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食後のコーヒーを片手に、礼二郎は自室に向かった。
十一月のこの時期に一週間も何もしなかったのだ。階段を上りきるころには、どうして参考書の一冊でも持っていかなかったのだろう、という後悔が頭をよぎった。
こういう時は遊びに専念しなさい! なーんて姉ちゃんの言葉をうのみにしちゃったんだよなぁ、とつぶやきながらドアを少し開け、壁にある電気のスイッチを点ける。
ぱあっと部屋が明るくなる。
そこには、いつもの自分の部屋……とは違う点が一つだけあった。
たったの一つだけなのに、手に持ったマグカップを落とすくらいに、その衝撃は大きかった。
「――あっちぃ!」
幸いなのは、コーヒーは食卓で少し飲んでいたものだったので、アツアツではなかった点だ。それにしても声をあげるには十分な熱さだったが。
木目調のクッションフロアにコーヒーの湖が広がっている。
い、いや、そんなことより……!
「おおおお前は誰だぁ―――――っ!」
礼二郎はベッドの上ですやすやと眠っている少女に向かって叫んだ。
叫んでから、ちょっと大声出し過ぎたかな、と思った。いまの声で両親が入ってきたらまずい。
礼二郎は一度部屋から出て、リビングの動向を伺った。
案の定、景子の「礼二郎ー? どうしたのー?」という声が聞こえる。
「なんでもない!」
礼二郎は再び大声で叫んだ。「ならいいけどー」とのん気な声が返ってきた。
ほっと胸をなで下ろし、部屋に戻る。
あれだけの大声のやり取りがあったにも関わらず、ベッドの上の少女はまだすやすやと寝息を立てていた。
ここまで来たら無理やり起こすのもなんだか悪い気がして、そぅっと机まで歩き、その上に置いてあったティッシュを箱ごと持つ。また同じようにそぅっとドアまで戻る。
床にかがんで、ティッシュを数枚引き出す。
こういう時ってなんでこんな音まで大きく感じるんだろう。
そんなことを思いながら、コーヒーを拭き取った。
「さて……と」
床が綺麗になったところで、改めてベッドの上の少女を見る。
浪人生の分際で女の子を連れ込むなんて……。
い、いや、俺は連れ込んでなんていないぞ! てことは、不法侵入……?
しかも、この子、外国人か?
さすがに近くでまじまじと見つめるのは気が引けたが、そんな近くで見なくても、日本人ではなさそうだった。
少女は何もかもが真っ白だったのだ。
長い髪の毛も、肌も、身に着けている毛皮のような衣服も。頬と唇だけがわずかに桜色だった。
外国人となると、不法侵入のみならず、不法入国もあるかもしれない。
とりあえず、警察か? いや、その前にやっぱり親に……?
礼二郎がティッシュの箱を片手にまごまごしていると、少女が目を覚ました。
ゆっくりと身体を起こして、口を開く。
「おい、そこの者、ここはどこだ」
やけに居丈高な態度だった。
「どこだじゃねぇよ! 俺ん家だよ! ていうか、お前は誰なんだよ!」
ある程度は声を張らないと、少女の威圧感に負けてしまいそうだった。
「無礼者め。尋ねる側から名乗るのが礼儀ではないのか」
ほとんど表情を変えずに、少女は言った。
「お、俺? 俺は礼二郎だけど……」
結局、負けてしまった。
「よろしい。私は、雪虫だ」
「は?」
「雪虫だ。礼二郎と言ったな、お前が連れてきたのだな」
「つ、連れてきたって……。俺、何もしてねぇよ」
「連れてきたではないか。ほら、この毛に包んで」
そう言って、丸まったコートのフードを指差す。
「それじゃ、さっきの……雪む……いや、駄目だ。これ以上は言いたくない!」
これ以上『虫』という言葉を言いたくも、聞きたくもなかった。
それに、頭では理解している。そんなわけはないのだ。雪虫が人間になるなんてことはあり得ない。
きっとこの子はコスプレが趣味の外国人の女の子で、なんのキャラかはわからないが、それになりきっているのだろう。
「えーとさ、その……雪む……ちゃん」
『虫』の『し』の部分はさりげなくごまかした。なのに……、
「雪虫だ!」
台無しだ……。
「いや、まぁそこはいいんだけど、あのさ、出て行ってくれないかな。お兄さん、勉強しなきゃだし。いま出てってくれたら警察は呼ばないからさ」
「何を言っている。お前が連れてきたのだぞ。私には時間がない。早く食物を持ってこい」
「いや、だからさ……!」
そう言って、少女に近づく。近づいて見ると、肌の色も、髪の色も、化粧やかつらのようには見えなかった。よく見るとまゆ毛や睫毛まで白い。
どこかで見たことがある……。そうだ、アルビノだ。ネットで見たことがある。きっとこの子はアルビノなんだ。
でも、だからと言ってどうこうというわけではない。この子は不法侵入だし、なんとかして出て行ってもらわないと……。
「とりあえず、ベッドから降りて……」
そう言って、雪虫という名の少女の腕に手を伸ばした。
「止めろ! 私に触れるな!」
雪虫は身体を捻って避ける。
「人間に触れられるとすぐに弱ってしまうのだ。無礼者め」
一貫した態度に、あきれを通り越してあっぱれと感じてしまった。
「それは……ごめんよ。でもさ、こっちの身にもなってくれよ。俺は浪人生で、俺だって時間がないんだよ。勉強しなくちゃ」
「お前も時間がないのか。仲間だな、私と」
そう言って、雪虫と名乗った少女は笑った。笑うと結構可愛いな、なんて思った。
こんな感じで会話をしていけば、少しずつでも状況が好転するのではないだろうか。
たとえ不法侵入だとしても、この子がもし一言「この人にさらわれた」とでも言えば、自分は誘拐犯だ。こんなに可愛い少女と、浪人生の自分。果たして、世間はどっちに味方をするか……。
こんなわけのわからん状況で自分の人生が終わるのは避けたい。なんとか、友好的に出て行ってもらわないと……。
「とりあえずさ、さっき食物って言ってたよな。なんか適当に持ってくるよ。すぐに戻ってくるから、この部屋からは絶対出るなよ!」
そう言い残して部屋を出る。
なんかこの台詞も、まんま誘拐犯じゃねぇか。
「礼二郎、夜食? さっき食べたばかりじゃない」
キッチンでおにぎりを握る礼二郎に、景子が後ろから声をかけた。
「うぉ! びっくりした……。いや、ちょっと小腹空いちゃってさ」
「言ってくれたら母さん持ってくのに……。小腹の割には結構あるのね。中途半端に残すくらいなら、全部食べちゃっていいからね」
じゃあお休み、頑張ってねと言って景子は寝室へと向かった。
大きめのおにぎりを四つ、それと温かいお茶をお盆に載せて、礼二郎は部屋に戻る。
部屋では相変わらず雪虫がベッドの上に鎮座していた。
ずっとドアを見ていたのだろうか。礼二郎が入ってきた瞬間に目が合って、どきりとした。
少女は視線を礼二郎の目からお盆に移した。
「遅かったな。それはなんだ」
「おにぎりだよ。それとお茶。雪む……ちゃんは外国の人っぽいけど、日本語がだいぶ上手だからイケるかと思ったんだけど」
「いい加減覚えろ。私は雪虫だ」
「出来れば俺の思いを汲み取って欲しいんだけどな――……。あのさ、もっと、こうさ、仲良くなるためにってことでさ、ユキって呼びたいんだよ、俺」
「仲良くなるため……か。いいだろう。私はユキだ。それで? そしたらお前のことは何と呼べばよいのだ」
よし! 乗ってくれた!
「うーん、クラスの女子からは夏木って呼ばれてたなぁ」
「夏だと! 夏は駄目だ!」
「えっと、じゃあ、レイジ、かな」
「わかった、レイジ。では、その食物を寄越せ」
だいぶ態度が軟化した気がする。あだ名作戦は成功だ!
ベッドの上にお盆を載せる。ユキはほかほかと湯気を立てているお茶とおにぎりを不思議そうに見つめている。
右手でそぅっと湯気に触れる。
「熱っ! 熱いぞ! なんだこれは」
湯気しか触っていなかったように見えたのだが、ユキは左手で右手をさすっている。
「大丈夫か? お茶か? 熱すぎたかなぁ」
湯呑に触る。たしかに少々熱いが、そんな叫ぶほどかなぁ……。
「気を付けろ! 私は熱に弱いのだぞ!」
北欧辺りの出身なのかな……。よほど暑さに弱い子なんだろうな。
「じゃあそのおにぎりは? だいぶ冷めてると思うんだけど」
恐る恐るおにぎりに手を近づける。しかし、部屋が冷えているせいか、まだかすかに湯気が立っている。
そうだ、そういえばこの状況ですっかり忘れていたけれども、エアコンをつけていなかった。でも、この子だいぶ暑さに弱いみたいだしな……どうしようか。
ユキはまだおにぎりに触れるのをためらっている。さっきのがよほど熱かったのだろう。
「なぁ、この部屋、寒くない? 俺ちょっと寒いんだけど、エアコンつけていいかな?」
集中していたのだろうか、礼二郎の声に驚いたらしい。触れるか触れないかのギリギリで止まっていた手がおにぎりに触れた。
「ふぁあ! 熱っ……くない! これなら食べられる!」
エアコンについての回答は得られなかった。とりあえず、両手でおにぎりをつかんで一心不乱に食べているユキを横目に、ベッドの上のコートを取り、羽織った。
お茶もおそらく熱いのだろう、そう思って、早く冷めるように窓際に移動させる。
気付くとおにぎりは最後の一つになっていた。足りるかな……。
結局、ユキはおにぎり四つで満足出来たようだった。ぬるいを通り越してやや冷たくなったお茶をおいしそうに飲んでいる。
「それでさ」礼二郎が切り出す。
「ユキの今後の予定を聞きたいんだけど……。その……いつ、帰るとか……」
「帰る? 私はしばらくここにいさせてもらう」
腹が膨れて満足したのだろう。口調は変わらないが、声と表情が明るい。
「はぁっ? しばらくって、どれくらいだよ」
「わからん」
「わからんってどういうことだよ!」
「私には大事な使命があるからな。その時がいつになるのかはわからん。使命を果たせば私は死ぬ」
明るい表情に似つかわしくない『死』という言葉に、礼二郎は驚いた。
「死ぬって……何言ってんだよ」
「それが女王の定めなのでな」
ユキは晴れやかな顔でそう言った。