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オリシャ・レグバ

1.


 すべての診察が終わった正午過ぎ。病室で退院の準備をしていたら、ヒナに5分ほど遅れて、今にも泣きそうな顔のミズホとカナエが見舞いに来た。今日退院する事を2人とも知っているのにも関わらず、わざわざ来てくれた事は嬉しかったが、同時に、コンテストに参加できない事に対する罪悪感も強く感じた。

 心配げな眼で俺を見るミズホの頬に貼られたガーゼがやたらと痛々しく見えた。

 ミズホは開口一番、昨日の事を何度も謝った。自分が俺と一緒に帰ることを拒絶していなければ、こんな事にならなかったんだと何度も頭を下げ、謝罪するたびに、涙をボロボロこぼした。俺の痛々しい妄言の数々に触れられることはまったくなかった。彼女の心の奥にしまってくれたのか、単純にそれどころじゃなかったのかはわからない。多分、後者だろう。

 俺とヒナの説得で、何とか泣き止んだミズホを椅子に座らせる。

 カナエがミズホを慰めているのを横目で見ながら、俺はヒナに耳打ちした。

「そういや、話しそびれたけど、今日はキジエさんは?」

「あ……」と、言葉を詰まらせるヒナ。

 その顔色は悪い。俺は、気を紛らわせようと、

「そういや、昨日、ミサゴさんと少し話しをしたよ。楽しかった」

「ミサゴ兄ぃに何か言われたの?少し気になってたんだけど」

 俺は、昨日のやり取りを思い出し、軽く笑うと、

「ミサゴさん流のジョークを聞かされた。俺を励まそうとしてくれたよ」

 俺の話を聞いて、ヒナは軽くため息をつく。

「ミサゴ兄ぃはとっても優しい人なんだけど、仕事柄、ちょっと言動が変なんだ」

「仕事柄って?」

「油絵描いて生活してるんだ。海外で個展やったりとか、それなりに活動しているんだけど、日がな一日、有機溶剤の充満するアトリエで自分の世界に籠りっぱなしだから、ちょっと言動がおかしくなっちゃってるの。後、たまにふらふら出て行って何日も帰ってこなかった事もあるし。一昨日二人でうちに来た時も、家を空けてたの。そんなだから、あたしもお姉ちゃんもどう接していいのかわからないときがあって……。伯母さんもある程度事情知ってるから、ミサゴ兄ぃのことは、おにいちゃんには何も言わなかったでしょ?」

「そうだったのか……道理で」

「何言われたのかわかんないけど、あまり気にしないで。ああいう人だから」

 ヒナは元気なく笑う。

「ああ」

 俺はそう返すも、昨晩のミサゴさんの話に妙な説得力を感じて、ただの戯言と割り切ることが出来なかった。だが、今はヒナの顔色の悪さが気になる。どうも、俺のことだけではないように思えて、

「どうかしたのか?さっきから変だぞ。そのことだけじゃないんだろ」

 ヒナは一瞬、俺を凝視し、すぐ俯いてしまう。

「俺に何の協力が出来るかはわからない。でも、言ってくれよ。ヒナだって、ずっと辛い事ばっか続いてるだろ。一人で抱え込むなよ」

「でも……」

「俺、一応、ヒナのおにいちゃんなんだろ?だったら、信用してくれてもいいんじゃないか」

 俺の精一杯微の微笑みに、ヒナはしばらく黙っていたが、やがてミズホとカナエを振り向くと、さっきよりもさらに小さな声で、

「……お姉ちゃんが、昨日から帰ってこないの」

「何だって?」俺も小声で返す。

「店にも、家にも帰ってきてないの」

「ミズホとカナエには言ったのか?」

「心配かけたくないから言ってない。特にミズホは、今すごく神経質になってるから」

 泣きそうな顔でそう言って俯くヒナ。ミズホとカナエが、さっきからヒソヒソと話す俺たちを不思議そうな目で見てきたので、「後で話そう」とヒナに耳打ちし、俺は一旦話を終わらせる。

 胸のつっかえが若干取れたのか、ヒナは少し笑顔を浮かべ、今日の分のノートの写しとプリントを俺に手渡してくれ、少し4人で話した。ただ、今後の部活動の事や、コンテストの事は一切話題に上らなかった。

「あたし、家の手伝いがあるから、そろそろ行く」

 カナエが少し申し訳なさそうに席を立つ。

「じゃ、そろそろおいとましよっか」ヒナも席を立った。つられるようにミズホも席を立つ。

「来週には学校に行くから」俺がそういうと、

「無理はしないでね」ミズホは心配そうに。

「待ってる」カナエはいつもの無表情に少しだけ笑顔を上乗せして返してくれた。

 ミズホとカナエを先に病室から出したヒナに、「病院の待合室で待っててくれ」と耳打ちすると、ヒナは軽く頷き、そのまま病室を出て行く。

 俺は、片づけを終わらせ、料金の支払いを済ませ、処方箋を受け取ってすぐに、待合室へと向かった。

 憂鬱な顔のヒナが、ポツリとベンチの端に座っていた。

「大丈夫か?」と声をかけると、「うん」と元気なく呟くヒナ。

「それで、キジエさんはいつから消息がわからないんだ?」

「昨日、カナエを送っていったのは、カナエ本人に確認した。そこからだから、昨晩の11時くらいから。お姉ちゃんの事だから大丈夫だとは思うんだけど、何の連絡もないなんて初めてだから。下手に大騒ぎしてみんなに迷惑かけたくないし……って、おにいちゃんには今かけちゃってるけど」

 ヒナは俺のほうを申し訳なさそうな顔で向き直り、

「ごめんね」

 何言ってんだよ。人に気を遣いすぎなんだよ、この妹は。

「バカ、俺だって無関係じゃない。迷惑だなんて思ってないよ。それよりも、ミサゴさんはこのこと知ってるのか?それと、店の方は確認したか?」

「店には今朝行ったけど、帰ってなかった。あと、ミサゴ兄ぃは知らないって。お姉ちゃんあんな人だから、帰ってこない日って確かにあるんだけど、あたし、妙な胸騒ぎがして」

「じゃ、もう一度行って、まだ帰ってきてる形跡がないなら、警察に捜索願を出そう。それでどうだ?」

「わかった……」

 俺とヒナはベンチから腰を上げ、そのまま病院を出て、崑崙輪業へと向かう。昨日、ヒナが言った通り、割と人気の多い商店街を抜けて5分も経たないうちに、店についた。

 店はシャッターが閉じられたままだったので、ヒナと俺は裏口の方へと回る。ドアの前で、ヒナが「あれ?」と首をかしげた。

「どうした?」と俺が聞くのに、

「開いてる……」きょとんとした顔でヒナが言った。

 もしかして……。俺とヒナはドアを開けて店内に飛び込んでいた。

 商談室には、タンクトップとショートスパッツだけのキジエさんが、風呂上りか湯気を発しながら椅子に腰掛けていた。だが、身体から発散するただならぬ鬼気に、俺のスケベ心は萎縮する。足元には脱ぎ散らかした衣服が散乱していたのだが、それは決して色っぽいものではなく……衣服はすべてが赤黒いもので汚れていた。それが何なのか気付いて俺は愕然とした。血だ。

「お姉ちゃん!」

 ヒナが血相を変えて走り寄る。何事もなかったように「おう」と応えるキジエさん。ただ、目は真っ赤に充血している。よく見ると、タンクトップから伸びた右手の先に針が見えた。顔色も変えずに縫っているのは、左手にザックリと口をあけた傷……血こそ止まっていたが、まだ真新しい傷跡があまりにも痛そうで俺は目を背けた。なんだ?一体何があったんだ……。

「お姉ちゃん、どうしたの、その怪我!?まさか……」

「どうってことはねぇよ。ちょっとナイフでハツられただけだ。それよりも……」

 キジエさんは赤い目で俺を見つめる。恐らく、一睡もしていないんだろう。ナイフでハツられたなんて軽々しく言ってるけど、それって……ただ事じゃないだろ。

 心配になって、大丈夫ですか?と言おうとしたその時、キジエさんが俺に頭を下げてきた。

「すまなかった、アキラ。おまえらが襲われる事を念頭に入れていなかったあたしが全部悪かった。ミズホにも後で謝りに行くつもりだ。ヒナにも心配かけたな、ごめん」

「それはいいんですよ。キジエさんが悪いわけじゃない。それよりも、その怪我……大丈夫なんですか?もしかして、あれから俺たちを襲った相手を……」

「あの恐喝団、もともとは、この辺りのタチの悪い学生の集団でな。それが組織化されてちょっとした犯罪グループみたいになってたんだよ。昨日、カナエを送った後、あたしはおまえを襲った奴を追い込んだ。何発か殴ったら矛先をちょっとでも変えたかったんだろうな、本拠地をあっさりばらしやがったんで、その勢いで潰しに行ってたんだよ。あたしも完全に頭にきてたから、今後、ここらで活動できないよう徹底的にやってやったが、さすがにこっちも無傷じゃすまなかったぜ。まぁ、大したことはねぇけどな」

 鼻で笑いながら、縫った左手に包帯を巻いていくキジエさん。そうは言っても、身体中青あざや切り傷だらけの姿を見ていると、とてもじゃないが軽い怪我とは思えない。骨が折れてそうにないだけで、外傷は俺よりひどいように見えた。

「でも、その怪我、かなり厄介な相手だったんじゃ……」ヒナが言うのに、

「連中自体は大した事ない。ただのチンピラの集団だ。だが……」

 思い返すように視線を上に向け、忌々しげ舌打ちすると、

「変な連中が2匹ほどいてな、そいつらにてこずった」

「……もしかして、元軍人みたいなの?」

 ヒナが怯えた表情で聞くのに、キジエさんは「ハハハ」と笑い飛ばし、

「ンなわけねぇだろ、B級のアクション映画じゃあるまいし。アニメプリントのTシャツから半渇きの洗濯物みたいな匂い撒き散らせて、おまけにメガネまでかけたテンプレみてぇなデブオタだ。あんなのに、ここまで苦戦させられるとはこれっぽっちも思ってなかったぜ」

「デブオタ?相手はオタクなの?」

「ああ。どっからどう見ても気味の悪いデブオタなんだが、何か、特殊な訓練を積んでやがる。やたら動きが速くてタフな上に、死角から攻撃してくるなんて芸当まで身に着けていやがった。そいつらだけ、最後の最後で取り逃がした。当分悪さは出来ねぇ程度にはぶちのめしたと思うが……」

 キジエさんは再び忌々しげに舌打ちした。

「いずれにせよ、もうおまえらが狙われることはねぇよ。ほとんど全員、しばらくは病院行きだ、安心しろ」

 そう言ってから、キジエさんは俺の左手のギブスをチラ見し、後悔を顔ににじませる。

「変な情なんかかけずにもっと早く叩き潰してりゃ……今更遅いよな。本当にすまなかった、アキラ、ヒナ」

 今更遅いよな――その言葉は、決定打みたいに俺の心に突き刺さった。

 そう、俺たちは、戦う前から敗北したんだ――

 途端に、空気が重苦しく感じた。

 俯き、無言になるキジエさん。その姿が俺よりも辛そうに見えて、俺は思わず視線を逸らす。逸らした視界に入ったのはヒナの横顔。その頬を光るものが伝っていた。

 涙だった。ヒナは俺の視線に気付くと、袖で涙を拭い、何事もなかったように笑顔で俺を見てきた。

 その笑顔は、ひどく痛々しくて、凝視できるものじゃなかった。

 誰も悪いわけじゃない――それはわかってる。命をとられたわけじゃない――その通りだ。

 ――でも、一生懸命やっているヒナ達の情熱と努力は踏みにじられた。そして、期待させて突き落としたのは……結局のところ、俺だ。

 衝動的に、俺は店を飛び出していた。


2.


 突き動かされるように走って、電車に乗って、気がつけば、鵬家の前に立っていた。

 俺は、アトリエらしき建築物を探す。

 家屋の裏、整地されていない裏庭に、打ちっぱなしのコンクリート壁が特徴的な平屋があった。何となくそこから禍々しい空気を感じ、俺は直感的に、目的地である事を悟った。

 ドアをノックする。

「ミサゴさん、アキラです。開けてください」

 しばらくの沈黙の後、ドアがゆっくりと開いた。途端、嗅覚を攻撃する有機溶剤の匂い。慣れていない俺は、その臭気に目を回しそうだった。こんな環境にいれば、脳みそがヤラレて現実と妄想の区別が付かなくもなるだろう。ヒナたちの認識は決して間違っていない。

「ようこそ、アルテミスの騎士。月を守護に持つ者が満月の日にここへ来るとは、何のお告げだ?」

 俺の顔を見るなりニヤリと笑うミサゴさん。大きな前掛けの至る所に顔料が飛び散り、赤い顔料が顔にまで飛び散っていた。そびえ立つ3本のモヒカンのせいで、その姿は侵略者の血を浴びて立つネイティブアメリカンの闘士にも見えた。

「とにかく入るといい。話をしに来たんだろう?」

 俺は、促されるままアトリエの中に入る。イーゼルに立てかけられているB2サイズのパネルには素人の俺には理解できない絵が描かれてあった。床には顔料や有機溶剤が散乱し、壁中に、ペンタグラム、勾玉、水晶、あと、まさか本物とは思わないが、干し首のようなものなど、世界中のまじない道具が無造作に吊られていて、さながら、お化け屋敷か占いの館だ。

 ミサゴさんは真ん中にあるアンティークのテーブルセットに「まぁ、すわるがいい」とアゴで促す。これにも赤黒いしみがついてて嫌な感じだ。

 ミサゴさんは、俺の対面に腰掛け、長い脚を組んだ。

 来たはいいものの、俺は気持ちの整理のつかないままだった。言うべき事、聞くべき事が言語として外に出てこない。俺はまだ迷っていた。俺の精神状態が正常であったならば、ここに来る事もなく、もっと違う方法を考えていたはずだ。違うメンバーを探すことだって出来たかもしれない。だが、俺は、【狂人の戯言】に乗ろうとしていた。

 ――勇敢なる剣士が、守るべき少女の涙に応えられないなんて、嘘だろう?

 そんな馬鹿げた欺瞞自己満全開の、自分で言うのもおかしな話だが、いかにも中二病的な痛々しい思い込みはあった。

 だが、それ以上に、俺をここまで引っ張ってきたものがここにある。


 ――話は、27クラブのことか?

 俺が口を開く前に、無表情のミサゴさんが漏らした。

「ええ。詳しい話を聞きたいと思って」

 フッ……とミサゴさんの口がからかう様に歪んだ。

「イカれた男の妄言かも知れんぞ。君も、内心はそう思ってるんじゃないのか?」

 この人、俺の心中をわかっている……いや、だからこそ、か。

「そう思ってた部分は確かにあります。でも、失礼ですが、あなたの言う事が仮に虚言だったとしても、俺は、ヒナたちの辛い顔は見たくないんです。あんないい娘たちが、嫌な思いをするなんて、少なくとも、俺の前でだけはごめんです」

 ミサゴさんは俺の目をじっと覗き込む。

「だが、それだけじゃないだろう?」

 心中を見透かされているような気がして、俺は正直に言った。

「ええ。それ以上に、【クロスロードの伝説】を知りたい。ずっと憧れていましたから」

 ミサゴさんはそのことには何も応えず、やがて、納得したように小さく頷くと、

「たかがギターに命を賭けるのか?ヒナたちのことだって、勝負に負けたところで、バンドは学校以外でやることだって出来るだろう。馬鹿げてるな」

 そこまで言って、ニヤリと笑い、だが――と続ける。

「俺はそういう姿勢が嫌いじゃない。そして、自分の価値観に……憧れに、命を賭けてもいいと思うことは、男としての誉れというものだ。俺は、それを邪魔する気はない」

 ミサゴさんはそう言った。



 深夜0時。

 俺は、ギターを持って工業地帯脇の高級マンションが立ち並ぶ一角の辻に立っていた。あの後受けた説明では、この数年、ここには魔力の渦が吹き荒れ、現世と魔界を繋ぐ門が出現しているらしい。俺が中二病じゃなく、まともな感性だけで生きていたならば、その話を聞いた瞬間、大声で笑っているような戯言だ。詳細説明を聞いた今でも、半信半疑だった。でも、仮に何も起きなかったところで、特に何の問題もない。深夜の屋外でギターを抱えたマヌケが一人いるだけだ。そういう打算的な思いもあった。

「ここか……」

 俺は指定された場所に立ち、深呼吸する。周囲を見渡すと、点在する街灯の明かりに照らされた高層ビル群。そこをビル風がビュウビュウ音を立て吹き抜けている。俺がいるのはちょうどその辻にあたるのだが、風同士が相殺しあっているのか、不思議な事にこの場所だけは風に煽られず、穏やかだった。まるで、高い岩山と四方からの嵐に護られた砦だ。

 その雰囲気に、俺はミサゴさんの言葉に更なる確証を得たような気がして、急に緊張してきた。思わず唾をごくりと飲み干す。

 ギターケースを肩から下ろし、ギターを取り出す。ストラップを肩にかけ、深呼吸した。


 ――満月の夜の0時に、指定した場所へ行って、ギターを弾け。左手がそれだから、別にコードを押さえなくても構わないだろう。弦を爪弾くだけでいい。すると、オリシャ・レグバはあらわれる。ヴードゥー教の門の神だ。レグバはおまえの望みどおり、おまえの命と引き換えに最高のテクニックとセンスを与えてくれるだろう。


 馬鹿げてる。こんな事でギターが弾けるようになるなら、誰も苦労はしない。それに、仮にこの儀式が本当に成功したとしても、結論から言えば、俺はどうしようもなくバカなことに命を差し出している親不孝者だということだ。オフクロや親父に申し訳ない気持ちがこみ上げてくる。二人とも、息子にこんなことをさせるために汗水たらして一生懸命働いているわけじゃない。そんなことはわかっている。

 だが、男には絶対に退けない時があるんだ。

 急に湧いてきた疑問と躊躇を、自己暗示で塗りつぶし、俺は全開放で弦を爪弾いた。


「アキラ君!?」


 不意に背後からかかった声に、弦をストロークした右手が止まる。振り向いた先にいたのは、街灯に照らされた栗色の髪の少女――ミズホだった。

「ミズホ?」驚きのあまり、ピックを落とした。

「何やってるの!こんなところで?」

 驚愕と心配を顔に張り付かせて、俺の元に駆け寄ってくるミズホ。

「……それはこっちのセリフだ。ミズホこそ、こんな時間に何してるんだよ?」

「私、塾帰りにこの近くのビルで日本舞踊のレッスン受けているから……今日はたまたま遅くなってて、お父さんに電話しようと思って電波状態のいい窓際に移動したら、アキラ君を窓越しに見かけて、慌てて追いかけてきたの。それよりも、そんな身体で出かけてちゃダメだよ!」

 日本舞踊……ミズホのリズム感の良さの理由がなんとなくわかった。それに、振袖を着て舞う彼女はきっと小野小町すら裸足で逃げ出すほどに綺麗だろう。すごく、見てみたい……と一瞬思うも、今にも泣き出しそうな彼女を見ていると、その俺の妄想はすぐになりを潜める。

 ミズホは俺の胸元のギターをチラ見し、さらに表情を悲しみに歪めた。

「そのギター……どうしてこんなところでギターなんて……」

 俺は言葉に詰まる。この状況をどう説明すればいいのか……。

 ビュウッ!

 突如、無風地帯になっていた辻を突風が吹き抜けた。俺もミズホも風に煽られ、思わずよろめく。俺は、左手をかばうような形になり、思わず尻餅をついた。

「アキラ君、大丈夫!?」

 ミズホが慌てて駆け寄ってきたちょうどその時、暗雲を割る紫の光。それはゆっくりと輝きを増し、辻の真ん中を射した――

 ――そして、今まさに、ミズホがそこにいた。

「ミズホ、何かおかしいぞ、そこからどくんだ!」

 ミズホは突然自分の頭上から差した光に、躊躇して戸惑い、その場に立ち竦む。

「ダメだ!ミズホ!」

 まさか……本当に?――その時、俺の脳裏をよぎった言葉だった。

 紫色の光はミズホを完全に包み込み、さらに、天から降ってきた雷のようなまばゆい光が彼女の身体を刺し貫いた。

 逃げろおぉぉぉぉぉ!

 俺は叫んでいた。

 その直後、まばゆい光が俺の視界を奪った。


 徐々に目が慣れてくると、辻のど真ん中にミズホが倒れていた。

「ミズホ!」

 俺は駆け寄り、ぐったりした彼女の身体を抱き起こす。左手に激痛が走ったが、そんなことはどうでもいい。早く救急車を呼ばないと……。

 慌てて携帯電話を取り出し、救急ダイヤルは110番だったか119番だったかわからなくなり、1を2回押した時点で混乱する俺の左手の中で、ぐったりしていたミズホの双眸が、急にパチリと音を立てて開いた。

「お、おい、ミズホ、大丈夫か?」

 俺は彼女の顔を覗き込む。そこで異変に気付いた。澄んだ茶色をしたミズホの瞳は鮮やかな紫に変色し、俺の目を覗き込んだ直後、愉悦に歪んだ。

 アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!

 突然、気が狂ったかのような甲高い哄笑が彼女の口から溢れる。まさか、今のショックで……。

「ミズホ。ミズホ!大丈夫か!?しっかりしてくれ!」

 俺は彼女の身体を抱きかかえたまま揺さぶる。すると彼女は哄笑を止めて、氷のような冷たい目で俺の顔を凝視した。

「揺さぶるんじゃないわよ、女の扱いもしらないの、童貞。首の骨へし折るわよ」

 !?唖然とする俺。ど、童貞って……その通りだけどさ。というか、この乱暴な言動……いったいどうしたってんだ?ありえない状況に首を傾げる俺に、

「アンタがあたしを呼び出したんでしょ?なに動揺してんの?バカなの?死ぬの?」

 俺はよほど唖然とした表情をしていたんだろう。ミズホは突然立ち上がって首をかしげる。

「何なの、アンタ?さっきから……」そこまで言いかけて、彼女は自分の両手を交互に眺め、固まった。やがて、震える唇が動く。

「……誰、これ?」

 ……それは俺のセリフだ。

「何なの?あたしの黒いビロードみたいな肌が白蝋化した死体みたいな色してるじゃない?どういうこと?このチャバネゴキブリみたいなこげ茶色の髪は何?あたしのプラチナの髪はどこよ!!」

 嵐のように疑問を列挙し、彼女は俺の胸倉を掴んで詰め寄った。

「ちょっと、アンタ。これどういうこと?何であたしの美しい身体が、こんな貧弱なションベンくさい東洋人のガキの身体になってんの?」

 さっきから……俺の天使の身体をあまり冒涜しないでくれ。俺は内心イラッときながらも、

「あんた、もしかしてレグバか?」

 俺の質問に、目の前の女は俺の胸倉を離して、

「そうよ。あたしが門の神、レグバよ!」

 尊大に胸を張った。何だこいつ、ミズホの身体でえらそうに……。

「レグバってのは男だと聞いたぞ。それに、何であんたがミズホの身体にとり憑いてんだよ?」

「この身体の持ち主、ミズホって言うの?何だか貧弱で動かしにくい身体ね!」

「質問に答えてくれ」

「なわけないでしょ!それは先代よ。あたしのパパ。パパが現役引退したから、あたしがレグバの名前を継いだの。それよりも、これどういうこと?説明しなさいよ!」

 落ち着け、俺……ミズホの性格上、彼女はこういう芝居ができるタイプじゃない。混乱しながらも、目の前の女は別人だと思い込んで、ゆっくりと先ほどまでの経緯を話す。話を全部聞いたレグバは、

「多分、肉体を現世で実体化する前に、アンタが演奏を途中でやめちゃったから、たまたま召還場所にいたこの女の身体の中にあたしの魂だけが入った状態で定着して、こんな事に……」

「ミズホは大丈夫なのか?」

 レグバ≠ミズホはさも面倒くさそうな顔で、

「心配しなくても大丈夫よ。今は、気絶してるだけだから、目が覚めたらすぐに表層に出てくるわ。それよりも、アンタ、あたしの心配もしなさいよ」

「心配って……あんたって、すごい精霊か悪魔かなんだろ?」

 俺が呆れて聞き返すのに、

「あっちのあたしの身体、多分放置状態よ!あたし、メチャクチャ可愛いのに、飢えた精霊どものいる霊界(むこう)で、一人置き去りになってんのよ?連中に集団で犯されたらどうすんのよ!」

 人の話を聞く気はないらしい。しかし、自分でメチャクチャ可愛いとか言うか?ミズホは確かにメチャクチャ可愛いけど、それはこいつの身体じゃない。いずれにしろ、なんて自意識過剰な女なんだよ。この言動といい、こんな腐れビッチがミズホの身体に入っていることがむかつく。

「っていうか、契約はどうなってるんだよ?それさえ済めば、すぐに向こうに帰れるんじゃないのか?」

 吐き捨てるように言うと、彼女は気付いたように拍手を打つ。

「そういや、そうね。ほら、さっさと契約済ますわよ、ギター抱えてこっち来なさい」

 あっさりと一言。俺、確か自分の命と引き換えに、契約をしに来てるんだよな。何なんだよ、この緊張感のない展開は?モチベーション下がるなぁ……。

 決意に水をさされて一瞬躊躇したが、とりあえず、レグバの言うとおりにする。

「さっさと契約終わらせて、こんな身体からおさらばするわよ」

 レグバは俺の背中に回りこみ、後ろからそっと抱きつく。汗を帯びた柔らかい肉体が俺に密着する。特に肩甲骨に当たる2つのピーチボム――ミズホ意外とデカいな――じゃない!驚きで心臓が跳ね上がった。

「ちょ……何やってんだよ?」思わず赤面して振り向く俺に、

「いいからじっとしてなさいよ。今からアンタに弦楽器の精霊【スクラッチ】を憑依させるための儀式をやるんだから!」

 レグバが後ろから俺の左手を掴むと、魔法みたいに、俺のギブスは音もなく崩れて粉々になり、風に舞い散った。途端に赤黒く腫れた左手が露出する。

 あっ……驚いて思わず声に出たが、レグバは気にする様子もなく、俺の左手をネックに、右手をボディに添えさせる。痛さのあまり思わず力む俺に、

「力抜きなさい。行くわよ」

 そういって、彼女は俺の両手を動かした。

 俺の意思とはまったく関係なく、折れた左手は完璧な運指を行い、右手は弦を爪弾く。聞いた事もない綺麗なメロディを俺の指が奏でていた。思わず聞き惚れていると、左手と右手が妙に暖かくなり、まるでこの曲を自分が弾いているような錯覚に陥る。

 やがて、オルゴールのネジが開ききってしまうように、ゆっくりと、演奏が止まった。

 レグバは俺の身体から離れて正面に回りこみ、どう?と俺の瞳を覗き込んだ。

 俺は深呼吸し、ストームブリンガーを構え、何となしに思いついたフレーズを弾いてみる。信じられないような豊かな旋律が俺のギターから流れた。

 これは……。

 あまりの事に驚いて、俺は左手を目の前にかざして指を動かしてみる。何の痛みもなく、左手の指は滑らかに動いた。それどころか、両手のひらから溢れんばかりに漲る力を感じる。

「契約終了ね」

 レグバがミズホの顔で、満足げに微笑んだ。そして、俺は、自分がとんでもない契約を行ったことを今更ながらに実感した。

 だが、後悔はなかった。あまりのあっけなさに現実味が感じられないのもあった。だが、それ以上に、このヘンテコな精霊のせいだ。契約が成立したにもかかわらず、緊張感も恐怖もまったく感じられなかった。いいのか悪いのかわからないけど。

 そういや……あまりの緊張感のなさにうっかり忘れかけていたが、一番大事なことをまだ確認していない。俺は深呼吸して、目の前の精霊を見る。

「なぁ……俺の命はいつまでなんだ?」

「どうして?」

「来月の31日にコンテストがある。俺は、それに参加して、絶対に優勝しなくちゃいけないんだよ」

 レグバは再びニヤリと笑い、

「優勝すればいいのよね?」

「ああ」

「じゃ、31日いっぱいで。勝利の余韻が残っている間に死ぬほうがいいでしょ」

 嬉しそうにいわれてもな……どうやら死期を宣告されたみたいだが、もしかして、決まった期日とかなかったんじゃないのか?しまったな、もう少し伸ばせばよかったか……。

「どうしたの、怖いの?」

 レグバが挑発するような笑みを浮かべる。ミズホの綺麗な顔に、その魔性を帯びた笑みは意外と似合った。引き込まれそうになるのを頭を振って制し、

「いや。覚悟は出来てる。だが、いざ、後2ヶ月以内に死ぬって言われるとな……」

「契約なんだから、仕方ないでしょ」呆れたように一言。

「そりゃそうなんだけど……」

 簡単に言ってくれるが、自分の死ぬ日を宣告されたら、誰だっていい気分はしないだろ。ため息が漏れた。レグバは沈んだ俺の顔を伺うように見て、

「そんなに現世に未練があるの?ここも向こう側も大して変わりないわよ。強制労働も学校もないし、楽よ、向こうは」

「俺、まだ17だぞ。未練なんてたくさんあるに決まってるだろ」

 やり残したことなんて、数え切れないくらいある。目の前の女の子の身体の持ち主とも、まだ仲良く出来ていないんだから。

「なんだったら、冥土の土産に、あたしとエッチでもする?他人の身体だけど」

 俺の心中を読んだかのように、からかうように微笑む。

「ば、バカいうな!そんなことできるかよ!!」

 俺が大きく頭をふるのに、へぇ……と半目で俺を見ながら口の端をゆがめ、

「何、アンタ。やっぱこの女の事好きなの?だったら都合いいじゃない。あたしはヤらせてあげてもいいわよ、別に」

「それは、あんたの身体じゃないだろ!」

 レグバは俺の言葉も聞かず、いきなり右手を自分のスカートの中に突っ込み、

「あ、この女処女だわ。うわぁ、めんどくさぁ~……」

「やめてくれ!ミズホの身体でなんてことしてるんだよ!」

「いいじゃん、好きな女の処女欲しいでしょ?協力してやるってんの」

「駄目だって!無理むりムリ!!」

 レグバはため息をつき、

「おかたい男ねぇ……。普通、この条件飲まない男なんていないでしょ?」

「あんたの価値基準で俺をはからないでくれ。そんな卑怯な真似できるかよ!」

 レグバは、ふ~んと鼻を鳴らし、

「まぁ、いいわ」とそこまで言って、突然、何かを思い出したように、青い顔になって俺に詰め寄る。

「っていうか、契約終わったのに、何であたし向こう側に帰れないの?」

 せわしない女だな……ミズホの姿で変な事ばかりしないでくれ、さっきから……。

 レグバは目に涙を浮かべ、怒りの形相で俺を睨み付けると、人差し指を突きつけ、

「そもそも、あたしがこんな身体になったのは、アンタにも原因があるんだからね!責任とって、アンタもあたしが向こう側に帰るのに、協力しなさいよ!」

 ……儀式は一応成功したみたいだけど、何なんだ、この展開?

「わかったよ……いずれにせよ、あんたが向こうに帰れないと、ミズホもこのまんまなんだろ。協力するよ」

 俺の両肩は力を失って落ち、同時に深いため息が漏れた。

「あと……お願いがあるんだ」

 俺はレグバに向き直る。

「何よ、改まって?」

「俺の命が5月31日までって話は、誰にも言わないで欲しいんだ」

「まぁ、自分がいつ死ぬかなんて、他人に言うようなことじゃないけど、どうして?」

「みんなに余計な気を遣わせたくない」

 レグバはしばらく黙っていたが、「わかった」と一言。

 短い沈黙の後、「あれ……」困惑しきった声が彼女から漏れる。急に呆然とする彼女の右瞳だけが、鮮やかな紫色から元の茶色に戻っていた。

 これって、まさか……


「な、なに、これ?私、どうなってるの?」

「ああ。アンタの身体借りてるわよ、しばらく同居するからよろしくね」

「……だ、誰なの?私の身体の中に誰かいる……」

「あぁ、あたしの名前はレグバ。女神レグちゃんでも、可愛いレーちゃんでも好きなように呼んで」

「…………」


 直後、繰り広げられる奇怪なパントマイム。正直な話、俺の目には笑えない落語にしか映らない。

 だが、一人芝居というには、あまりにも真に迫りすぎた。これが本当に芝居なら、ミズホは今すぐ役者の道へ進んだほうがいい。アカデミー主演女優賞も夢じゃないだろう。

 俺は目の前の【ミズホ≠レグバ】に、

「ミズホか?状況がわかるか?」

「アキラ君?私、どうなってるの?何が起こってるの?」

 ミズホは半ば茫然自失。あまりの異常な状況に、泣き出せばいいのか叫べばいいのかわからずにいるように見えた。

 いきなり表情が変わり、苛立った表情のレグバ?が、

「察しの悪い女ねぇ……アンタが召還場所に入ってくるからこんな事になってるんじゃないの!このバカ!」

 自分の口から漏れた言葉に、ビクッと身体を硬直させて、

「どういうことなの、これ?召還場所って……」

 再び不機嫌な顔になると、

「コイツが、あたしを召還する儀式を行ってる最中に、アンタが来るからあたしがアンタの身体に入り込んじゃったんじゃないの。責任感じなさいよ、アンタ!」

「……アキラ君、一体何をしていたの?」

 大粒の涙を一杯に溜めた瞳で俺の目を覗き込むミズホにふざけてる様子は微塵もない。だが、俺はこの複雑な状況にまったくついていけず、どう説明すればいいのかわからなくなっていた。え~っと……。

「参ったなぁ……」

 思わず、本音が漏れていた。



 それから、俺とレグバで、茫然とするミズホになりゆきを説明した。その間、再三に渡って鳴り響いていた自分の携帯電話にようやく彼女が出れたのは午前2時を少し回った頃だった。

 ミズホは結局、最後まで納得のいった様子を見せなかった。当たり前だろう、ミズホは常識的な女の子だ。いきなり精霊が自分の身体の中に入ったとか言われても信じられるわけはないよな。それでも、レグバが元の世界に変える方法を見つけ出さない限り、自分はこのままであることだけは理解してくれたようだった。俺が敢行した儀式で呼び出した精霊ゆえに、重い責任を感じた。

 話が一段落ついた時点で、俺は、ミズホ≠レグバを安全なコンビニ近くまで送った。

 車で迎えに来た父親にひとしきり怒られた後、べそをかくミズホが帰っていくのを少しはなれたところで見送ったら、どっと疲れが出て動く気がなくなった。

 バイブ設定にしていた俺の携帯もひっきりなしにポケットの中で振動していたのは気づいていたが、こんな状況で電話どころの話じゃない。とりあえず一息ついた後、俺は改めて着信履歴を見る。

 履歴は15件。すべてヒナからだ。時間が遅いとは思ったが、心配かけたことの謝罪と、現状の説明はしなくちゃいけない。気は重かったが、とりあえずメールを打つ。

【遅くからごめん。話があるんだ。明日でもいいから聞いてくれるか?】

 俺がメールして10秒も経たないのに、電話が着信音を鳴らす。ヒナだ。慌てて通話ボタンを押す。

『もしもし……』

『おにいちゃん!?何してるの?今どこ?』

『今、外だよ。ごめん、電話出れなくて』

『バカァ!』鼓膜が破れそうな声で叫ぶヒナ。

『メチャクチャ心配したんだから……急に飛び出したっきり連絡もないし。何してんの……』

 受話器の向こうで泣き声が聞こえた。罪悪感が俺の胸を突き刺す。

『ごめん……』

 ヒナはグスッとしゃくりあげ、

『無事なのがわかったし、もういいよ。それで、外って言ったけど、具体的にどのあたりなの?』

『東部の工業地帯脇のコンビニの前。とりあえず、今から帰ろうと思ってる』

『帰るって?歩きで!?』

『そう。タクシー代なんてもってないし』

 しばらく考え込んでいるような沈黙。

『そこからだったらあたしんちのほうが近いでしょ?泊めてあげるから今日はうちに来て。そんな身体のおにいちゃん、放置できないよ。とにかく待ってて。今からあたしが迎えに行くから』

 心底心配してくれる声に、拒否も出来ず、

『昨日の今日だぞ。女の子にそんなことさせられるか!……わかった。場所は覚えてるから、今から俺がそっち行くよ』

 そういって、俺は電話を切った。


 歩きながら頭の中を整理していると、30分ほどで鵬の家に着いた。

 玄関口で目を腫らして待っていてくれたヒナに、とりあえず深く頭を下げると、ヒナは少し安心したような表情を浮かべて、昨日オフクロと一緒に入った客間に案内してくれた。客間にはキジエさんとミサゴさんがすでに座っていて、俺の左手を一瞥したミサゴさんだけが、ニヤリと笑った。

「おにいちゃん……その左手」ギブスの外れている俺の左手を呆然とした表情で眺めるヒナ。

「ああ……ちょっとミサゴさんに上手な整体の先生を紹介してもらったんだ」

 道中考えていた嘘をつく。本当のことなんて、とてもじゃないがヒナに言えない。

「だったら、どうして言ってくれないの!あたしメチャクチャ心配したんだから!」ヒナが激昂しながらミサゴさんを振り向く。俺はとっさにミサゴさんに軽く頭を下げて合図した。その合図を理解してくれたのか、

「すまん、言うのを忘れていた。俺が昔から知ってる整体医だ。アキラの左手は大丈夫だ」

「わかったけど……でも、信じられない……ミサゴ兄ぃの知り合いは確かに変な人が多いけど」

 ヒナが首を振る。それを見ていたキジエさんが、

「その手、ギター弾けるのか?」

「ええ。大丈夫です。弾けます」

 俺は左手の指を動かしてエアギターの真似事をする。じっとその様を見つめるキジエさん。やがて、「とにかく、もう遅いから今日は泊まっていけ」

 特に感慨もなくそう言って立ち上がると、扉の奥へと消えた。

 ヒナはいまだに信じられないといった表情を浮かべながらも、

「とにかく、お姉ちゃんも言ってるけど、今日は泊まっていって。お布団、ひいてあるから。お風呂場は廊下の突き当たりだから、シャワー勝手に使っていいよ」

「ありがとう。心配かけてすまなかった。でも、これでまたヒナたちと部活できると思うと嬉しいよ。一緒に頑張ろうな」

 俺がそう言うと、ヒナは、驚いた表情を浮かべ、少し嬉しそうにはにかんだ後、また不機嫌な顔になる。

「そんなこと今はどうでもいいよ!とりあえず、今日はもう休んで。あたしも疲れた!」

 不機嫌な口調で、ぴしゃりとふすまを閉める。数秒の後、

「……おやすみ」

 ふすまの向こう側から、いつもの可愛くて幼いヒナの声が聞こえた。

 ヒナが階段を上る音を確認したかのように、ミサゴさんが口を開く。

「召還は成功したようだな」

「ええ。これで何とか、ヒナたちの笑顔を守れそうです」

「だが、このことを知ったらあの子は悲しむぞ」

「でも、俺の死に罪悪感を抱く事はない。契約の成就は俺の死をもって成立する事なんて、俺とミサゴさん以外は知らないことですから」

 そうだ。それはミズホ自身も知らないことだ。レグバがうっかり口を滑らせない限り、誰かに知られることはない。

 短い沈黙の後、

「君に、オリシャ・レグバの儀式を教えたのは、ヒナに申し訳ない気がしている。今更だがな」

 どことなく後悔の念を感じるその言葉に、俺は頭をふった。

「いえ。俺は感謝してますよ。あれだけ一生懸命やってる子達に救いがないなんて、おかしいじゃないですか。一人くらい、そのために命を張るバカがいてもいい。ミサゴさんもそう言ってたでしょ?それに、選択したのは俺の意思です。ヒナもミサゴさんも関係ない」

 ミサゴさんは、呆れとも感心とも取れるように笑い、

「愚行と勇気は紙一重だというが、実際の話、伝説を作ってきた歴史上の勇者なんて連中は、得てして全員バカだ」

 笑顔のまま、呆れたような目で俺を見つめた。

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