運命と豊穣
1.
「魔女だと?」
俺とミズホはライブハウス近くの喫茶店に入っていた。ライブハウスから遠ざかるほどミズホの顔色はよくなり、喫茶店で注文を済ませた頃には、すっかりもとの顔色に戻っていた。
「そうよ。弁天を召還したのはあの女。それも、恐らく、無意識にね」
「どういうことなんだ?」
レグバは頼んだアイスティーを一口飲んだ。
「ここ20年ほど前から、あっちの方の霊気の流れがおかしな事になっているの――」
そう言って、レグバは南東の方を指す。俺がレグバと契約した工業地帯の方角だった。
「――精霊界と物質界を結ぶ径ができてしまってる。確かに、四辻ってのは霊気の流れが停滞して力場になりやすい場所だけれど、それでも、あそこのバランスはあまりにも異常なのよ。ほとんど門になってるわ。あたし、門番が本業だから、あの辺りの管理も任されてたんだけど」
「そういや、ミサゴさんも同じ事を言ってた……」
「ミサゴって誰よ?」
「儀式のことを教えてくれた人だよ。話が脱線した。それで?」
「……まあいいわ。それで、その門は人為的に開いてしまった可能性が大きかったのよ。とてつもない霊力が空間を捻じ曲げてるって、あたしがいた向こうでも問題にされてたわ」
「その霊力の発端が……」
「そう、恐らくあの女。多分、あの周辺に住んでるんじゃないかしら。あの女が無意識に発生させているとんでもない霊力の渦……あんなとんでもない力が一箇所に定着していれば空間が捻じ曲がるのもおかしな話じゃないわね。あたしでもあの力を至近距離で浴びて、正直、きつかったもの。でも、あの力って、弁天の波長とほとんど同じなのよ。神の家を模して造られた神殿に本当に神が宿るみたいに、弁天も吸い寄せられたんだわ、きっと」
疲れたようなため息をつくレグバ。
「それで、辛そうにしていたのか?しかし、なんでナスカワの母親にそんな力が?」
思わず首を傾げてしまう俺に、
「そう、ただの人間があんな力を持つことは考えられない。あたしも推測でしか言えないけれど、あの女、そういう家系なんじゃない?こっちの言葉で言えば、降魔師とか魔術師とか、そういった類の……」
「そういえば……」なりを潜めていたミズホがポツリと呟いた。
「何よ、アンタ何か知ってるの?」
「氷室って、前から聞いた事があると思ってたんだけど、陰陽師の家系よ。うちのおじいちゃん神主さんなんだけど、もう歳だから、たまに私が事務の仕事を手伝ってるの。その時、取引先の台帳で何度か名前を見たことがある。今は政治や経済に陰陽師や魔術師が介入したりはしないから、たいした取引はしていないけれど。でも、土御門が表の代表だとしたら、氷室は裏の代表だったはずよ。元は、才能のある有能な人材を日本中から集めて、高度な教育をされて黒魔術的な召喚儀式なんかをやってた機関よ。氷って大昔はとてつもない貴重品で、ごく一部の人間しか知らないものだったから、多分、それにあやかって後からつけられた苗字だったんじゃないかしら?当時の政の暗部だし、資料も残ってないから、私も詳しくは知らないけれど。氷室さんがそうなのかどうか確証は何もないけれど」
「なるほどね。もし、アンタの話が正しいなら、辻褄が合うわ。だからね……」何かに納得したように、小さく頷くレグバ。
「何が、【だから】なんだ?」
「気付かなかった?あの女の周辺、護衛らしき連中がいたのよ。恐らく、あのタタラってのが、その頭目」
「あの女が?」まさか……全然そんなふうには見えなかった。ただの腐女子じゃないのかよ……。
「よく考えなさい、アキラ。普通の女がBPM1000のバスドラを踏める?あんなの、男にだって無理よ。ドラム早打ちの専門家とか、特殊な訓練を積んでる奴だけにできる芸当だわ。でも、あの女はそういう類の奴じゃない。迫力はあるけど、ドラムの腕は大したことないもの」
「言われてみれば……それに、ナスカワ母のことを【深鈴様】って言ってたな、あの女。でも、今じゃ陰陽師なんて、別にVIPでもなんでもないんだろう?何でまた……」
俺はナスカワ母を目にした時のタタラの態度を思い出す。主君を立てる部下のような、そんな態度だった。
「あの女に護衛がついてる理由はあたしにもわからないけれど――」
そう言ってから、レグバは思い返すように言った。
「でも、アンタたち覚えてない?タタラってのと、カナエだっけ?あのデカイ娘――が、バカみたいなホモ話でケンカしている時、キレかけたタタラが右腕上げたでしょう?あの時、変な匂いしたわよね?」
「そういや、半乾きの洗濯物みたいな匂いが……」
「確かに、してた」ミズホが次いで首肯する。
「あの時、確実に5人の人間があたし達の周囲を囲んでたわよ。何であんな匂いがしたのかはわからないけど……」
……あれ?この話の流れ、何か引っかかるぞ。どこかで聞いたような――
――アニメプリントのTシャツから半渇きの洗濯物みたいな匂い撒き散らせたデブオタだ――
俺はキジエさんの言葉を思い出す。まともに考えれば、チンピラ3人を軽く手玉に取るあの人がただのオタク相手に遅れをとるなんて考えられない。頭の中で何かの歯車が噛みあった。
「もしかして、そいつらって、キジエさんが苦戦したとかいうオタクの仲間なんじゃないのか?」
「どういうこと?」
俺は、昨日のキジエさんの動向をかいつまんで説明する。ミズホはキジエさんがナイフで斬られた事に軽いショックを受けていたが、
「昨日、キジエさんがうちに謝りに来た時、何となく様子が変だったのは気付いていたけど、そういうことだったのね……」
「キジエさんとやりあったオタクが、さっきの連中の仲間かどうかはまだわからないけど、俺は、無関係じゃないと思う――」
――その話、ちょっと面白そうだな。
背後からいきなり聞こえた声に驚いて振り向く。柱で区切られた俺の背後の席から立ち上がったのは、バンダナを目深に巻いた金髪のお姉さん――キジエさんだった。
「キ、キジエさん……」
我ながら上擦った声だ。まさか、キジエさんがここにいるなんて……。ミズホも目を丸くして驚いていた。
「おもしれーからついつい聞き込んじまったぜ。もっと聞かせろよ、その話」
キジエさんの顔は面白がっているように見えるものの、その声にふざけた感じは一切ない。抜き身の刃物みたいな声だった。
「どうしてここに……」俺が驚くのに、
「あのなぁ……左手の指をへし折られた奴が、一回整体行ったくらいで治るわきゃねぇだろ。神の奇跡じゃあるまいし。ずっとおかしいと思ってたさ。おまえら何事もなかったような顔していやがったが、それが余計に怪しいんだよ。それに、あんな事があってすぐにおまえらだけで外出なんてさせると思うか?昨日の今日だぞ?問いただしたって、おまえら警戒させるだけだってわかってたから、あえて自由にさせてつけることにしたんだよ」
呆れたような声のキジエさん。それに――と、付け加え、
「ミサゴは霊感が強くてな、アイツの周囲は昔からおかしな奴やおかしな事が多いんだよ。それで、今回のおまえの左手の件だ。それこそさっきの話で、おまえ、あの日、何かややこしいモンにでも会いに行ってたんじゃねぇのか?ミズホの中にいる奴も関係あるんだろ?」
その言葉に、ミズホは目を丸くした。
「隠さなくてもいいさ。あたしには大体わかってる。ミズホ、おまえ、何か憑いてんだろ?さっきの会話聞いててわかったぜ」
俺はミズホと目を合わせる。どうする?全部カミングアウトするか?目で尋ねるのに、躊躇した表情のミズホだったが、急にフッと鼻で笑う。レグバか。
「へぇ……アンタ何者?」感心したような声。
「あぁ、こいつらの保護者代理だ。おまえが、ミズホにとっ憑いてる奴か?何モンだ?」
レグバ≠ミズホはしばらくキジエさんの目を覗き込み、
「アンタ、いい目付きねぇ……向こうにもそんな目の奴、そうはいない。ゾクゾクするわ。アンタなら、女の子同士ってのもいいわね。それはともかく、アンタのこと気に入ったから教えてあげる。あたしの名前はレグバ。正確には違うけど、音楽の精霊みたいなものよ。昨日、アキラと契約したの」
キジエさんは、俺の方を眼光鋭く睨んだ。
「おまえ……」呆れたような声。
「すみません……」
睨まれて、思わず頭を下げる俺。だが、それだけだ。俺には俺の理由がある。理由を聞かれれば答えるが、聞いてこなければ言う必要もない。人にどうこう思われるために契約したわけじゃない。それはキジエさんとて同じだ。
キジエさんはそれ以上何も言わず、再びレグバのほうを向き直ると、
「で、何を代償に、コイツと契約したんだよ」
俺はドキッとした。もしかして、見透かされてるのか……レグバは、表情一つ変えずに、
「あたしの天敵が、あのR.E.D.とかいうバンドに加担してるから、アキラたちに手を貸してる。それだけよ」
「本当に、そうなのか?」
今度は、俺の瞳を覗き込んでくるキジエさん。
「……はい。代償は何も」
嘘をついたときの苦い味が口内に広がった。ミズホに次いで、ヒナ、キジエさん……みんなの心配を無碍にして、俺は、とんでもない大嘘つきのクズだ。
キジエさんはしばらく黙っていたが、やがて、「わかった」と一言。ポンと膝を軽く叩き、それで――と、次の句を継ぐ。
「で、さっきの話だ。そのクサいキモオタの集団だが……仮に、あたしの言ってる奴と同じ奴だとしても、一つ、気になることがある。あの恐喝グループに加担している理由は何だ?あいつら、見た限りでは、多分、雇われだ。グループの連中と直接関係がありそうに見えなかった。実際に年寄り相手に恐喝をしていた連中の中に、あいつらの姿を見かけたことはなかったし、形勢がピンチになった瞬間、あいつらさっさと仲間見捨てて逃げたしな。つまり、連中のボスは、あのグループの中にはいないってことさ」
腕を組むキジエさんに、
「連中のボスは、タタラよ。R.E.D.のドラマー。理由はわからないけど、恐らく、タタラが派遣してたんじゃないかしら」
レグバが言うのに、「何でそんなことやってんだ?」首をかしげるキジエさん。
「金銭目的ならもっといい方法があるだろうし、正直なところ、全然わからないわね」レグバがそう言って、両腕を上げた。お手上げってことか。
「話がスタート地点に戻ったな」キジエさんはため息をつく。
その時、俺の携帯が着信音を鳴らした。ヒナからだ。俺は慌てて電話に出る。
『おにいちゃん。こっちはいま解散したよ。報告会したいんだけど、今から合流できる?』
『わかった。俺たち、国道沿いのカシミールって喫茶店にいるんだけど、今からそっちに向かうよ』
『ううん。あたし達がそっちに向かうから待ってて』
ヒナがそう言うので、俺はとりあえず簡単に場所を教えて通話を終える。
「ヒナがこっちに来るらしいです。キジエさんも合流しますか?」
俺の問いかけに首を振るキジエさん。
「いや、あたしは一旦戻る。店もあるしな。それと、あたしがここにいたことはヒナには言うな。調べたいことがあるんだが、あの子には知られたくない」
「まさか……また危ないことするんじゃないですよね?」
「大丈夫だ。今回は調べるだけさ」
キジエさんはそういうと、残っていたアイスコーヒーを飲み干し、さっさと店を出て行ってしまう。その後姿を見たミズホが一言もらした。
「なんだか、嫌な予感しかしないんだけど……」
「ああ。無茶なことしないといいんだけどな。あの人」
俺たち二人は同時に、はぁ。と、ため息を漏らした。
2
ヒナたちが店にやってきたのはそれからすぐだった。
「おにいちゃん、ミズホ、お待たせ」ヒナは軽く挨拶した後、「体調のほうは大丈夫なの?」と、ミズホの顔を心配そうに覗き込む。
「今はもう大丈夫。人あたりしたみたい。私、大勢の人がいる場所って、あまり得意じゃないから」
ミズホが微笑むと、ヒナも安心したような笑みを浮かべる。
「そっか。ならよかった」
ヒナとカナエは椅子に座るなり、アイスティーとアイスコーヒーを注文する。
「嫌な役を押し付けて悪かったな、ヒナ、カナエ。ごめん」
俺が頭を下げるのに、ううん。と、頭を振るヒナ。
「いいよ。あたしもあの4人の関係は気になっていたから」
笑顔のヒナと対照的に、カナエはどことなく機嫌が悪そうに見えた。
「それで、何かわかったのか?」
「えっとね……何だか妙な関係だったよ、あの4人。どこから話したらいいんだろ」
頭の中を整理するようにゆっくりとヒナが話してくれた内容はこうだ。
氷室逸深が別姓なのは、ナスカワ母の生家である氷室一族に関係しているということ。なんでも、古いしきたりで、氷室の血を引く女子は15歳まで本家で育てられるということらしい。姓も結婚するまでは本家姓になるとのことだった。兄妹の父親が早くに亡くなっているのもあって、本家側としてはそれを大義名分に余計に強行したとのことだ。つまり、氷室逸深はつい最近、ナスカワと一緒に住みはじめたということだ。兄妹というにはどこかぎこちなく感じるあの二人の関係になんとなく納得がいった。氷室逸深って、義務で妹やってるような感じがするんだよな……実妹なのに。実でも義理でもないけれど、実の妹みたいに慕ってくれるヒナとは正反対だ。
ヒナの話をそこまで聞いたミズホは、氷室一族が鎌倉時代から続く古い陰陽師の家系であることを補足した。ヒナとカナエはミズホの補足に思わず頷く。
「それで、あのタタラとかいう腐女子のことだが――」
俺が切り出すと、あからさまに不機嫌な顔になるカナエ。
「カナエちゃん、どうしたの?」ミズホがカナエの顔を覗き込む。
「別に、なんでもない」とてもじゃないが、なんでもなくなさそうな言い方のカナエをヒナは横目で一瞥して苦笑し、「えっと――」と続けた。
「なんかね、ナスカワ君のお母さんが言うには、500年前からの近所付き合いだって。タタラさんの家は、元々氷室家に仕える家柄だったみたい。ただ、話の内容聞いてると、家来というより、隠密っていうの?忍者みたいな感じなんだよね」
首をひねるヒナに、
「なるほどな。それで疑問が解消したよ」頷く。
「どういうこと?」
「タタラのドラムプレイ、普通の人間ができるプレイじゃないだろ。BPM1000のドラムを叩く女性プレイヤーなんて聞いたこともないよ。あれって、特殊な訓練によるものじゃないのか。よく、忍者って育ちの早い葦の上を飛び越える訓練するっていうだろ?それが迷信だったとしても、それ相当の訓練をつんでるってことだよな?ゆえにあんなことが出来るんだろう」
レグバの受け売りをさぞ自分が知っていることのように話す俺に、ハッ!と、鼻で笑う声。
「ただ速いだけで、センスのかけらもない。アホみたいに腰振ってるだけのガチムチML同人誌と同じね」
カナエが不機嫌を隠しもせずに毒づく。ここでもまだ、BL対MLの構図がでてくるのかよ……しかし、腐女子にとっては相当にそれは根深い問題らしい。よくわからんけど。
「カナエ、さっきもタタラさんと軽くやり合って、すごく機嫌悪いの」
苦笑いを浮かべるヒナ。俺とミズホはため息をついた。
「いずれにしろ、あんなドラマーには負けたくないわね。忍者だか陰陽師だか知らないけれど、ドラムはドコドコ鳴らせば良いってもんじゃない。情緒のないドラムなんて、ただの騒音よ。ナスカワといい、ハヤミとかいう女といい、あたし、あのバンド嫌い」
敵愾心むき出しのカナエの言葉。ただ、これは考え方によってはいい兆候だと思って、
「なら、バンドとして勝負しても、負けないよな?」
軽くカマをかけたつもりだったんだが、カナエは眉を吊り上げ、
「あたしは絶対に負けない。ヒナだって、あんな顔色悪いゴス女にテクニックで負けてない」きっぱりと言い切るカナエ。
「テクニックかぁ……ちょっと自信ないなぁ。あはは」ヒナは苦笑いを浮かべながら、でも――と補足し、
「氷室さんに負けるのは、ベーシストとしても、同じ妹としてもイヤだな」
穏やかだが、その言葉にはおそらく闘志らしきものがみなぎっていた。
「あたし――いや、私も負ける気しないわね。あんな不細工な男に。少々歌がうまくったって、あいつ、不細工だもん。ボーカルがブサメンなんて、バンドとしては致命的よ」
辛辣な言葉を口にするのは、ミズホ……じゃなくて、レグバだ。
その言葉にヒナとカナエは目を丸くして、ミズホの顔を見る。
「ど、どうしたの、ミズホ。その言葉遣い……」
全員に見つめられて、あ……えと、と、あせるミズホ。てっきり自分の発言を撤回すると思いきや、
「なんていうか……私もみんなと同じで負けたくないなって。ナスカワ君たちのバンドって、すごくうまいし、かっこいいけど、何だか楽しくなさそうなんだもん。私は、軽音楽部にいると楽しいし、昨日、全員で音あわせしたときも、時間忘れるくらい楽しかった。音楽って、文字通り楽しくないとダメだと私は思うの。だから、この4人で作り出す音でナスカワ君たちに勝ちたい。もちろん、楽しんで。その理屈でいくと、バンドで勝ち負けとか、本来、おかしなことなんだろうけど」
その口から出たのはレグバではなく、ごまかすように少し苦笑気味に微笑むミズホの、柔らかな、それでいてはっきりとした勝利への執着。ミズホがバンドとして勝ちに拘ったことに、俺よりも深くミズホを知るヒナとカナエは驚いているようだった。
その視線に気づいたミズホが、
「え?私、な、何かおかしなこと言った?」驚いたように目を丸くする。
「いや……ミズホの口から勝つとかいう言葉聞いたの、初めてだから」、「びっくりした」
ヒナとカナエが呆然とミズホを見るのに、
「だって、ヒナちゃんもカナエちゃんもアキラ君も、軽音部のために必死で頑張ってるんだもん。そんなみんなの気持ち、無駄にしたくない。それに、私だって一員なんだから、このままで終わりたくないもの。氷室さんから言われたみたいにオドオドしたままだと、私、ずっとこのままのような気がする。それに、さっき、彼女に言われたい放題に言われて、私、悔しかった。見返したいって思った。だから、私、勝ちたいの」
ミズホがそういった直後、
「よく言ったわ!」
言った直後にあわてて口を手で押さえるミズホ。またレグバか。ヒヤヒヤさせやがるな、まったく……。
「どうしたの、ミズホ?さっきから変だよ。本当にからだ大丈夫なの?」
心配そうに覗き込むヒナに、
「大丈夫」あせりながらも、はっきりとそう言うミズホ。レグバの発言には肝が冷えるが、自分の発言を撤回することのないミズホの姿勢に、俺は少し感動していた。
「で……?」紫に輝く瞳で伺うように俺を覗き込むレグバ……いや、これはミズホのような気もする。いずれにせよ、返す言葉は決まっていた。
「俺は、最初から、勝つ気しかないよ」
根拠のない自信に満ちた言葉が、笑みとともに俺の口から漏れていた。
3.
次の日から、軽音楽部の本格的な練習が始まった。
朝は6時から学校に行き、運動部の連中と挨拶を交わして始業のチャイムが鳴るまで朝練。就業後のチャイムが鳴ると同時に、学校が閉まる7時まで練習して、その後は、崑崙輪業のスタジオで練習。習い事が多いミズホのために、時間ぎりぎりまで練習した後、駅まで3人で送ってまたスタジオに戻り、夜の10時まで練習なんてこともザラだった。オフクロとオヤジも行き先が自分の姪の家だということがわかっているのでそれほど口うるさく注意したりはしなかったし、カナエの家は放任主義なのか、彼女が何か不都合であることを表に出すようなこともなく、一度、深夜0時を回ってしまったこともあったが、何のお咎めもないということだったため、俺たちは順調に練習を積み重ねていた。新曲も何曲かでき、順風満帆だった。俺とヒナは同じクラスで、ミズホとカナエは同じクラスだから、宿題は練習の後、分担してやった。ヒナに聞いたところによると、カナエはミズホの宿題を丸写しさせてもらっているらしい。俺はともかく、ヒナも馬鹿な子じゃないが、学校の勉強は普通なので、そういうチートは出来なかった。優等生のミズホと同じクラスのカナエが少しうらやましい。
ミズホといえば、彼女の外出禁止は、カナエの付き添いの元でならという条件で解かれた。
俺は知らなかったのだが、カナエの家は寺子屋の時代から今は保育園を経営している教育者の家系で、地元で名士と知られた家らしく、俺が想像するに若干権威や威光に弱そうなミズホの父親はその条件を飲んだらしい。もちろん、ミズホとカナエ、そして、恐らくレグバの巧みな説得が功を奏したことは、想像に難くないが。
後の席のヒナや、校内一の美少女であるミズホ、170センチを超える長身のカナエがひっきりなしに俺に話しかけてくるせいか、俺の存在は妙に目立ち、興味を持ったクラスの何人かが俺に話しかけてきた。今までに一度もなかったことに最初は若干面食らったが、そのうちの一人である小谷沢は、クラスの中でも誰かにつくこともなく誰かと敵対するわけでもない飄々とした奴で、人に構いすぎず構われすぎることを好まない、ある意味で非常に現代的な社交術に長けた奴だった。余計な詮索をしてくることがないので、話しやすくて、学校内でも割と話をする部類の人間になっていた。
そんな5月も間際のある日の昼休み、普段ならメシ食いながらヒナと曲の打ち合わせだが、当のヒナが今日は離席していないので、俺が一人でパンをかじっていると、
「よう。珍しい。今日は一人でメシか?」
後から話しかけてきた声に振り向く。小谷沢だった。
「ああ、小谷沢か……」
俺は軽く会釈して応える。
「なんだ、お前?3人もタイプの違う美人に囲まれてるくせに覇気のないツラしやがってよ。学校中の男子に刺されても文句言えねーんだぜ」
そういって、小谷沢はからかうように笑う。レグバとの契約から約3週間。俺は毎日のように夢でヘルハウンドに追い回され、自分でもわかるくらい精神的には衰弱している。確実に寿命を削られていっている実感があった。肉体的に疲労らしい疲労ってのがないのと、何よりもミズホやヒナやカナエがとても一生懸命頑張っていることに俺自身が満足していたのもあって、不思議と死の恐怖ってのはなかったが、食欲はやはり湧かなかった。
それでも周囲に気づかれないために、必死にメシを掻きこんで、睡眠薬を飲んで無理やり眠って、体調に現れないように努めていたが、やはり、顔には出ていたらしい。
「ただの部活のメンバーだよ。別にモテてるわけじゃないから安心しろ」
俺が両手をあげて首を振ると、
「部活だけかぁ?初田さんはともかく、鵬さんと更科さんは明らかにお前に好意を寄せてるように見えるけどな」
目を細めながら唇をゆがめる小谷沢に、
「気のせいだろ。ヒナは従兄妹だから、慕ってくれてるだけさ。ミズホは優しいから、部活の仲間にはあんな感じだし。それよりも、なんでお前がクラスの違うカナエの苗字を知ってるんだ?」
我ながらどうでもいい質問だとは思いつつ聞いてみると、意外そうな表情を浮かべ、
「あ、そうか、おまえ転校生だからしらねーんだよな。初田さんって、めっちゃ美人なんだぜ。今は髪の毛下ろしてるし、おまけに伸ばしっぱだから顔あんまり見えないけどよ、昔はポニーテールだったんだよ。俺、中学のときから彼女と同じ学校だったから知ってるんだけど、それがまた異常なくらい良く似合ってて、一部じゃ、ポニーテールの君って言われるほどの有名人だったんだぜ。でも、あのころは凛としててお嬢様って感じだったし、クールな上にあの長身だから、近寄りがたくて、誰も告白するガッツはなかったけどな」
「ポニーテールの君って……また古臭い表現だな。誰がつけたんだ?それにしても、中学のときから無愛想なのは変わってないのか……」
思わず苦笑いを浮かべてしまう。あの顔にまでかかるバサバサ長髪に学校内でも制服の上からネルシャツを羽織っているグランジーなカナエがそんな通り名を持っていたとは思いもしなかった。きれいな顔をしていることは何となくわかってたけど。
「彼女、家が保育所だろ?そこで子供の世話してるのを見た奴がいるんだよ。それが、学校内ではドライな感じなのに、子供の前だとすっげー優しい笑顔だったらしくてさ、それで学校の男どもが何人か見に行ったらそいつらみんなそのギャップにやられちまって、ついたあだ名がポニーテールの君」
あの無愛想なカナエがポニーテールに笑顔を浮かべて子供の世話か……その姿には大いに興味がわくが、それ以上に、
「で、誰も告白しなかったって、おまえの中学の野郎どもヘタレばっかだな」
俺は呆れた。
「しょーがねーだろ。彼女、学校じゃあんな感じなんだからよ。それに、中学のときからヒナさんにべったりで俺たち話しかけることもできなかったし」
「俺たち?」俺が首を傾げるのに、小谷沢は自分の発言に気づいたように固まった。
「俺たちってことは、おまえもカナエに気があるのか?」
「それはその……ははは」明らかにあやしい作り笑い。
「まさか、カナエがこの学校を受験するからって理由で、ここ受けたのか?その恥ずかしい呼び名もおまえがつけたのか、もしかして?」
「せ、詮索するなよ。その話はもういいじゃねーか」
「何がいいの?」
「うぉっ!」
後からかかった声に思わず振り向く。そこには、スーパーの袋をぶら下げたヒナが不思議そうな顔をして立っていた。
「ヒナか……今から昼メシか?」
「うん。ちょっとカナエのところにスコア渡しに行ってて遅くなっちゃった」
「お……ヒナさん、久しぶり」
小谷沢が間の抜けた挨拶をするのに、ヒナははにかんだように笑い、
「久しぶりって、毎日会ってるじゃん。何言ってんの、小谷沢君ってば」
「まぁ、毎日会ってるけど、ヒナさん、いつも結城にべったりだしさ。俺たちモブとは話してくれないのかなって、嫉妬してるんだよ」
自分でモブっていうなよ……。
「よく言う。小谷沢君って、本当に軽口叩くよね」ヒナが笑いながらそういうのに、
「いや、マジで。更科さんとか初田さんが目立つから噂にはなってないけど、ヒナさん可愛いからみんな見てるんだぜ。普段もメガネ外したらもっと可愛いのにって、みんな言ってるよ。もちろん、俺も」
気色悪いウィンクまで追加する小谷沢に、ヒナは若干呆れたように笑う……これは、あれだな。これ以上、カナエのことを突っ込まれたくないんだろうな。その証拠に軽口とは裏腹に小谷沢の目に余裕はない。
「その話の真偽はともかく、それ以前に、あたし滅茶苦茶目が悪いから、メガネ外すと何も見えないもん。目が悪すぎて、市販のコンタクトも合わないし。でも、逆にステージだといいんだよね。人の顔が見えないから緊張しないし」
ヒナはそういいながらも、いそいそと自分の席に座り、スーパーの袋から成分調整乳の小さなパックと、蒸し鶏とゆでたまごとレタスが挟まれた固いフランスパンのサンドイッチと、豆と野菜のサラダを取り出す。
「うわ~……ヒナさんって、色気のないメシ食うのな」
ドレッシングもかけずにサラダ菜をほおばるヒナに小谷沢が思わず一言。
「え?だって、ベーシストは体力勝負だもん。健康管理大事だよ」
バンドの話からまたカナエの話が再燃するのを嫌がったか、小谷沢はそれ以上何も言わず、大げさに首を振りながら自分の席に戻っていった。
「その食事って、前から思ってたんだけどキジエさんの指示か?」
「うん。お姉ちゃんに言われてるのもあるよ。でも、やっぱりあたし部長だから。コンディションは常にキープしておきたいの」
ヒナの根底にある自覚とか覚悟が垣間見える一言があまりにも健気で、俺は抱きしめて頭をなでまわしたくなった。
「そういや、そのキジエさんだけど……あれから変わったことはないか?」
「うん。たぶん……」
自信なさげに首肯するヒナ。ヒナも気にしてはいるのだ。あれから恐喝団は姿をくらましたらしく、あのあたりの恐喝件数はずいぶんと減ったらしいと聞いた。キジエさんは普通に店にいるし、俺たちを見かけたらいつもどおり挨拶もしてくるのだが、あの強いお姉さんがあれだけの怪我を負ってケンカしたということは、相手は相当痛い目にあってるはずだ。報復することだって考えられる。ただ、俺はそれ以上に、喫茶店で別れる間際にキジエさんが放った「調べる」の一言が気になっていた。ヒナは知らないだろうが、今もどこかで連中のことを調べているんだろう。無茶をしていなければ良いんだけど。
「気になるよな……あの人、あの性格だから」
「うん……」
ヒナと俺は充実した部活とは正反対の、憂鬱なため息を同時にはいていた。
そして、放課後。
いつものように、部室での練習中、ちょうど2曲を立て続けに演奏した後、俺のギターの音がベースの音とどうにも相性が悪くて、エフェクターをいじりながら音色を調節していたときだった。
「アキラ」
俺を呼ぶ声に振り向く。カナエだった。
「どうした?」
「左手……すっかり良いみたいだね」
カナエが俺の左手を見ながら、タオルで額の汗をぬぐう。ちらりと見える額が色っぽかった。今日は小谷沢の力説もあって、妙にカナエを意識してしまう。頬が赤くなるのを必死で抑えて、「ああ、まぁな」と努めてぶっきらぼうにこたえた。
「それどころか、プレイに凄みが増してる。前に演奏聴いたときも確かにうまかったけど、左手を怪我する前のプレイより、どうして今のほうが凄いの?ちょっとシャレになってないって思ってたんだけど。即興のリフとかソロの部分でも、なんかヤバいくらいすごくて、思わず聴き惚れそうになる」
褒め言葉とは裏腹に、どこか違和感を感じているような不安げな表情のカナエ。同じく違和感を感じているだろうヒナも心配するような表情で俺を見る。事情を知ってるミズホは無言だった。
「ああ、ミサゴさんに紹介してもらった整骨医の先生が上手でさ。俺、元々、左手の骨にちょっと異常があったみたいで、ついでにそれも治してもらったんだよ。すると、前より左手が動くようになったんだ」
我ながら下手な嘘だな……。嫌な汗が背中を伝う。
部室内を気まずい空気が流れる。敵意のない猜疑心みたいなものが、空気になって充満しているように思えた。
「暑いな」俺はごまかすように、シャツを脱いでタンクトップ姿になった。
「確かにね。まだ5月にもなってないのに、今日は特別暑い」
タオルで汗をぬぐうカナエが、手首につけた黒いゴムを取り出し、長い髪を後で結い上げた。
「ポニーテール、やっぱ似合うんだな」
感心しながら思わず発した俺の言葉に、少し顔を赤らめるカナエ。
「な、なんのこと?やっぱりって、何がやっぱりよ。誰に聞いたの?」
「同じクラスの小谷沢」
「あぁ、さっきの話って、カナエのポニテのことだったの?」ヒナが笑顔を浮かべる。
「そ。小谷沢が、カナエのポニーテールは絶品だって息荒げてたからさ」
「うんうん。カナエはポニテ滅茶苦茶似合うから」ヒナは満足げに微笑んで、何度も頷いていた。
「な、なにいってんの!小谷沢め……いらんこと吹き込んで」
慌てて髪を縛るゴムを外そうとするカナエに、
「そのままでいいじゃん。良く似合ってるよ」ヒナが止めて、俺も思わず頷く。カナエは顔を赤らめたまま、外しかけたゴムを戻した。
その様子を見ていたミズホがクスッと笑った。
「も、もう!何なの今日は?みんなしてあたしを茶化して。次行くわよ、次!ほら、ヒナも準備して!」
慌てて3カウントを刻むカナエ。カナエの不器用な照れ隠しに、俺達は笑いながら追従した。無口で無愛想なカナエが、最近は俺にも打ち解けてきてくれたように見えることが嬉しかった。だが、同時にこの時間も後わずかで終わると考えると、寂しさと空しさが胸を貫く。その感情だけは、どうにも抑えることができなかった。
いつものように濃密で充実した時間はあっという間に過ぎ、瞬く間に下校時間になる。俺が次いで崑崙輪業に向かうために慌てて荷物をバッグに詰め込んでいると、
「あ、今日はあたし、家の用事で帰らないといけないんだ。昨日ヒナには言ったけど」
申し訳なさそうな表情のカナエ。
「え?聞いてないぞ」俺がヒナのほうを見るのに、あ……。と気づいたようにヒナ。
「ごめん、言うの忘れた。さっきカナエんところにスコア持って行ってたのもそれが原因だったんだ。ミズホに伝えてから教室に戻ってご飯食べた瞬間、忘れちゃってた」
ヒナが頭をかく。
「あの時、よっぽど腹減らしてたんだな」思わず笑った。
「えへへ……ごめん。でも、どうしよう。ミズホも今日は用事なんだよね?」
「うん。今日は、塾行ってから日本舞踊のレッスンが入ってるの」
「そうか……スケジュールがら空きなの俺だけか」
とはいっても、部活がなくったってスケジュールは万年がら空きなんだけどな。なんてことは俺の名誉のために言わない。
「ヒナのほうが都合いいなら、崑崙輪業によってもいいか?ちょっと煮詰めたい場所があるんだけど」
今回の練習の段階では、まだベースとの調和はイマイチだった。コンテストまで時間はほとんどない。早いうちに煮詰めておく必要がある。
「いいよ。あたしも特に用事はないから」
「じゃ、ちょっとお邪魔させてもらおうかな」
部室を出て、校門前でミズホとカナエを見送ってから、俺とヒナは崑崙輪業に向かう。途中で、軽く晩飯代わりにハンバーガーのテイクアウトを買った。道中、ヒナは小谷沢と話していた内容に対して突っ込んできたが、奴の名誉のためにそれに関しては言葉を濁した。
店に到着し、いつものように店舗入り口から店に入ろうとする俺とヒナ。直後、ヒナが「あれ?」と発して、立ち止まる。
「これ……」彼女が見下ろすのは店先に立てかけてある一台のマウンテンバイク。自転車のことはよくわからないが、何だか高価そうなのは想像がつく。ただ、綺麗なキャンディオレンジの塗装は剥げ、ホイールも傷だらけ。派手なジャンプやアクロバティックな技がメインのXスポーツ競技だと、こんなにボロボロになってしまうんだろうか……何だかもったいないな。
「どうして?」呆然とヒナが言うのに、「何が?」と聞く。
「これ、お姉ちゃんの自転車だけど、何でこんなボロボロなの?」
「え?Xスポーツって、こんなふうになるんじゃ――」言いかけた俺の言葉を無視して、ヒナは慌てて店舗に入る。後を追おうとしたその直後、
「キャッ」
まさか、また何か起こったのか?その声に俺も慌てて店に飛び込んだ。
崑崙輪業店内には正面のショールームの奥に商談室があり、俺たちはその奥のスタジオでいつも練習しているのだが、スタジオのある部屋の横には、裏口から直通の部屋がある。そこは、競技車両の専門店だけあって基本修理や整備とは別にかなり大規模な修理や改造が行なわれている加工室だ。そこには小型ながらも、旋盤やフライス盤やボール盤といった加工機械が所狭しと並んでおり、ヒナはその入り口の前で立ち尽くしていた。
慌てて、「どうした!」と駆け寄り、部屋の中を見る。
真っ赤に染まった物体が、天井の中央を走る頑丈なクレーンに吊られていた。
その下にはバンダナとTシャツを血で汚したキジエさんが少し驚いた顔で、
「何だ、おまえら?今日はこっちに寄らないって言ってなかったか?」
「今日は、ちょっとおにいちゃんと二人で練習しようってことになって……それよりもお姉ちゃん……これ、なに?」ヒナが震えながらも口を開いた。
「こいつか?ナスカワところの忍者軍団の一匹だ。さっき捕まえたんだよ」
猟師が一仕事終えたような口調で言って、赤い物体を見上げる。視線の先には、全身を血で真っ赤に染めた小柄で小太りの男が逆さに吊るされている。ただ……こいつ、生きてるんだろうか?
金属とオイルのにおいに混じって充満する血のにおい。それらに混じって半乾きの洗濯物の臭いもする。異常な臭気にあてられたヒナが青い顔をして崩れそうになるのを、俺は慌てて背後から支えた。
「き、キジエさん。こいつ生きてるんですよね?殺したりしてないですよね?俺、キジエさんが警察に引っ張られるのなんて嫌ですよ」
どう見たって、まともに生きてるとは思えないぞ。
キジエさんは凝固した血で汚れた顔を笑みにゆがめて、
「心配するな、生きてるよ。正当防衛だ。見つけて話を聞こうとしたらこいつらが先に仕掛けてきやがったから、応戦しただけのことだ。ついでだから尋問してやろうと思ってな、ここに連れてきたのさ」
キジエさんの手には真っ赤に染まった金属バット。尋問?拷問の間違いなんじゃ――それ以前に、今の時点で過剰防衛と傷害罪で普通に警察沙汰ですよね、これ……言いたいことが頭を駆け巡ったが、気が動転して言葉にならない。
「おねえちゃん……危ないことはしないでって言ったのに!」
涙声のヒナに、
「だから、別にあたしからやったわけじゃねぇって。しょうがねぇだろ、正当防衛なんだからよ」
キジエさんは悪びれることもない言葉をどこか愉しそうな声に乗せて、顔に陰惨な笑みを貼り付けたまま、ポケットから何かを取り出し、フルスイングで男に投げつけた。ガツッと鈍い音がして、男に当たった何かが金属音とともに床に落ちる。それを見た俺はため息が漏れた。20センチくらいのスパナだ。ホント容赦ないな、この人……。
「おい、起きろ。デブオタ!てめぇ、いつまでも寝てるんじゃねぇぞ!」
その声に、赤く染まった頭部からパチッと音を立てて白いものが二つのぞいた。開いた二つの目だ。
「き……貴様」
怨嗟と敵意に満ちた声が逆さ吊りの男から漏れる。ヒナが怯えでびくっと身体をこわばらせた。
「苦労して捕まえたんだからよ、洗いざらい吐いてもらうぜ、腐れデブ。さて、どうすっかな……140度で液化した軸受けグリスでも鼻の穴に流し込むか、いや、やっぱこれが一番わかりやすいか」
片手でバットを一振りするキジエさんに、沈黙で応える血まみれの男。キジエさんは、その顔を睨み付けたまま、俺のほうを振り向きもせずに言った。
「おい、アキラ。ヒナを連れてこの部屋から出てろ」
「……一体、何をするつもりですか?」
「いいから。黙ってあたしの言うことを聞いてろ」ドスの効いた声。
「お姉ちゃん、これ以上はダメだよ!もうやめてよ!」ヒナは涙を流しながらキジエさんに駆け寄ろうとするも、
「さっさと部屋を出ろ、ヒナ!こういう奴らはな、徹底的に恐怖を叩き込んでやらねぇと駄目なんだよ!」
ヒナはキジエさんに一喝されて思わず立ち止まる。
「アキラ!」
間髪いれず、早くヒナを連れて出て行けと言わんばかりに俺を睨むキジエさん。バットを握り締めた彼女が次に何をするのかはわかっていた。暴力性と闘争心に満ちた眼光に射すくめられて足元が震えたが、何とかそれを押さえ込んで、俺は言った。
「キジエさん、やっぱりこれ以上はダメですよ。そいつ、死んじゃいますよ。言ったでしょ、ヒナも俺も、あなたが警察に引っ張られるのなんて見たくないんですよ」
俺、死ぬ前に見た光景がそんなのなんて嫌ですよ……。
「そうだよ!お姉ちゃんいつも滅茶苦茶だけど、今回はやりすぎだよ!冷静になってよ!」
俺の言葉に次いで叫ぶように言うヒナ。俺たちの説得が通じたのかどうかはわからない。だが、キジエさんの眼で燃え盛っていた黒い炎は鎮まったように見えた。彼女はそのまま、はぁ……と深いため息をつくと、
「……わかったよ。これ以上はやらねぇ」
諦めたように右手のバットを床に落とし、ハンズアップした。
何とかキジエさんを落ち着かせた俺とヒナは、半ば左右から抱えるようにキジエさんを商談室に連れ込んだ。キジエさんはヒナが淹れたアイスコーヒーを一気に飲み干すと、疲れ果てたように深いため息をつく。全身から発散していた鬼気のようなものは、すっかりなりを潜めていた。
「で、どうします、これから?」
俺は、加工室の方を壁越しに一瞥する。
「奴らの正体と目的を洗いざらい吐かせるつもりだったんだが……おまえらの言うように、確かにやりすぎたかもしれねぇ。反省はしてるよ」
「でも、すでにあれだけ殴っても口を割らなかったんでしょ?暴力だけで口を割るような相手じゃないですよ、多分……」
「あぁ。そういえば、おまえら、忍者がどうとかいう話してたな……あのデブオタがそうだとはいまだに信じられないんだが……」
と、ここで一旦言葉を切り、何かを観念したような表情になると、続けた。
「だが、確かに、あそこまでやりゃ、普通は口を割る。生半可な奴じゃねぇよ。とっ捕まえるのにこれだけ苦戦したのも初めてだしな」
事情を知っているキジエさんはいまだ納得いかない表情を浮かべて、新たに出来た傷跡に包帯を巻いていく。先日からのケンカ沙汰でキジエさんの身体は傷だらけの包帯まみれだ。この人も普通にしてたらヒナと同じく童顔の可愛いお姉さんなのに、なんかもったいないなぁ……。
「いずれにせよ、開放してやりましょう。確かに、ミズホの誘拐未遂にあいつらも絡んでたかもしれませんし、氷室母娘の守護とかその辺の話も気になりますけれど、こういうのは良くないですよ」
「簡単に言ってくれるぜ、アキラ……あたしがあいつを捕まえるのにどれだけ苦労したわかって言ってるのか?」
キジエさんは包帯だらけの腕を俺に見せる。そこに至る労力が想像できるだけに、俺は何も言えなくなる。
「ねえ」
今まで黙っていたヒナがぼそりと口を開いた。
「なんだよ?」ぶっきらぼうにこたえるキジエさん。
「あの人って、オタクなんだよね?」
「多分な。あのシャツ見ただろ?オタクの中でも一番わけのわかんねえ連中の多い【萌えブタ】って奴だろ?」
血にまみれてはいたが、確かに奴の着ていたシャツの胸には、オタク向けアニメの主人公らしきツインテールのロリな美少女が、身体のラインがぴっちり見えるエッチくさい戦闘服を着てポーズを決めていた。
「あたしに、考えがあるんだけど……」と、ヒナ。
「どんな?」ヒナは面倒そうなキジエさんの耳に唇を近づけ、
「あのね……」
ひそひそとささやくように何かを説明するヒナ。話を聞くたびにキジエさんの表情は徐々に引きつっていく。その様子がちょっと面白かった。ヒナが話し終えた直後、キジエさんは深く目を瞑り、こわばる唇で、
「おまえ……あたしにそれをやらせようってのか?」と、一言。
「お姉ちゃんならいけるよ。絶対大丈夫。妹のあたしが言うんだから間違いないって」
ヒナは壁の時計を一瞥し、「まだまにあうかな……」と一人ごちて、
「じゃ、あたしちょっと行ってくる!30分で戻るから、待ってて」と言い残し、店の自転車にまたがって出て行った。
「ヒナは、なんて?」
俺が聞くのに、
「言いたくねぇ。どうせ後でわかるんだから、黙ってろ」
キジエさんは吐き捨てるようにそういうと、加工室のほうへと疲れた足取りで向かった。