弁財天
続きです。
1.
ヒナを待っている間、俺とキジエさんはとりあえず血まみれの男をクレーンからおろし、血を拭いて傷口を消毒した。男が抵抗した瞬間に殴るつもり満々のキジエさんは傍らにバットを置いたままピリピリしていたが、男もさすがに血を失いすぎたのか、暴れることもなく素直に俺たちの指示に従っていた。キジエさんは男を椅子に座らせて後ろ手と足を縛りつける。完全に身動きを封じたのを確認した俺たちが再び商談室に戻ってからすぐに、
「ただいま!」
元気な声とともに、脇に大きな紙袋を二つ抱えて息を切らせるヒナ。そういや、あれから30分は経ったな……いったいどこ行ってたんだろう。
キジエさんはヒナの顔を見るなりこめかみを押さえながら長いため息をつく。
「あ~ぁ……マジでやるのかよ」
後からつつくだけでそのまま倒れそうな表情を浮かべるキジエさん。
「もちろんだよ。ちょっとおにいちゃんはここで待ってて」
疑問を口にしかけた俺を軽く手で制し、キジエさんを連れてヒナは二階へと向かう。気のせいか、その足取りはとても楽しそうに見えた。
一体、何が始まるってんだ?
ゆっくりと2杯目のアイスコーヒーを飲んでいたら、ギシギシと音を立てて、二人が階段から降りてきた。思わず立ち上がって、お帰りと言いかけたところで、俺の身体はあまりの衝撃に固まる。
「お待たせ、おにいちゃん。どう、似合う?」
階段から躍り出るように俺の前に姿を現したのは、フリルにまみれたゴスロリメイド姿のヒナ。猫耳カチューシャがメガネをかけたヒナの幼い顔を愛らしく彩っている。サイドポニーにくくられたヒナのショートボブもこれまた絶妙だ(何がって?何かがだよ)。際どい短さのスカートから覗く黒ニーソにつつまれた健康的な脚も目に眩しい。レグバの忌み嫌う絶対領域がこれでもかと主張していた。
「お……お前、その格好」
「さっき、裏の商店街にあるメイド喫茶で頼み込んで借りてきたんだけど、やっぱ、おかしいかな?」スカートのすそをつまみあげてポーズをとるヒナ。
「あんな寂れた商店街にメイド喫茶なんてあったのか?」
俺が退院した日、ヒナと一緒に通ったけど、人通りこそ多かったものの、場所自体は昭和のニオイ漂うアーケード街だったような……俺たちくらいの年代もあまり見かけなかったし。
「うん。最近出来たお店だけどね。うちの店と一緒でこの町じゃ結構浮いてるから、何となくはみ出しもの同士、近所付き合いするようになっちゃって。それより、どう?ダメかな?」
「いや、メチャクチャ似合うけど……」言葉が詰まる。本当は、部屋に持ち帰って飾っておきたいくらい可愛い。
思わず頬を赤らめる俺に、ヒナもまた照れたようにはにかみ、
「ホント?あは、嬉しいな。でも、驚くのはまだだよ。おねーちゃーん!」
階段を見上げてキジエさんを呼ぶ。ゆっくりと俺の目の前に現れたのは、羞恥と屈辱に顔を真っ赤にして階段を下りてきたキジエさんだったが……。
その姿に、俺は手にしていたグラスを危うく落としそうになった。
ヒナのメイド衣装よりも少しタイトなコルセット型のエプロンドレスが、数々のXスポーツ――と、多分ケンカ……――で鍛えぬいたわがままボディを強調させている。髪は可愛いピンクのリボンでツインテールにされ、そして、極めつけは、いたるところに巻かれた包帯。いつものきついメイクを落としてナチュラルメイクに変えてきたロリ顔に、絶妙なハーモニーを奏でるがごとく似合っていた。ちょっとクールな包帯メイド。これは、あれだ。なんていうか、ブルーローズだ。永遠のロマンだ。
「てめぇ、じろじろ見るんじゃねぇよ、アキラ!ぶち殺すぞ!」
必死ですごむも、その言葉にいつもの破壊力はない。むしろ、ヤンデレに見えて逆効果といえる。率直に言うと、萌える。中身があの暴力お姉さんってわかってて、いや、わかってるからこそ萌えてしまう自分にどう突っ込めばいいのかわからないほどだった。これぞ、ギャップ萌えってやつだ!
「この格好なら、話してくれるかなって……北風と旅人だよ」
上目遣いのヒナに、俺は不覚にも鼻血を噴きそうになった。
「おい、聞こえるか?」
俺は少し距離をとって、ぐったりとうなだれる男に向かって声をかける。椅子に両手両足を縛り付けてはいるものの、キジエさんがあんなになるまでてこずった相手だ。警戒するにこしたことはない。
血はほぼ止まっていた。そこら中に出来た青タンは痛々しいが、よく見ると、かなり若い。俺と同年代くらいに見えた。
俺の呼びかけに男はゆっくりと目を開ける。割れたメガネの奥から覗く小さな瞳はうつろな光に輝いている。確かに、見た目は電気屋街でよく見るただのキモオタだ。
男は俺を敵意に満ちた目で見つめる。何も言うつもりはないという強い意志が漲っていた。
俺は、扉の向こう側を振り向いて、「いいっすよ」と声をかけた。仁侠映画でよく観る、「先生、お願いします」の気分だ。我ながら楽しそうな声だと思った。
ゆっくりと開いた扉から入ってきた二人。その瞬間、男の目つきが変わったのを見て、俺は思わずにやけた。狙い通りだ。安直な奴だ。
ニコニコ笑顔のヒナと、いまだ屈辱に頬を染めて嫌そうな表情を隠しもしないキジエさん。ヒナが頭を下げた。
「はじめまして。猫耳メイドと包帯ヤンデレメイドですよ、ご主人様」
そんな紹介があるか!思わず突っ込みそうになったが、ヒナは実に楽しそうだ。もしかしてコスプレ趣味があるのか?
「ねぇ、ご主人様。ご主人様の立場と目的を教えてくださいませんかぁ?」
男は二人を食い入るように見ている。ごくりと生唾を飲む音が聞こえた。どうやら、出足は順調だが……果たして、あのキジエさんの拷問に耐えた奴がそう簡単に口を割るのか?
「ふ、ふん……この狗若衆副隊長『ツインテの半蔵』、その程度で口を割ったりはせぬ……」
「ご主人様は、狗若衆っていう組織の半蔵さんなんですねぇ……ふむふむ」
「あぁーーーーっ!」
叫ぶデブオタ……こいつ、バカだろ。それに、ツインテの半蔵ってなんだよ?そんな名前、俺だったら恥ずかしくて自殺もんだぞ。
ヒナの誘導尋問――自爆ともいうが――に見事引っかかり、悔しそうに顔をゆがめる半蔵。
「それじゃ、今度は本題ですよ、半蔵様」
首を斜めに向けて満面の笑顔を浮かべるヒナ。
「狗若衆ってどういう組織で、何を目的としてるんですか?」
「ぐ、ぐぐっ……」
明らかな動揺を表情に浮かべる半蔵。だが、閉じられた口は今度こそ堅そうだ。
そのとき、ヒナがキジエさんのわき腹をひじで軽く小突いた。キジエさんはずっと屈辱に顔をゆがめていたが、やがて、
「あの……ご、ごしゅじ…んさま。くっ……(どうしてこのあたしがこんなことを)ど、どうか教えてくださいま、ませんか?」
屈辱に顔をひきつらせるキジエさん。途中、小声で何か言っていたような気がするが、事情を知らない奴からすれば、それは恥ずかしさに必死に耐えるヤンデレメイドの姿にしか見えないだろう。
しかし、相手は腐ってもれっきとした忍者だ。さっきのヒナの質問は偶然口が滑っただけだろう。今度はそう簡単に口を割るはずが――
「我らは氷室家の女史すべてに仕える者。氷室家は女子のみが頭首となられる一族。その次期頭首の逸深様は深鈴様の血を強くひかれておられる。お若い容姿と神々しさもそのままである。その逸深様に敵対せしやからにはしかるべき制裁を。我ら、逸深様のためなら、この命惜しくなどない……だが、金髪ツインテール+ヤンデレはそれよりも最強……」
――あっけなく割ったな。
頬を赤らめ、目を背けながら、ボソボソと話す半蔵。最後、痛々しい台詞をぼそりと吐いたが……いずれにせよ、完全にヒナの作戦に引っかかっている。あまりのあっけなさに俺は開いた口が塞がらなかった。
狗若衆の様子を見て、手応えを感じたのか、キジエさんの目が光った。
「あ、あの……ご主人様。それで、どうしてご主人様たちは恐喝団などに加担しておられたんですか?由緒正しい忍者がやることじゃないですよねっ」
実にわざとらしい演技だ。俺が見ててもわかる。だが、何かのタガが外れてしまった半蔵はあっさり口を開いた。
「我らが恐喝団に属していたのは、頭目の多々良様の命によるものである。我らはあのような賊の生態を調べて来いと言われ、逸深様のファンと名乗る連中の仲介で派遣された。だが、断じて下らない恐喝や誘拐などには関わっておらぬ。我ら、戦闘能力のみを買われて奴らの用心棒になっていただけだ」
恐喝やミズホ誘拐にこいつらは関わっていないということか……少し、安心した。
「その多々良様という人は何のために連中の調査を行なっていたんですか?」
ヒナが聞く。俺は、何となく嫌な予感がした。
半蔵は急に黙り込んだ。ヒナが大きな瞳を潤ませて半蔵の顔を覗き込む。やがて、諦めたように、
「……多々良様は、く、屈折した成人男子同士が乳繰り合う同人誌を描かれるお方。恐らく、その資料にするのではないかと推測される」
こたえる半蔵は、教師から内申書と引き換えにワイセツ行為を強要された受験生のような表情を浮かべていた。
………………………………。
俺もヒナもキジエさんも開いた口がふさがらない。ここまで手間をかけた真相が、腐女子の同人誌資料のためだったとは……。キジエさんの全身が震えていた。恐らく、やるせなさとやり場のない怒りで。
ヒナは心底残念そうな表情で、深いため息をついた。俺もため息がとまらない。これ、カナエが聞いたら多分、本気でキれるんじゃないか?
キジエさんはエプロンドレスのポケットから青いバンダナを取り出し、いつものように目元で縛ると、ツインテールにしていたリボンを忌々しげに解いて、床に投げ捨てた。
「あ……あぁっ!貴様は!!」
驚く半蔵。というか、今の今まで気づかなかったのかよ……。
「ケッ!若い容姿と神々しさ……即ち、ロリで男ズレしてないってことだな。要するに、お前らは腐女子にアゴで使われているロリコン軍団ってことか。ロリコンをこじらせて娑婆でキモオタに成り下がった忍者の末裔……終わってんな。もう、あれだ。お前らは水垢臭と名前を変えろ。狗若衆なんて、そんな立派な名前いらねぇだろ。くっせえシャツ着やがって。うちの店に臭いがうつったらどうしてくれるんだよ、ボケ」
吐き捨てるキジエさんに、眉を吊り上げる半蔵。
「我らは暗殺集団、全員が瞬時に戦闘に臨むことが出来る訓練をされている。その際、急激な代謝の活発化により、膨大な老廃物が肉体から出る。故に、このようなニオイがするのだ。それよりも、貴様……」
半蔵の肩が怒りにブルブル震えていた。何か逆鱗に触れたらしい。
「我らや多々良様はともかく、逸深様を侮辱することは許さんぞ。逸深様は愛くるしい容姿のみならず、類まれなる力をも持ったお方。神通力こそ深鈴様には及んでおられないが、神格と直接会話できる能力があるのは、氷室家の長い歴史のなかでも、あの方だけだ!」
神格と会話できる能力……やはりR.E.D.の背後にいる弁天と直接交渉しているのって、レグバも言ってたが、氷室逸深だということか。
「それがどうした?神と会話出来ようが、ただのジャリタレじゃねぇか。おまえらが発育不全のガキに入れあげてる変態ロリコン集団であることにはかわりねぇんだよ」
キジエさんはそう言うと、ヒナに目配せする。
合図に気づいたヒナが半蔵の後ろに回りこみ、手足を縛っていたロープをすべて解いた。
「いずれにせよ今日はお互いケンカする力も残ってねぇだろ。見逃してやるから、ほら、さっさと帰れミズアカシュウ」
追い払うように手をパタパタさせるキジエさん。ロープを解かれた半蔵は仁王立ちのままキジエさんをにらみつけていたが、やがて、「この借りは必ず返す」とお約束の言葉を吐き、そのまま店から消えた。
キジエさんは半蔵が出て行ったドアをしばらく眺めていたが、やがて、椅子にドッカと座り、長い脚を下品に組んで、
「さて、どうすっかなぁ。いずれにせよ、このままじゃ終わらねぇだろ、ケケケ。楽しくなってきたぜ」
邪悪な笑みを浮かべるキジエさんを前に、俺は大事なことに気づいて目をそらす。その様子を見たキジエさんが「なんだよ?」と不思議そうに一言。
「あの、キジエさん。パンツ、パンツ見えてます!」
足をガバッと広げたまま組んだ足のせいで短いスカートがまくれ上がり、意外と可愛いレモンイエローの下着が俺の前で丸見えになっていた。
「バカおまえ、見てるんじゃねぇよ!」
キジエさんは赤面しながら裾を押さえて慌てて椅子から立ち上がる。ノーブラタンクトップは大丈夫なのに、パンツは恥ずかしいのか……よくわからない羞恥基準の持ち主だ。
そのとき、ヒナの携帯が鳴った。ヒナはあわてて携帯を耳に当てて部屋の隅へと移動する。何事かと思わずその姿を視線で追う俺に、
「おい、アキラてめぇ!話をごまかそうとするんじゃねえ」
キジエさんは恥辱で赤い顔をしたまま涙目で俺をにらみつけ、
「あたしの下着を夜のオカズにしやがったらカネ取るからな!」
「そんなことしませんよ!なんてこと言ってるんですか。それ以前に、カネってなんですか、カネって……」
リアルで世知辛い言葉にがっくりとうなだれる俺の背後で、「えっ……」愕然とした声。
思わず振り返る。目に入ったのは携帯を耳にあてたヒナの深刻な表情。
「……わかった。うん。じゃ……ごめん、お願い」
そのまま通話を切ると、携帯を持ったまま呆然とするヒナ。
「どうかしたのか?」俺の問いにもしばらく呆然とした顔を崩さなかったが、やがて、「あのね……」必死で頭の中を整理しているように見えた。
「……カナエから電話があって、学校の帰りにミズホが倒れたって」
「なんだって!」
思わず反応して声を荒げていた。
「あたしたちと別れてからすぐだったみたい……」
「そ、それで、具合のほうはどうなんだ?」
「すごい熱が続いてて、本人、一応意識はあるみたいなんだけど、原因がよくわからないみたいで、このまま検査入院になりそうだって……」
一体、どういうことだよ?わけがわからない……。
「ウィルス性ではないみたいなんだけど、原因がわからない以上、しばらくは面会謝絶だって。お見舞いにもしばらく来るなって言われた……」
「くそっ!何とかならないのかよ!」
どうして……いきなり?学校帰る前までは元気だったじゃないか……。
「カナエの話だと、帰宅途中にスイッチが切り替わるみたいにいきなり意識失ったって……」
……スイッチが切り替わるみたいに、だと?
「最近、なんかミズホの様子おかしかったから、ずっと変だなって思ってたんだけど、もしかして、あれって関係あるのかな……」
今にも泣き出しそうな顔のヒナ……。もしかして、ミズホじゃなくて、レグバが?
その時、俺のポケットの携帯がブルブル震えた。俺はすぐさま携帯を引っ張り出し、着信したメールを見る。ミズホ、いや、レグバだった。急いで打ったのか、ひらがなだけの短い文章が表記されていた。
『ここでながくとどまりすぎたわ。きょひはんのうがでてる。しばらくうごけそうにない。ごめん』
……何がごめんなんだよ。おまえが向こうに帰る方法を探すって言って、何もしていないのは俺じゃないか。俺の責任だ……。
『必ず助けるから、少し待ってろ』
衝動的に返信していた。
「どうしたの?もしかして、ミズホ?」ヒナが俺の顔を覗き込んでくるのに、
「いや。ちょっと家からだ。悪いけど、俺帰るよ」
思わず嘘をついていた。
「え?」
俺の方に視線を飛ばしてきたキジエさんと目が合う。俺は、気まずくなって目をそらせた。キジエさんは事情を知っている。相談するべきか……一瞬、そう思ったが、これは俺の責任だ。それに、キジエさんは深い事情までは知らない。俺の寿命のことを知られるわけにはいかない。
「すみません、俺、帰ります!」
俺はカバンとギターを抱えて、慌てて入り口へ向かう。行き先はわかっている。一刻の猶予もない。店を出た瞬間、俺は走り出していた。
「ちょっと待って、おにいちゃん!」
背後からヒナの声が聞こえたような気がしたが、足は止まらなかった。
2
俺は、学校の名簿を頼りにある場所へと来ていた。工業地帯のほぼ中心地、高層ビルが立ち並ぶ一角。ちょうどレグバと契約した辻のすぐ近くにあるマンションだった。時刻は10時を少し回っていた。人を訪ねる時間にしては遅いと思ったが、なりふり構ってられなかった。
深呼吸して、正面入り口の呼び出しボタンを押す。
『はい?』
なんとなく聞き覚えのある女性の声。たぶん、先日会ったナスカワの母親、氷室深鈴さんの声だ。
「あ、夜分遅くからすみません。僕、同じ学校の結城瑛と申しますが、逸深さんはご在宅でしょうか?」
考え込むような間があり、『あの……どういったご用件で?』
返ってきたのは穏やかながらも明らかにあやしむような声。
俺は少しの間考えた後、
「弁天という人について話があるとお伝えください」
『え……弁天?』
その時、背後で、ちょっと貸して。と、誰かの声が聞こえた。
『代わったわ。私よ』
「ああ、氷室さんか?俺です、結城です」
『わかっているわ。それで、何の用?』
嫌悪を隠しもしない声。
「話があるんだ。それも至急で。内容は、今言ったことに関係している」
『ちょっと待ってて』
氷室逸深はインターフォンを切る。言いつけどおり待っていたら、自動ドアの向こうからゴシックなワンピースを着たビスクドールな氷室逸深が出て来た。
「母の前でその事を言わないで。それで、何なの?」
俺の顔を見るなり毒づいた声で話す氷室逸深。俺は深く頭を下げた。
「な、なによ?」
「すまなかった。先日の無礼は謝る。それで、恥を承知で君に相談に来た」
「どういうこと?」逸深氷室の声色が変わった。
「話は、更科瑞穂さんのことだ」
「またその話?私には関係ないってあの時言ったでしょ?」
うんざりだと言いたげな氷室逸深。
「ちがう、そうじゃない。君ならうすうす気づいてるんだろ?今、ミズホの体内には、もう1つ別の人格がいる。そのことだ」
氷室逸深はしばらく黙り込んだ後、「それで、私に何をしろと?それ以前に、どうしてあなたがサラスバティ、いえ、弁天のことを知ってるの?」
「話が、少し長くなるが、かまわないか?」
「それじゃ、場所を変えましょう」
氷室逸深は俺の返事も聞かず、勝手に歩き出した。
彼女が入ったのは、マンションのすぐ近くにあるラウンジ形式の喫茶店。富裕層相手の店なのか、店構えや店内の造りは瀟洒で落ち着いていて、やわらかい色の電灯の下はほとんど全てがタバコブラウンと真鍮に彩られていた。店の客も30代から上の層ばかりで、俺たちくらいの年齢の奴は一人もいない。
よく来ているのだろうか、顔見知りっぽいマスターに軽く挨拶すると、俺の反応も見ずにアッサムとダージリンを頼み、席に座った。
「それで、どういうこと?」
不思議な光を持つ目で俺の目を覗き込んでくる氷室逸深。カラコンでも入れているのだろうか、軽く青味がかっている。間近で見ると本当に神秘的な娘だと思う。すべてを見透かすような瞳だ。と、見とれている場合じゃない。俺は、その瞳を覗き込みながら、言った。
「今、ミズホの体内には、レグバという精霊がいるんだ」
「レグバって、もしかして、あのヴードゥーの?」少し驚いたように目を見開く。
「知っているなら話が早いな、そうだ」
「先日会ったとき、彼女から変な気配を感じたのはそういうことだったのね。それで、レグバがどうして彼女の中にいるの?」
どうする……本当のことを言うか?だが、それだと相手にこっちの手の内を見せることになる。それに、この子ならクロスロードの儀式のことも知っているかもしれない。
懸念が頭を渦巻いたが、俺は正直に、俺の命云々のことは伏せて話をした。今なお熱で苦しんでいるレグバとミズホのことを考えると、それどころじゃなかった。
俺の説明を黙って聞いていた氷室逸深は、すべてを聞き終わると、
「事情はわかったわ。でも、残念だけど、私には彼女たちを助けることは無理よ」
あっさりと拒絶されたのにもかかわらず不思議と腹が立たなかった。俺たちよりも1つ下の娘の声とは思えない。達観した視点の中に深い悲哀が満ちているような……賢者の風格というか、そういうものがあった。彼女の生まれた氷室家の血がそうさせているのかもしれない。
「更科さんの中にいるレグバが言ったとおり、違う位階に長時間いるせいで、彼女自身に拒否反応が出ているのは間違いないわ。そもそも、私たちの住む現世は悪魔や神を受け入れられる容量なんてないの。あなたにもわかるように説明すると、私たち人間は数字で現すと5になる。レグバが悪魔か神なのかわからないけれど、恐らく数値で表せば6か7になるわ。こう考えて。5センチの幅しかない入れ物に6センチ幅のものを無理やり詰めたらどうなるかわかるわよね。今、彼女の置かれている状況はそういうことよ。だからといって無理やり引き抜けば、入れ物になってる更科さん自身も壊れてしまう」
「君の背後にも6だか7だかの弁天がいるんだろう?それはどうなってるんだ?」
「サラスバティのことはレグバに聞いたわけね。でも、彼女は別に現世にいるわけじゃないの。簡単に言えば、私の母が中継地点の代わりになって、サラスバティと私が交信しているようなものよ。彼女が存在しているのは、あくまで向こうの世界。通常、神や精霊や悪魔は、存在する位階が違うことの意味や危険性を知っているから現世に姿を表すことなんて、めったにしないのよ」
レグバのバカが……俺の心配なんてしやがって。それどころの話じゃなかったんじゃないか。ビッチ悪魔のくせにガラでもないんだよ、畜生。
「……だったら、どうすればいいんだ?」
「契約が完全成就される。つまり……」と、言葉を詰まらせ、俺のほうを見ながら言いにくそうに、
「……あなたが死ねば、拘束がなくなって彼女は向こうに帰れるわ」
そう言って、俯いた。そうか……クロスロードの伝説のことは全て知ってるってわけか。
「その間、ずっと苦しんだままなのか?」
「苦しんでいるだけならまだいい方かも。さっき説明したように、二人とも助からない可能性があるわ……内部からの圧迫に耐えられず、更科さんの身体と精神が崩壊するかもしれない。そうなれば依代を失ったレグバも消滅する。霊魂の状態で現世に長時間とどまることは出来ないから」
「助からないって……どういうことなんだよ!」
思わず彼女に詰め寄る俺。彼女はそれを軽く手で制して、
「落ち着いて。あくまで可能性の1つよ。危険な状態には変わりないけれど」
「お願いだ、氷室さん。何とか、何とか二人を助けてほしい。いや、お願いします」
俺は、人目もはばからずに床に土下座していた。
「ちょ、ちょっと!お願いだからやめて」
思わず立ち上がる氷室さん。珍しく声が焦っていた。夜遅くに変な男に変なお願いをされて、彼女にとっては迷惑この上ないだろう。でも、
「でも……このままほっとくなんて、俺には出来ないんだよ!」
「わかったわ、わかったから!」
彼女の説得に促されてしぶしぶ立ち上がる俺。
彼女は俺の顔を呆れた表情で一瞥し、諦めたように深いため息を一つつく。
「でも、その前に言っておくわね」
「何だ?」
「レグバがこのまま滅びれば、契約は抹消。つまり、あなたの命は助かるわ」
……。俺は小さく頭を振る。
「それが目的なら、最初から契約なんてしてないよ。俺は、どうしてもコンテストに出たかったんだ」
「どうして、そこまで?」
「ヒナやミズホやカナエに全力を出し切らせてやりたいと思ったからだ」
正直な気持ちだ。それしか今の俺にはない。
氷室逸深はしばらく黙り込み、俯いたまま申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「あなたの左手のことについては、直接関係ないとはいえ、私も責任を感じてるわ……何とでもしようはあったのに、学校内のくだらない人気投票沙汰なんかに係わり合いになりたくないからという理由で彼らを放置してた」
そう言った後、小さく「ごめんなさい」と頭を下げた。
「別に、氷室さんのせいじゃない。それは俺だってわかってる」
そうだ。この娘には何の関係もない。沈む彼女を慰めるためでもないだろうが、俺の口元は自然にほころんでいた。
自分がどんな笑みを浮かべていたかはわからない。だが、氷室さんは俺の顔を見ると、呼応するように微笑んだ。ヒナやミズホやカナエの微笑とは違う、フレスコ画に描かれている天使みたいな微笑だ。ずっとこんな顔してればいいのに。
微笑む俺の顔を見て、氷室さんは照れたように咳払いを一つして、
「それで……更科さんとレグバの件だけど」
「あるのか?方法が」
「わからない。でも、聞いてみる」
わけがわからず、
「誰に?」
「あなたの言う、弁天に、よ」
彼女は軽く微笑んだ後、目を瞑り、小さく鼻から呼吸する。瞑想というやつだろうか、視覚には何の変化もないが、感覚的に、彼女の周囲を何かが取り巻いているのがわかった。交信しているのだろうか。いずれにしろ、俺には待つしか選択肢はなかった。
数分の後、ゆっくりと目を開いて、
「あるにはあるみたいだけれど……」その後言いにくそうに、
「あなたが辛い思いをするわよ」
「それは……なんだ?」
「さっきも言ったけれど、更科さんという入れ物にレグバが収まりきってないというのが、そもそもの原因なの。私がさっき人間は5で悪魔は6で神は7と説明したわよね。レグバはヴードゥーの精霊だから、私の属する神の概念とはまた違うんだけど、こちらの尺度で概念化すると神と悪魔の間に位置する存在、つまり、数値化すると約6.5ってところかしら。更科さんは、6.5のうちの5を背負っている。でも、彼女たちを苦しめているのは、背負いきれない1.5なわけ。つまり……」
「つまり、どういうことだ」
俺が聞くのに、彼女はほぅと小さく息を吐き、言った。
「あなたがそれを引き受けるのよ」
「具体的に俺はどうすればいい?」
「あなたとレグバは、契約という名の元で魂の共有化をしている状態なの。さっき言った1.5って、要するに神や悪魔が持っていて人間が持っていないもの――尻尾や羽――つまり魔力のことなんだけど、人間みたいに精霊や悪魔から借りてきて行使する力じゃなくて、彼らの場合、存在していること自体が、既に魔力を行使していることと同意なの。そして、この世界でずっと行使されているレグバの魔力って、あなたにかけた呪いのこと。つまり、あなたの魂を介してレグバが行使している魔力分をあなたが丸ごと引き受ければ、彼女は苦しまずにすむわ。はっきり言うと、レグバの庇護下にあるからこの世界で存在こそしているけれど、今のあなたの魂はあなたのものじゃない。人を形成している要素は、肉体、頭脳、性、心、魂の5つ。今のあなたは魂の所有権を失っているから、数字で言えば4なの。だから、引き受けることは可能よ。でも……」
氷室さんはもう一度俺の目をみつめる。でも、なんなんだ?
「……レグバの魔力を引き受けるということは、レグバと共有しているあなたの魂をあなた自身が管理することになる。つまり、今まで身体にはあらわれていない呪いの負債をすべてあなたが引き受けることになるわ」
「……どうなるんだ、俺は?」
「一日ごとに減る寿命に対して、あなたの肉体もその影響をダイレクトに受けるわ。もうすでにあなたの魂って相当摩滅してるの。本来ならこんなところで悠長にしていられる状態じゃないのよ。今まではレグバと魂を共有することで肉体には現れなかっただけ。共有をやめればあなたは日毎に弱っていく。肉体も死に近づいていく。そういうこと。それでも、いいのね?」
「……構わない。やってくれ」
答えは最初から出ていた。俺が一番いいと思える方法はそれしかなかった。
氷室さんはしばらく黙ったままだったが、やがて、
「……わかったわ。それじゃ、呪いを媒介にしたあなたとレグバの魂の連結を解除するわよ」
再び目を瞑り、軽く右手を上げる。数秒の後、ずしんと俺の身体が急激に重く……なんだこれ?
同時に息苦しくなる。酸素が足りない――違うな、俺に呼吸をする力がなくなってるんだ。あっという間に、冷や汗が全身を覆っていた。あまりの辛さに、俺は思わずテーブルに肘をついていた。
「たった今、連結を解除したわ」
「そ、そうみたいだな……もろにわかるよ」
言葉を出すのすらツラい。
「今でも辛いでしょう?これから日毎にもっとひどくなるわよ。契約の期日がいつなのか知らないけれど、その日まであなたはずっと苦しみ続ける。その身体で演奏なんて出来るの?それ以前に、本当に……これでいいの?」
「ああ」強がりは多少あった。でも、本音だ。
しばしの沈黙の後、氷室さんが、俺の目をまっすぐに見つめてきた。その瞳は同情とか哀れみとかそういうものよりも、不思議そうな色で満ちていた。
「ねぇ、正直に聞いていいかしら?」
「なんだ?」
「教えて。どうしてそんなになってまで、頑張ろうとするの?更科さんとレグバが苦痛から解放されようが、コンテストで優勝しようが、あなたは契約の期日が来ればどうあがいたって死ぬのよ。それが、人ならざる者との契約なの。なのに、どうして?」
体の辛さを忘れるために、俺は感情を発露していた。そうでもしないと、言葉が出なかった。
「は、初めての友達なんだ。ミズホも、ヒナも、カナエも。そして、レグバも。みんな大事なんだよ。レグバには恩もあるし、向こうに無事に帰すって約束もある。それに、みんな必死で頑張ってるのに、全力を出し切れないまま踏みにじられるのを見るなんて、俺はいやなんだよ。俺は、ただ、自分ができることをやりたいんだ。俺、頭悪いからさ、それ以上のことは何も考えてないし、考えられないな」
中二病っていう名の安っぽいヒロイズムもある、意地もある、憧れてたクロスロード伝説に触れたかったのもある。でも、それ以上に、みんなが頑張ってることを俺は認めたい。世の中、努力して認められる奴なんて全体のどれくらいいるんだ?多分、ごく一握りのやつだけだ。そういうものだってことはわかっている。でも、一生懸命働いても安住の地を得られないオヤジとオフクロも、ミズホもヒナもカナエもレグバも、みんな必死で頑張ってるんだ。努力不足ならともかく、運でその努力が水泡に帰すなんて、俺は認めたくない。運も実力のうちなんて、勝利者だけの言葉だ。だから、俺はそれに刃向かってやる。俺の大事な人たちをその因果から守る。それだけだ。
言葉になっていたかどうかわからない。長時間しゃべるのが辛かった。氷室さんは黙ったまま俺をじっと見ていたが、やがてポツリと、
「私にはその気持ちがわからないわ。努力がすべて結果につながっているわけじゃない。運も含めて実力なのよ。でも……」
深く目を瞑り、
「あなたにそこまでさせようとする鵬さんや更科さんや初田さんを、私、きっと誤解していたと思う。今までの失礼な態度に対して謝罪するわ、ごめんなさい」
頭を下げる氷室さんに、
「……謝るのなら、本人たちに謝ったほうがいいよ。俺に謝っても仕方ない」
「今は無理よ。私、そんなに素直な女じゃないから」
素直じゃないという割には、あっさりと本音を言う氷室さんに俺は笑いをかみ殺す。ただ、目をそらしたその頬が赤く染まっていたのは気のせいじゃないだろう。
氷室さんは、深呼吸すると、改めて俺のほうを向き直り、だから――と続け、
「あなたの気持ちにこたえられるように、コンテスト、私も全力で当たるから」
きっぱりとそう言い、微笑んだ。
「ああ。是非そうしてくれ」
手加減抜きでな。微笑み返そうと思ったが、顔が引きつってうまく笑みを結べたかどうかわからない。
「じゃ……」と氷室さんが右手を差し出す。
なんだ?
「私、人に対して、全力で当たりたいって思ったの初めてよ。だから、初めて現れた好敵手に」
俺はその手を握り返す。
「光栄だ。こっちも負ける気はないさ」
氷室さんは小さくて華奢な身体からは考えられない強い力で俺の手を握り返してきた。
翌日。
ミズホが退院する旨を早朝に入ったヒナのメールで知った。熱も無事に下がり、前日の容態が嘘のように回復したらしい。とりあえず、一安心だ。
だが、俺自身、結局昨晩はほとんど眠れなかった。身体は異常なくらいに重く、全身をひどい倦怠感が包んでいた。体中の血管が血を送り込むことを拒否しているように思えた。じっと立っているだけでも膝が笑いそうになる。朝、挨拶してくるオフクロに対して平静を装うのが辛かった。
朝飯はほとんどのどを通らず、食っても吐きそうになるので、オフクロには悪いが食える分だけ食って、残りはこっそり捨てた。
家を出た後、通学路にある薬局で栄養剤を大量に買い込んで、店の前で2本を飲んだ。気休めにしかならなかったが、気分は多少マシになった。
朦朧とする意識に気合を入れて通学路を歩く。学校までの道のりがいつもの数倍あるように感じた。そして、学校手前の小さな交差点を曲がったとき、
「アキラ君……」
悲しげな表情の美少女がこっちを見ていた。
「ミズホ……なんでここに?病院じゃなかったのか?」
「レグバちゃんが、アキラ君に会いたいって言うから抜け出してきたの。それよりも、その顔色、どうしたの?もしかして、私の体調が戻ったことと関係があるの?」
目を潤ませ、俺を覗き込んでくるミズホ。抜け出すって……レグバの影響だろうか、彼女も大胆になったもんだ。
「大丈夫だ」余裕もないのに思わず強がっていた。
「アンタちょっと引っ込んでて」
「ちょ、ちょっとま……」
目の前の少女は、柔和な天使の表情から、気まぐれでわがままな悪魔の顔になる。
その顔が、ムスッとふてくされながら俺を睨みつけていた。
「ミズホは無理やり眠らせたわ。まだ、この身体はあたしが主導権を握っているから」
「レグバか……何の用だ?」
「そんな青い顔して……何の用じゃないわよ!」怒気を帯びた声。
「アンタ、何やったの?」
「別に。何もやってないよ」
とぼける俺に、レグバは鋭い視線を投げかけ、
「アキラ……あたしね、嘘つかれるの大嫌いなの。アンタが何やったのかあたしは知ってるわよ。魂の連結を解除したわね。あのクソ女にやらせたんでしょ、聞かなくてもわかるわよ。アンタ、本当は立っていられる状態じゃないでしょ?そりゃそうよ。今のアンタ、余命一ヶ月の重病人と同じなんだから。本当はベッドで寝たきりになっててもおかしくない状態なんだから!」
「そこまでじゃないよ。それに、ギターは弾ける。大体、おまえって、悪魔なんだろ?俺が弱っていようが死にかけていようが、気にすることなんてないんじゃないのか?」
俺がそう言った瞬間、レグバは思い切り目を吊り上げた。
「何カッコつけちゃってんの、童貞中二病のくせに!あたしはアンタをコンテストで勝たせるために契約したのよ。そのアンタがそんな状態でコンテストになんか出れるわけないでしょ。悪魔には悪魔のプライドがあるのよ。契約内容は絶対に守る。それがあたしの意地よ。あたしをホラー映画なんかに出てくる安っぽい悪魔なんかと一緒にしないで!」
なんて顔するんだよ、この悪魔娘は……。
「わかったよ……観念した。本当は、一歩踏み出すのも辛い状態だ」
「やっぱり!よりにもよって弁天なんかの力を借りるなんて……屈辱だわ。でも、そんなこと今はいいわ。それよりも、今はアンタの身体ね……」
レグバは空に手をかざし、目を瞑る。やがて、チッ!と舌打ちし、
「やっぱりこの身体じゃ力がほとんど使えないわね。この世界の根幹に門をこじ開けてアンタの身体と自然界の生命力をバイパスさせようと思ったんだけど……」
……そういや、レグバって門の精霊だったっけ。
「一旦開ければ後は強引に契約をねじ込んでバイパスさせるだけだからどうってことないんだけど、開けるのに必要な力が足りないわ。だれか、霊力を多少使える奴がいれば……」
レグバは何かに気づいたような表情を浮かべ、
「あの女か……くやしいけど、でも」
氷室さんだろう。俺も同じことを考えた。だが、
「レグバ、ありがとう。大丈夫だ。あと一ヶ月くらい何とか持つさ」
「何強がってんのよ!大丈夫なわけないでしょ。あたしがアンタの身体の状態を把握していないとでも思ってんの?」
「でも、氷室さんの力を借りるのはな。俺も昨日借りたばっかりだし。それに――」
その顔……もしかして心配してくれてんのか?笑っちまうよ。
「――誰だってプライドが最優先されるときもある。俺は、おまえのプライドを傷つけてまで楽になろうとは思ってないよ」
そうだ。命がけでやるって決めたんだ。今更、身体の辛いのくらいはどうにでもするさ。俺にだってプライドはある。
目の前の悪魔娘は呆然とした顔で俺を見ていた。鳩が豆鉄砲を食らったような顔ってこういうことを言うんだろうな――というか、視点は俺じゃない。俺の背後?
「その話、面白いな。よかったら俺が協力してもいいぞ」
突然背後からかかった声に、思わず振り向く。
3本のトサカを突きたてた巨人が俺たちを見下ろし、ニヤリと笑っていた。
「この辺りだな」
俺たちは学校から少し離れた裏山、しめ縄に飾られた太い杉がど真ん中に立つ森に来ていた。古い社跡だと聞いた。ミサゴさんのいつもの散歩コースらしいが、平日の午前中ということもあって人影はまったく見当たらない。学校には休むと連絡を入れた。二人ほぼ同時に連絡したので変に勘ぐられても嫌だが、まぁ、それはそれで光栄か……。俺がのんきなことを考えていると、ミサゴさんが俺の隣のレグバを振り返り、言った。
「この木は、ここら一体の地脈すべてと通じているところでな。さっきおまえさんが言ったように自然界の霊気に強制的に干渉するつもりなら、ここが一番やりやすい」
「確かに、ここなら何とかなりそうね」
「ハァ……ハァ、ど、どういうことだ」
息を切らせながら何とか聞いてみた。事情がよくわからない。
「要するに、この木ってここら一体の地脈の心臓みたいなものなの。末端の血管よりも、血が集中している心臓から直結するほうが一番確実ってことよ」
探るように地面を触っていたレグバが言った。
「で、アンタ……あたしのことをアキラに教えた人間ってことだけど」
と、レグバは鋭い眼光をミサゴさんに飛ばし、
「門を開けられるの?位置はあたしが教えるけど、今、あたしの身体には開けるだけの力がないのよ」
「やったことはないが、やり方はわかっている。まぁ、待て」
ミサゴさんは神木の真横に立ち、いきなり右手でドン!と幹を叩いた。
途端にボトボトと落ちてくる甲虫の群れ。
おうわぁっ!俺は思わず後ずさる。
「キャッ!」
意外に可愛い声を出して俺の背後に隠れるレグバ。悪魔とは思えない声に思わず笑ってしまう。
「な、なによ?」レグバがふてくされた顔で俺をにらみつける。その顔が可愛かった。
「なんでもないよ……プッ」
漏れた。
「くっ……死にかけてるんだから、黙って見てなさいよ!」屈辱で顔を真っ赤にするレグバ。
ミサゴさんは、俺たちのやり取りには目もくれず、地面に落ちた甲虫を5匹ほど拾うと……それをいきなり口の中に入れた。
それを見たレグバが「ヒッ!」と、小さく悲鳴を発した。
ミサゴさんの頬が小さく収縮を繰り返す。租借してるんだ……うえぇ、気持ち悪い。吐きそうになるのを抑えながら見ていると、喉仏が動いた。どうやら飲み込んだらしい。同時に黒く縁取られた目が、グリン!と白目をむく……前から思ってたけど、この人、本当に人間なのか?
ミサゴさんはその場に立ち尽くしブルブルと痙攣していたが、やがて、プハァ~っと白い息を吐いた……当然ながら、今は冬じゃない。朝に見た気温計は確か25℃を指してたんだが……。
「準備完了だ。オリシャ・レグバよ。霊力の補充が完了した」
ミサゴさんはどこか満足げな顔でレグバを見下ろす。俺は肩にしがみつくレグバをチラ見する。視線に気づいたレグバは、急に居丈高にアゴをしゃくりあげ、
「ふ、ふん……。神木に住む昆虫から霊力の補充をするなんて、人間もなかなかやるわね」
強がりだなぁ。おまえ今、ただの人間にビビッてただろ。まぁ、この人が人間かどうか怪しいところだけど、一応、ヒナの実の兄貴で俺の従兄弟だからな……人間だと信じたい。
「じゃ、はじめるわよ」気を取り直したレグバが木の根っこ近くの地面に両手をかざす。目をつむりながら何かを探るように動いていたレグバの手が急にピタリと止まった。
「あったわ、ここよ」
レグバが言うが早いか、シッ!と鋭い呼吸音がして、
ドッゴォォン!
轟音とともに、ミサゴさんの腕がレグバの両手の間の地面に肘の下近くまで突き刺さった。その衝撃で一瞬地面が揺れる。
「捕まえた。引きずり出すぞ!」
地面から引き抜いた右の拳に何か光の球のようなものが見えた。
「上出来!アキラッ!」
レグバが俺の胸倉をつかんだ。力の入らない両足は引き寄せるレグバの力に耐えられず、俺は地面に顔面を強打する。
「いてえっ!」
「うるさいわね!男だったら我慢しなさいよ!」
レグバは一喝しながら、俺の背中――多分、心臓の上辺りを思い切りぶっ叩いた。
ゲフッ!肺の中の空気が全部漏れて目の前が真っ暗になる。顔面と背中が滅茶苦茶痛い。だが、その痛みとは裏腹にレグバの右手が当たったあたりから急に力が漲ってくるのがわかった。
「あれ?」思わず立ち上がる。さっきまで足元に力が入らないほど弱っていたのが嘘みたいだ。あまりのことに呆然とする俺の目の前に、ハンカチが差し出された。
「ほら、鼻血」少し後ろめたそうに目を背けるレグバ。
ありがとうと受け取ると、その顔に少しだけ笑みが浮かんだ。
ミサゴさんは俺を振り返り、
「とりあえず、バイパスは成功だ。だが、こいつは応急処置みたいなものだ。君の身体はそれでもやはり弱っていく。恐らく、コンテスト当日には楽器の演奏すらきつい状態になっているぞ。それは、覚悟しておけ」
「わかってます。とりあえず、コンテストまで持てば何とかしますよ」
ハンカチで鼻血を拭っていると、「それにしても……」と、俺の隣から声が聞こえた。
「……本当に無理やりこじ開けたわね、アンタ。そんな無茶苦茶な干渉の仕方する奴見るの、生まれて初めてよ。向こうにもそんな奴いなかったわ」
地面に開いた大穴を見ながら、レグバが感心と呆れの混じった表情を浮かべた。
「虚と実はお互いに内包しあって存在する。ならば、実を用いて虚に接触することは不可能じゃない。捉え方の問題だ。人間はおまえたちとは違う方法で霊気に干渉する。結論から言えば、悪霊を拳でぶちのめして退散させることも可能だということだ」
それ、ミサゴさんの必殺技とかいう話ですよね……。
「あんたの上の妹にも会ったけど、おっそろしい兄妹ね。この身体に憑依してから人間界の認識が正直変わったわ、あたし」
それは間違いだ、レグバ。鳳兄妹の長男長女は、人間社会でも稀有な存在なんだよ!下の妹も稀有だけど、また方向性が違う。
「後は、君ら次第だ。コンテストまでもう日がないぞ。ここから先はバンドに集中しろ。それは俺がどうこう言えることじゃない」
「わかってます。ありがとうございました」
俺は深く頭を下げた。
「当日は俺も観に行くからな。同じアルテミスを守護に持つ者同士、心の底から応援している」
そう言い残して、ミサゴさんは森を出て行く。俺とレグバは見えなくなるまでその背中を見送った。それが、孤高の武闘派占術氏に対する礼儀みたいに感じていたのかもしれない。
「さて……と」
俺は伸びをして、
「俺たちも、帰るか」
俺は隣のレグバに目をやった。
「そうね……」どことなく沈んだような表情に、
「あのな、レグバ」
「何よ?」小さく唇を尖らす。
「ありがとう。助かった」
レグバは俯いたまま黙る。湿っぽい空気が流れた。何だかむず痒い。
「あたしも……」聞こえるか聞こえないかわからないような小さな声。その直後、
「助けてくれてありがとう。本当に嬉しかった」
うつむいたままひとりごちるように言う。頬が赤く染まっていた。色々からかいの言葉が思い浮かんだが、レグバのこんな表情を崩すのはもったいないような気がして、俺はあえて何も言わなかった。お互い照れながら顔を背ける。今は、この居心地の悪さが気持ちよかった。
そう。契約成就までは、みんなの楽しい顔だけ見ていたい。俺は、そのために……命を張りたいんだ。