第54話「虚空を抱く聖域」
幾星霜も忘れ去られていた宮殿の最奥。大階段の降り口の前に立ち、グンダーは胸の高さで片手を掲げていた。猫のように縦に裂けた紫紺の瞳が、掌の上の小さな機械仕掛けを鋭く観察している。
それは透明な小球だった。内部には黄金の結晶が収められており、機構の中でクルクルと絶え間なく回転し続けている。
「何をしてるんですか、グンダー?」
背後から、好奇心に満ちた声が響いた。
スッ……
精霊はアーティファクトを懐にしまい込み、フェンリエの方へと振り返った。彼女の首元には今、エスパーの結晶から鍛造されたネックレスが掛けられている。
「ただの通信だ。目標を達成し、これより帰還するとの報告を送っていたのだよ」
「そうですか……」フェンリエは呟いた。その視線は、明らかに疑念を抱いている。
(絶対に何か隠してる……!)
しかしグンダーは、彼女を足元から頭まで値踏みするように横目で見下ろした。それからギロリと目を細め、いまだ「セレストの王冠」が安置されているはずだった祭壇を調べている元騎士とドワーフたちへと視線を移した。
カツ、カツ……
精霊は一行の元へと歩み寄る。フェンリエはその背中を、不信感でいっぱいの茶色い瞳で睨みつけた。
「何を隠してるのよ……」彼女は小声で囁いた。
「何も隠してなどおらん!」グンダーは振り返りもせず、大声で即答した。
「ふんっ!」彼女は鼻を鳴らす。
ヴェルンは精霊が近づいてくるのに気づき、その赤い瞳を彼に突き刺した。「で、俺たちをここから帰せるのか?」
「不可能だ」グンダーは素っ気なく答えた。「エスパーの奴が、余と帰還点との接続を断ち切りおった。徒歩で戻るほかないな」
ハァァァァ……
元騎士は深く長いため息をつき、純粋な苦悩とともに掌で顔をこすった。
「魔法でバラバラになって帰るよりは、歩いて五体満足で帰る方がマシじゃろうて、オラァ」グリムが傭兵を見据えながらコメントした。
「……違いねぇ」
グンダーは祭壇に最後の視線を投げかけ、伝説のアーティファクトを支えるために鍛造された支柱を真っ直ぐに見つめた。
(やはり、ここには無いか。では何処に隠されている?……十中八九、あの目つきの悪い小僧が持ち去ったに違いない)
猫の瞳が、疑念に細められた。
「ちょっと、グンダー!」
フェンリエの呼び声が彼を思考の海から引き戻した。
精霊が顔を向けると、ドワーフたちとヴェルンの頭頂部が、ちょうど階段の降り口へと消えていくところだった。あとに残ったのは、バサバサと深い栗色の髪をなびかせながら、階段の上から彼を呼んで腕を振る少女の姿だけだった。
◇ ◇ ◇
ゴゴゴゴゴ……
岩と岩が重々しく擦れ合う音が、暗い回廊に木霊した。宮殿の入り口にある最初の構造物――あの石の橋が、再び一行の視界に姿を現した。
グリムが重い石の扉を、全員が通れるだけの幅に押し開ける。その隙間を抜け、彼らはアクセス・ポータルへの帰路を歩み始めた。
隠された危険への警戒は依然として最大レベルだった。グリムが先頭に立ち、機械式の罠を作動させないよう一行の歩みを誘導し、すぐ後ろでリリムドールがサポートに回る。
「お嬢ちゃん、お前さん魔法の才能があるのう」グリムが唐突に話を振った。手は後ろに突き出したまま、息子が必要な工具を手渡してくれるのを待っている。
「え……どういう、ことですか?」
若いドワーフの後ろを行進していたフェンリエが、明らかに困惑して尋ねた。ヴェルンがそのすぐ後ろで中央をカバーし、グンダーが最後尾を警戒している。
「さっき、あのエスパーってやつにやった攻撃のことさ」リリムドールが父親の手にペンチを置いた。ベテランのドワーフは身を屈め、橋の岩床の溝を調べながら、力みでくぐもった声を出す。
「あれは月光魔法じゃろうが?」グリムは埃まみれの顔を少女の方へ向け、問いかけた。
カァァァッ!
フェンリエの顔が激しく朱に染まる。声は喉の奥で詰まり、咄嗟に両手を上げて否定しようとした。しかし、彼女の唇から抗議の言葉が漏れるよりも早く、ヴェルンのザラザラとした掌が彼女の肩にポンと置かれた。
「グンダーもあいつにそう言ってるんだがな。問題は魔法学校の学費さ。どこも目玉が飛び出るほど高くつきやがる……」
彼は明らかに引きつった愛想笑いを浮かべ、そう弁明した。
突然の嘘に困惑してパチクリと瞬きをしたフェンリエは、視線をグンダーへと移した。精霊は全く動揺を見せず、平然とした態度を保っている。
『奴はただの隠れ蓑として、そう言っておるだけだ』グンダーの声が、直接少女の頭の中に響いた。
「お前さんがただのドケチなだけじゃろうが」グリムは純粋な嘲笑のトーンで言い返した。「お前さんら、『先触れ』じゃろう。この問題はもっと真剣に考えるべきじゃ。魔法の学び舎は、この娘のためになるはずじゃぞ」
ドワーフの厳しい声が、フェンリエの注意を完全に惹きつけた。
「若者が同年代の者たちと関わるのは、いつだって良いことじゃ」グリムは立ち上がり、ヴェルンの魂の底を見透かすように視線を突き刺した。「ましてや、この娘が『父親』の背中を追いたいと望んでおるなら、尚更じゃな」
ギクッ!
元騎士と若き先触れは、同時に目を丸くした。
ゴクリ。
ヴェルンは生唾を飲み込んだ。脳裏に、かつて自分を『師匠』と呼んだ少年の声が、無慈悲なほど鮮明に木霊する。彼はギリッと顎を食いしばり、固く唇を閉ざした。
少女はただ、掠れた声で囁いた。「私と、同じような人たちが……いるんですか?」
(僕と同じ……『月の斑』を持つ人間が?)
ベテランのドワーフの鋭い観察眼がヴェルンから離れ、彼女へと固定された。
「当たり前じゃ、オラァ。月光魔法への適性ってのは、女にはよくあることなんじゃよ。もしお前さんにその『才能』があるなら、頭からどっぷり浸かってみるべきじゃて」
ガクガクッ。
フェンリエの顎が小刻みに震えた。
『落ち着け。奴は真実を知らぬ』
再びグンダーの声が脳内に木霊する。『奴の言葉は、「斑」とは何の関係もない』
ギリッ!
即座に、少女は奥歯を噛み締めた。
『真の魔法的適性を持つ者は、無意識の呪文行使によってその才能を発見することが多い。あのドワーフは、お主の体内にある「斑」の混沌とした流れを見て、完全に間違った結論を勝手に引き出しただけだ』
ザッ、ザッ……
ドワーフたちは再び一行を先導し始めた。ヴェルンは、その場に釘付けになっているフェンリエの横を通り過ぎていく。グンダーはゆっくりと前へ進み、彼女に追いついた。その勘違いの言葉がどれほど重く、少女の肩を丸めさせているかを静かに観察しながら。
「イングリッド……」精霊は小さく呟いた。
「わかってます……」彼女は極限の力で両拳を握りしめ、自分自身の爪が掌の肉に食い込むのを感じた。
この話題を永遠に葬り去ろうと決意し、イングリッドは再び歩き出した。
グンダーは無言のまま、その場に残された。彼は、若き少女のシルエットが回廊の暗闇へと遠ざかっていくのを見送る。そして、彼の紫紺の瞳の奥には、否定しがたい悲哀の光がキラリと揺らめいていた。




