恋文の日。キスの日。
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突然の手紙に驚かれるのではないかと思いつつ筆をとりました。
些細なことなので覚えていらっしゃらないかもしれませんが、私はあなたに助けていただいたことがあります。
駅で荷物をぶちまけた女性は、あなたの記憶に残っているでしょうか。あの時、誰もがちらちらと見ながら、ある人は気の毒そうに、ある人は迷惑そうに通り過ぎていくなか、あなたはただ一人立ち止まってくれ、無言のまま拾い集めるのを手伝ってくれました。
恥ずかしさと、周りに迷惑をかけてるという状況に焦るばかりで、今にも泣きそうになっていた私は、そのあなたの優しさに心を救われました。
その頃私は、何もかもがうまくいかなくて自分が嫌いになっていました。
そんなときに起こした失敗ですから、ばらまいた荷物を拾い集めながら、自分への嫌悪感と這いつくばる惨めさに、これこそが私の生き様なんだと、悲劇のヒロインのごとく不幸によっていました。誰も彼もが私を嗤っているように思えました。みんなが私を嫌っているとさえ思いました。
でもあなたの何気ない行動が私の不幸を打ち砕きました。世界から見捨てられたという妄想を打ち砕きました。
全てを拾い「大丈夫ですか? これで全部ですか?」と静かに確認してくれたあなたに、泣きそうだった私は何も返事が出来ず、ただ頷くばかりで、感謝の一言も伝えられませんでした。そして何事もなかったかのように立ち去ったあなたを、私はあれからずっと探していました。
仕事先であなたを見つけた時、私がどれほど驚いたか、どれほどうれしく思ったか、あなたにはきっと分からないでしょう。
あなたに伝えたいことがたくさんありました。
あの日、久しぶりに出会った、人からの気遣いや優しさと言った物に、人の優しさを思い出しました。自分の視野が狭くなっていたことに気付きました。見渡せば、出会うそこかしこに人の優しさや思いやりがあるのが見えはじめました。
意地悪ばかり言う人だと思ってた人が別に悪意なんて持ってなかったこと。ひどく怒るばかりと思ってた人がたくさんフォローしてくれてたこと、無関係と思ってた人が心配そうに見守ってくれてたこと。
見る目を変えれば、私の周りにはたくさんの優しさが溢れていました。
社会に出て嫌な人から悪意をぶつけられ、それにばかり心をとらわれていたことに気付きました。
嫌な人もいる、意地悪な人もいる。でも、そればかりじゃない。
そう気付かせてくれたのは、あなたでした。
あなたのさりげない優しさに、世の中は嫌なことばかりで作られているわけじゃないことを思い出しました。
再会できた偶然に私はしがみつきました。
あなたに救われた心を伝えたくて、たくさんあなたに話しかけました。
話しかけた分だけあなたのことを好きになりました。
あなたと一緒にいると、私は優しい気持ちを忘れずにいられます。
そんなあなたのそばにいたくて、いつもいつも必死に話しかけて、あなたはきっと戸惑ったことでしょう。
でもあなたは私の気持ちを受け止めてくれました。どれほどうれしかったか。言葉では伝えきれないほどの幸せをもらいました。
あなたは出会ってからずっと、いつも私に幸せをくれます。
あなたは私を優しい子だと言ってくれましたね。違うんです。
私が優しいのだとしたら、その私の優しさの源は、あなたなんです。
不器用でわかりにくいけれど、さりげない優しさを与えてくれるあなたがいるからこそ、今の私があるのです。
あなたのくれた幸せが、私を優しい気持ちにするのです。
この気持ちを、どうあなたに伝えれば良いのでしょう。
溢れるほど気持ちはあるのに、どうあの日のことを切り出して良いのか分からず、結局言えないまま今日まで来てしまいました。
口べたな私は、きっとこれからもうまく伝えることが出来ないでしょう。だから、せめてこうして手紙にしてみました。
言葉にすると照れくさいですね。だからきっと渡せないまま、私はこれをひきだしの中にしまってしまうでしょう。
もし見つけたら、何も言わず、知らんぷりして、そっと元の場所に戻しておいてくださいね。
あの時は、本当にありがとう。あなたに出会えたことが、私の人生で、何よりもの幸せです。
***
いつ書かれた物だろうか。引っ越しの合間、引き出しの奥から出てきた手紙を手に取り、私は読みふけった。そして読み終えると、妻の字で書かれたその手紙を再び封筒に戻し、宛名に書かれた私の名前をなぞるよう、何度か撫でる。
忘れてなどいない。手紙の向こうの妻に、私は心の中で返事をする。
荷物をばらまいてしまい、今にも泣きそうな顔をして拾い集めていた彼女。
あの時どう声をかけたら良いのか分からず、泣いてしまわないかを気にしながら拾うのを手伝った。優しい言葉ひとつかけられず、無言で黙々と拾い集めるしか出来ない自分に、かえって嫌な思いをさせたのではないかとひやひやしていた。なのに自分の顔は気持ちとは裏腹に、こわばったまま、にこりとも笑いかけることもしなかった。
再会した時すぐにあの子だと気がついた。泣きそうな顔を何度も確かめたから覚えていた。その時はただ挨拶だけをして、せいぜい無難な言葉をいくつかかわした程度で終わった。だからその子はこちらのことなど気付いてないのだと思った。
けれどそれで良い。嫌なことなど忘れて笑っていられたら、それで。
だから私も何も言わなかった。
再会したその子は、穏やかなほほえみの似合う子だった。
いつも優しく微笑む、気遣いと思いやりのある子だった。その子が愛想のない自分になついて、いつも話しかけてくるのが不思議で、でも誇らしく、うれしかった。
不器用で無愛想な私は、君が向けてくれる優しさの十分のひとつまともに返せない、つまらない男だ。にこりと笑うこともうまく出来ない、どうしようもない男だ。君を大切に思う気持ちは確かにあるのに、まともに伝えられたことなど、一度もない。
なのに君は、こんな風に思ってくれていたのか。
妻の心がこの手紙につまっている。
愛しさに手紙を撫でそっと口づけると、何も見ぬふりをして手紙を引き出しの奥に戻す。
今度、自分も書いてみようか。つまらない男の、なさけない恋心をしたためた手紙を。
いつか、君に伝えられる日が来ることを願って。
今日は、恋文の日で、キスの日だそうです。