ。
自分ではない他の誰かに責任がある。
そいつの指示や考えで行動して問題になった。
だから文句を言う。
文句を言ってる方は、こういう意識はないかもしれない。
だが、自覚がなくてもこういう事が前提になっている。
それをトモルは無くした。
文句を言って責任逃れをする。
その全てを封じた。
「ここではお前らが考えろ。
考えて決めろ。
何をするのか、何をすればいいのかを」
役所もそう言って文句を突っぱねる。
それで面食らうのは連れてこられた者達だ。
今まで通り、当たり前の事をしたら首をきられる。
そんなのあり得ないことだった。
彼らの常識では。
「そんな常識、知ったことか」
トモルはそれこそどうでも良いとつっぱねる。
「もう誰かが何かしてくれると思うな。
何かするなら自分でやれ」
そう言われて連れてこられた者達は放置される。
嫌でも彼らは理解するしかない。
自分達はもう誰も頼れないと。
そうなると様々な問題が噴出してくる。
今まで言ってきた文句のほとんど全てが自分達に降りかかってくる。
例えば水利権。
水を誰が優先的に田畑にひくのか。
その使い道でもめる。
今までならば、庄屋や領主がそれを最終的に決めていた。
その結果に不満があれば文句を言っていたのだが。
それが出来なくなった。
「お前らで決めろ」
役所の出張所に行けば、そう言って追い返される。
「こんな事で二度とここに来るな。
来たら切り捨てる」
それで終わりだ。
一事が万事この調子である。
今まで庄屋や領主が決めていた事。
その全てを自分でやらねばならなくなった。
おかげで事態は紛糾する。
一人でやってるならともかくだ。
やはり共同作業がどうしても主流になる。
他の者達との兼ね合いもある。
その調整をしていくとなると、どうしても衝突が発生する。
そして、全員が納得する事は無い。
何か決めれば、誰かに何かしらのしわ寄せが出てしまう。
それがもめる原因となる。
それを強引に決定を下していたのが庄屋や領主だ。
何も決まらずにいれば、何も進まない。
その為に、強引に物事を決めていった。
それが無くなったのだ。
全てが何も決まらずに進んでしまう。
連れてこられた者達の中で、それが常態化した。
ならざるをえなかった。
もう誰のせいにも出来ないのだから。
それでも誰かのせいにするならば。
何の助けもなく死ぬだけである。




