エピローグ
梅雨入りしてから1週間、あのコンテストから2週間が経過した今日、梅雨に引きずられてか、いまだ重い俺の心とは裏腹に空は抜けるような快晴だった。
俺は結局死ぬこともなく、あの後も何もなかったように生きている。2週間前に比べると、すっかり身体は元気になっていて嘘みたいに調子がよかった。
あの後、弁財天が消え去って、皆が正気に戻ってざわざわと騒ぎ出すと同時に、俺の左手は急激に痛み出した。その瞬間、契約が破棄されたことを悟った俺は、咄嗟にマイクスタンドに自分の左手を打ちつけた。あの怪異を説明したところで誰も信じないだろうし、更なる混乱を呼び起こすだけだ。
思い切り打ち付けたので、死ぬほど痛かった。結果、左手の指の骨折は更に悪化したが、おかげで原因については言及されなかった。結果的に同じところを二度も骨折したので、ヒナとカナエにはおもいきり呆れられたが。
コンテストは、あの後、委員長の指示により中止になった。その理由はこうだ。
1、謎の配電盤の故障。何者かによる悪質な悪戯だと思われるが、詳細は不明。
2、B・L・Kのベーシストが演奏中に発火物を使用。当時の状況的にやむをえない部分もあるし、火事に至るような大きな発火物ではなかったので試合は続行したが、明らかなルール違反である。
3、両バンドの関係者が場内で起こした乱闘騒ぎ。言うまでもなくキジエさんとミズアカシュウだ。結局、キジエさんは、ミズアカシュウ(恐らく、半蔵)の背中を掴んだまま、自転車で駐車場まで引きずり回し、コンクリートのブロックで頭部を殴ろうとしていたところを飛んできた実行委員3人に羽交い絞めされてようやく止まったらしい。「ぶっ殺してやる」のセリフは大げさでもなんでもなかったというわけだ。
あの人は絶対に怒らせないようにしよう。
そして、4つ目、結局のところ、一番大きい理由は、原因不明の集団幻覚の後、B・L・Kのボーカリスト、R.E.D.のベーシスト両名が意識を喪失。B・L・Kのギタリストはマイクスタンドに左手をぶつけて骨折し、演奏の継続が不可能になったこと。
その二人とは言うまでもなく、レグバが身体から出て行って意識を失ったミズホと、弁財天の顕現に力を使い果たして昏倒した氷室さんだ。
それでも、今年のコンテストはかつてないほどの盛り上がりで、途中までの評価はスタッフ、オーディエンスともに非常に高いものだったらしく、今年の優勝バンドがないかわりに、B・L・KとR.E.D.は、両バンドとも特別賞として、運営委員の一つである葉桜酒造から、高級赤ワインを貰うことになった。
高校生である俺たちは当然酒を飲むことは出来ないので、そのワインは箱に入ったまま記念として部室に飾ってある。高校生バンドコンテストの記念品に赤ワインってのもおかしな話だけど。
コンテストが強制終了となった後、俺は倒れた氷室さんの意識が戻るのを待って状況の説明を求めた。レグバがどうなったのか気になって仕方なかったからだ。だが、彼女にも詳細がわからないということだ。彼女の背後にいるはずの弁財天とうまくコンタクトできなかったらしい。
そして、ミズホはすっかり元気がなくなってしまった。
レグバが出て行って、彼女が目を覚ましたときのことを俺は忘れられない。目を見開き、茫然自失の表情で必死でレグバを探していた。この世には存在しない彼女の姿を追い求めて体育館中を歩き回り、それが無駄だとわかった瞬間、膝をついて大きな声を上げて泣いた。暴言を吐かれたり身体を勝手に使われたりとあれほどひどい目にあったのに、レグバがいなくなったことに対して、彼女の中にあるのは喪失感と悲しみだけだった。少なくとも、俺にはそう見えた。
退部届けこそ出していないものの、この2週間、ミズホは部室に顔を出していない。
あまりの消沈振りに、俺も、ヒナも、カナエも、学校で彼女を見かけても声をかけられないまま日が過ぎていた。いずれにせよ、このまま放置は出来ないので、今週末にはちゃんと話をしようと思っている。
ナスカワは、コンテストで優勝できなかったことがよほど悔しかったのか、次の日に再戦を申し込もうとしたが、隣にいた氷室さんにそれを制された。その上、
「兄さんが妹にしたいのは、私じゃなくて鵬さんなんでしょ?コンテストで優勝したら、彼女の優位に立てるから、何が何でも勝ちたかったんじゃないの?」
なんて、ばっさりと氷室さんにぶった切られ、それから俺たちの前に姿を見せなくなった。一度、ヒナと俺の姿を見たナスカワが恥ずかしそうに廊下の奥へと走って逃げて行ったのを覚えている。どうやら、本当のことだったらしい。
カナエとタタラの対立は、ヒナの話によると、どうやら水面下で続いているらしい。ホント、こだわってるなぁ、あの二人。俺にはBLとMLの違いなんて、これっぽっちもわからないし、そこまでこだわる理由もわからない……。
そのヒナだが、俺の左手のことにしろ、ミズホのことにしろ、彼女は恐らく最初から全部気づいているような気がしていた。わかった上で、いつもと同じように接してくれていたと思う。
俺はそんなヒナに、
「ミズホが落ち着いたら、全部話すよ」と、昨日のホームルームの後に告げた。ヒナは何も聞かず、
「待ってる」と言って微笑んでくれた。本当に妹みたいに支えてくれる彼女があまりに可愛くて愛しくて、俺は彼女の身体を抱きしめそうになった。もちろん、そんなことはしていないけど。
そして、キジエさんだが……お世話になった礼をしようと、先週、店を訪ねたとき、彼女がぽつりと俺に言った。
「呪いのことは、大体、見当がついていた。だがな、それであたしがおまえを責めたところで、どうにもなりゃしねぇ。結局、自分の進むべき道は自分で決めるしかねぇからな。ましてやおまえは男だ。男は、命を燃やして生きるイキモンだからな。女より平均寿命が低いのも、多分、そういうことさ。その男であるおまえが命がけでやろうとしていることに、あたしが口を挟む権利はないだろ」
そう言った後、「いずれにせよ、助かったみたいでよかったな」と微笑んだ。
事情がわかった上で何も聞かずに最後までやらせてくれたこの人の度量というか、心意気に、俺は思わず頭を下げていた。男勝りなのは腕力だけじゃなかったらしい。
ミサゴさんにはあれから会ってないが、ヒナの話だと、相変わらずらしい。また会いたいと心から思う。今度は、音楽の話をしたい。あの人との音楽話は、絶対に楽しいはずだ。
氷室さんとは、廊下で出会うと、必ず挨拶する間柄になった。あれから彼女は、自ら弁財天との関係を断ち切ったと言っていた。そういえば、弁財天も氷室さんが自分自身との関係について思うところがあるなんて言っていたことを思い出す。
俺がそれに関して少し聞いたら、
「あなたと対等でいたかったのよ。今度一緒にやるときは、お互い、実力だけで勝負しましょう」
そう言って微笑んだ。その笑みのあまりのかわいらしさに、思わずドキッとした。ホント、ずっとこの笑顔でいればいいのに。
部活のほうは……この2週間、まったく何の活動もしていない。
ミズホがあんな様子だし、俺たち全員、あのコンテストで1年分くらいのやる気を使い果たしていたので、軽いバーンアウトを起こしていたのもある。
レグバとの契約は解消し、俺の左手は元通りでギターなんか弾けやしない。それも活動休止の理由の一つではある。が、それ以上に、俺自身が完全にやる気を失っていた。
レグバがいなくなって2週間、俺の心にはぽっかりと穴が開いていた。自分でもわかるような大きな穴だ。
その穴は、俺の身体から全てのやる気を奪っているように思えた。
あれから小谷沢たちやクラスのみんなは俺に対して以前よりもさらに好意的になった。コンテストでの敢闘で、地味な俺の評価が少しだけ上がったらしい。もちろん、それは単純に嬉しかったが、それで穴が埋まるというものでもなかった。
俺は、その穴を埋める手段を必死に探していた。だが、今、無理にでもやる気を出そうとすれば、逆にこの悲しみと直面することになる。そうすれば、多分、俺もミズホみたいになる。俺だってそんなに強くない。
レグバがいなくて寂しいのは、彼女だけじゃない。俺も寂しかった。だから、俺はいつものようにいろんなことに目をそむけ、この寂しさが霧散することを待つことにした。
それでも、悲しくて、寂しくて、レグバと過ごしたあの日々が懐かしくて、放課後、俺はふと部室のほうへと足を向けていた。
ほんの少しだが、埃をかぶっていたアンプを何気なく手で拭くと、いてもたってもいられなくなって、俺は一人で掃除を開始した。
部活が再開したら、またこの部屋で練習をする。その日のために部室は綺麗にしておかないといけない。などと、聞かれもしない言い訳を自分自身にしながら、俺は雑巾を動かす。
と、そこで、棚の上に飾ってあるはずの高級赤ワインの瓶がないことに気づいた。
必死で探し回るも、どこにも見つからない。あれは、俺たちの活動の軌跡でもあるが、それ以上に、レグバとの思い出の品なんだ。何が何でも見つけないと……。
焦る気持ちに背中を押され、部室以外を探すために、スライドドアのほうへと向かう。そこで、扉の前から俺の鼻をつくにおいに気づいた。
これって……酒の匂い?まさか、誰かが俺たちの記念碑を……
怒りに駆られて、ドアに手をかけた俺の耳に、知らない誰かの声が聞こえた。
「ウィ~ック……このワイン、まぁまぁね。でも、ワインはやっぱり人間の生血とのカクテルが格別よ。ヒック……」
……いや、この言動を俺は知っている。
「それにしても改めて見れば見るほど古びた学校ねぇ。カサだけデカい落ちぶれ魔神の家みたいよ。ヒック……明日からこんなところに通うと思うと、ゾッとするわ」
でも、まさか……そんなお約束な展開が……。
その声の主は、ガラリとスライドドアを開けて、おぼつかない足取りで部室に入ってくる。
俺の目の前にあらわれた赤ら顔の人物――
腰まで伸びて輝く銀糸のようなプラチナブロンド、黒い肌、制服からのぞく手足は野生のカモシカのように引き締まって長く伸びていた。
鎖骨から綺麗なラインを描く首の上に乗る顔は握り拳くらいしかなさそうで、その真ん中をすっきりと伸びる鼻梁、瞬きのたびに音がしそうなほど睫毛が長くて、その睫毛が覆っている瞳は大きく輝いている。ムラートっていうやつだろうか。色は黒いのに、顔立ちは白人みたいだ。
それは、古びた校舎に似合わない異国の美少女。だが、その紫に光る瞳に、俺は見覚えがあった。
「ウィック。久しぶりね、アキラ。つっても、2週間しか経ってないけど」
酔いに顔を赤く染めたその娘は、可愛くて、ちょっと邪悪な微笑を浮かべる。
「レグバ……レグバなのか?」
「今はその名前じゃないけどね。リサ・テイラーってバカみたいな名前よ。アフリカ系イギリス人で、留学生ってことになってるから」
「おまえ……どうして?」
「あぁ、あのあと向こうに戻ってから契約を解消しようとしたんだけど、中途半端とはいえ、一旦成立した契約を白紙にするのは短時間じゃやっぱり無理だったのよ。この世界の時間で丸一日はかかりそうだったからね。グズグズしてたらアンタ死んじゃうし。だから、非常手段をとったの。不本意ながら弁天の力を借りてね」
それって、どういう……。
「一つ、降格したのよ。契約が破棄できなかった原因は、契約の名の下に行使されているあたしの魔力。要するに、それを身体から追い出したってこと。あたしの格を数値化したら6.5くらいになるって話は聞いてるでしょ?だから、あたしは魔力分、つまり、1つ格を落としたわけ。それで、契約は無効。長いあいだ実体から遠ざかってたし、魂と身体の連結が不安定だったからできたんだけど」
「……?一体どういうことだ?」
首をかしげる俺に、チッとレグバは舌打ちし、
「ったく、相変わらず回転の悪い頭ねぇ。6.5から1引いてみなさいよ。5.5になるでしょ。つまり、あたしは絶世の美少女悪魔から、ただの人間の美少女になったわけ。ま、0.5だけ、アンタら人間より格は上だけど」
レグバは、格上である部分を強調して言った。相変わらず、自分を美少女というところが彼女らしい。確かに認めざるを得ないほどの美少女だけど、それを本人に言うと調子に乗るのはわかっているから、絶対に言ってやらない。
「それから、慌ててあの《波》を利用してこっちに戻ってきたのよ。人間になったあたしじゃ向こうの世界にはもういられないから。向こうに未練がないわけじゃないけど、こっちの世界も面白かったから、まぁいいかって思って。この身体だと、こっちの世界の許容量ギリギリだけど、向こうにいるよりは安全だしね。それにしても、苦労したわよ。着いた先があの体育館じゃなくて、ジャマイカの奥地の村よ。あたしも弁天もあの時まったく余裕なかったし、ヴードゥー信仰が根付いている村だったから、思わず出るところを間違えたのよ。危うく村の連中に捕まって即身仏にされそうになるところを必死で逃げて、着いた港で水夫の目を誤魔化して日本への密航船に乗り込んだのよ。あたしが密航船の中で必死こいてる間に、弁天に戸籍とかこっちの世界で生活する基盤作らせるのに相当無茶をやらせたからね。業の重ねすぎで神格落として堕天したかも。いい気味だわ、あのウンコババァ。キヒヒヒヒ……」
「……って、ちょっと、アンタ、なに泣いてんのよ!」
レグバの言葉に俺は我に返る。涙が頬をぬらしていた。それどころか、俺はみっともなく嗚咽まで漏らしていた。
「バ、バカ……ほら、涙ぬぐいなさいよ」
レグバが差し出したハンカチで涙をぬぐい、鼻をかむと、
「あ~!アンタ、あたし鼻までかんでいいなんて言ってないわよ!このバカ!相変わらず汚い男ねぇ」
「うるせぇな……洗って返すよ、グスッ……嬉しいんだからしょうがねぇだろ。ちょっとくらいひたらせろよ、バカ……ブビーッ!!」
「あ、また……」呆れた様な声が聞こえたが、俺は気にせず何度も鼻をかんでやった。
ひとしきり鼻をかんだ後、無造作にハンカチをポケットに突っ込み、レグバ……いや、リサを見る。リサは俺の瞳を見て、それこそ、見とれそうなほどの笑顔を浮かべ、
「それじゃ、明日からここに世話になるから宜しくね。それから……」
俺をキッとにらんで、
「敬語は勘弁してやってもいいけど、もうただの人間だから、丁重に、優しく、そして紳士的に扱うように。わかった?わかったなら返事しなさいよ、Cherry boy」
と、悪態をついた。チェリーボーイの発音がやたら綺麗だったことにムカついて、
「うるせぇな。わかんねぇよ。このブラックデビルヴァージンが!」
「この……ラス・メイヤー辺りが監督したB級ポルノっぽい言い方しないでよ!中二病チェリー!」
眉を吊り上げて殴りかかってくるリサ。
「バァカ!真昼間から酒呑んでる女子高生なんかに誰が従うかよ!」
俺は慌てて逃げた。
そして、逃げながら笑っていた。嬉しくて、笑いが止まらなかった。
後から追ってくる気配がないのに気づいて俺は足を止め、背後のリサを振り返る。彼女は俺を見つめながら、嬉しそうに微笑んでいた。
「そういえば、アキラ……」
「ん?」
「ミズホは?」
彼女の口からミズホの名前が出たことがなんとなく嬉しかった。
「しばらくまともにあってないよ」
「どうして?」
「おまえがいなくなったからだ」
目を見開いて驚くリサ。
「ミズホ、ずっと落ち込んでるんだよ。おまえがいなくなってから」
別に責めるつもりはない。俺はあのときの状況を知っている。
「知らなかった……。あたしが消えたから、あの子は元気になったものだと思ってた」
「そんなわけないだろ。ミズホはそんな子じゃない。おまえだって知ってるだろう?」
「だって、中に入ってたのが男だったら嬉しいけど、女に中に入られて嬉しい女なんていないもの……」
「何言ってんだよ。実際のところ、おまえって、男を中に入れたことあんのか?」
からかうように言うと、リサは顔を真っ赤にして、
「あ、当たり前じゃない。バカにしないで!」
「おまえ、カマトトを馬鹿にしてたけど、それっておまえがその逆の耳年増だからじゃないのか?」
「ウッ……」と言葉に詰まるレグバ。
これは……あれだな。もしかして図星か?俺も、コイツの扱いがうまくなったもんだ、我ながら。
「気になるんなら、今からミズホに会いに行かないか?学校にいるのは間違いないから」
俺がそう言うのに、レグバはしばらく黙っていたが、ポツリと、
「だって……何となく気まずいから。そんな話聞いた後だと余計に」
「そんなことないよ。おまえの顔見たら、ミズホはめちゃくちゃ喜ぶよ。賭けてもいい」
「何を賭けるのよ?」
命を――と言いかけたところで、走り寄ってきたレグバが俺の口を手でふさいだ。
「ダメよ、アキラ。もう軽々しく命なんて賭けないで。それにあたしはもう二度とごめんだわ。今は、悪魔じゃないもの」
予想もしないセリフに驚いて呆然とする俺に、からかうような笑みを浮かべると、
「じゃ、あたしが勝ったらあんたの童貞を貰うわね」
その言葉に顔がカーッと熱くなる。さぞかし無様に真っ赤になっているだろう。
「ななななな何言ってんだよおまえは!」
「フン!アキラの分際であたしをおちょくった罰よ」
それから、目の前の【元】悪魔は、天国のパイプオルガンみたいな声で笑った。




