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後編

 次の日の午前十時過ぎに、夫は帰ってきました。何食わぬ顔で迎えたつもりです。

「おかえり。遅かったね?」

 逢引が長引いたのか、とは問いません。

「ちょっと残って仕事してたから。まあ、いつものことだよ」

 夫が疲れたと呟いてダイニングの椅子の上にドスッと腰を下ろします。

 何が「疲れた」だ、他の女と遊んできただけのくせに。

 そう思いますが、心を強くいさめて何気ない雰囲気を装います。

「夜通し仕事なんて、大変だったね」

「そりゃね。仕事だからね。……ああ、もう昼か」

「ご飯、食べる?」

「いただきます」

「ねぇ? これからどうせ寝るんでしょ?」

「うん」

「じゃ、お風呂入ってきなよ。その間にご飯の用意しておくから」

「うん、わかった。そうする」

 夫がゆっくりと立ち上がります。

「あ、それと洗濯物も出しておいてね」後で調べるから。

「うん。わかった」

「お酒は?」

「飲むさ、もちろん」

 そう言って夫はシャワールームに歩いて行きました。

 夫がシャワーから上がってきて昼食を食べ終わり、私がその食器を洗っていると、お酒を飲んでいる夫が、「そういえば、昨日のアレ」と話かけてきます。

「アレ、何だったの?」

「昨日のアレって?」もちろん、とぼけているだけです。

「昨日、君が急に怒り出したやつ」

「ああ……、アレ……」

「そう、アレ」

 私は答えず、沈黙が下ります。手元で食器がカチャカチャという音を立て、その他にはテレビの音が小さく聞こえるだけです。

 夫は黙ってお酒を飲んでいます。私の反応を催促してるんだということが分かります。

「気にしないで。ちょっと勘違いしただけだから」

「どんな勘違いだったの?」

「うん……。うん、ちょっと」

 自分の浮気がばれてないか勘ぐってるんでしょうが、そう簡単に手の内を見せるわけにはいきません。

「ちょっと……、何?」

「うん、ちょっとね」

「『ちょっと』じゃ分からないよ」

「いいじゃない。聞かないでよ。答えたくないことの一つや二つ、私にだってあるんだから」

「それは分かるよ。でも心配なんだよ、君が。君のことが。昨日の君の取り乱し方はちょっと尋常じゃなかった。何か重大な問題でも、起こったんじゃないの?」

「何もない」

「嘘だな。昨日といい今日といい、ちょっとおかしいよ、君は。ねぇ、何があったの?」

「何もないったら」

「いいから。怒らないから言ってごらんよ」

「何もないって言ってるじゃない!」

 ガチャと食器が鋭い音を立てます。

 ふぅと夫はため息をつくと、席を立って「寝るよ」と言い、寝室に引っ込んでいきました。寝室のドアが開き、そして閉まる音が小さく聞こえてきました。部屋の中には相変わらずテレビの音が小さく流れていました。

 嫌な気持ちが心に溜まるのを感じ、泣きたくなりました。

 夫の口から「君が心配だ」なんて言葉を聞きたくなかった。きっと、そういうことなんだと思います。

 後で調べた夫のワイシャツからは、知らない甘い香りがしました。


 なぜ「君が心配だ」なんて台詞を聞くのが嫌だったか。

 それは私の過去に理由があります。

 実は私には以前、付き合っていた人に捨てられた過去があります。私がまだ二十歳のことでした。彼(本当は名前もちゃんと覚えているんですが、口にしてさえ嫌な気持ちになるので、ここでは彼とだけ呼ぶことにします)は手足の長いヒョロっとした人で、夫と同じく愛情表現の甘い人でした。

 「好きだ」「愛してる」などは言うに及ばず、スキンシップも大好きで、人の目のあるところでも平気で肩を抱いたり、キスを迫ってくるような人でした。胸焼けする程の甘さだったと言っていいでしょう。

 付き合っていた当時、私は彼のそうした言葉や行為を多少鬱陶しく思いながらも、素直に嬉しいものとして受入れていました。甘えん坊で可愛い人のように映っていたのです。ええそうです。あまり認めたくないですが、私は彼のことが大好きだったんです。おそらく、夫のことなどより、遥かに強く。

 浮かれていたのでしょうね。のぼせ上がっていたのです。きっと男の人が口にする「好きだ」という言葉の軽さに気が付かない程に。痛みを知らなければ、不信も警戒も抱きませんもの。のめり込み、そして当然のように裏切られる。今にして思えばごく当たり前の結果だったんだと思います。無知で純心で、それ故警戒心のかけらもなければ、相手の本質を見抜く力もない。そんな可愛い人間だったんですね、昔の私は。少し懐かしく、また同時に少し羨ましいとさえ、今では思えてしまいます。

 ただ私がそんな風に舞い上がってしまったのには、それ相応の理由があります。

 私には長年に渡るコンプレックスがありました。目が一重だということです。それを好きだと言って褒めてくれたのが、彼だったのです。

 一重まぶたがコンプレックスだというと「なーんだ、そんなことか」と、おそらく多くの方が思われるでしょうが、ですがコンプレックスというものは元来そういうものです。

 他人から見れば些細な違い、でも当人にとってみればどうしても放っておくことのできない欠点、なんとしても修正したく、しかしそれでいて絶対に修正できない悩みの種。そういうものです。それに私の場合、中学生の頃に随分とこの目のことについて男子達からからかわれていたせいもあるでしょう。本当に苦しい思いをしました。

 もちろんお化粧によって二重に見せる方法も知っていましたが、中学高校に通う間はお化粧なんてするものではないと信じていましたし、クラスの他の子達の目も気になったこともあって、お化粧で一重まぶたを隠すこともできませんでした。ずっと一重まぶたの自分を恥ずかしく思ってきました。他の女の子が一重であっても全く気にならないのに、です。反対に二重である子が羨ましくてなりませんでした。

 私も、あんなパッチリとした目だったら良かったのに。

 鏡に映る自分の目を見て、何度そう思ったことでしょう。それはもう、強く強く憧れたものです。

 そうして私は彼と出会い、好かれ、好きになり、付き合うことになりました。彼とは大学二年の時にしていたアルバイト先のファミリーレストランで知り合いました。接客担当のフロア係として夏が終わる頃、新しく入ってきたのが彼でした。ノリが良くて一緒に働いてて面白い人だなと思ったことを覚えています。ただ仕事に関して言えば、あまり頼りにはならなかったのですが。

 最初にアプローチしてきたのは彼でした。その猛烈とも言える攻撃にほだされ、冬になる頃、私は彼と付き合うことを決めていました。

 いつのことだったでしょうか。真冬だったというのは覚えています。ただ正確なことは、もう忘れてしまいました。

 彼の部屋で一緒にテレビを見ていると、マスカラのCMが流れてきました。画面にはその当時、時勢を極めていたた女優さんが、パッチリとした目を輝かせてアップで映っていました。

「いいなぁ、あんなきれいな目をしてて」

 これまで胸の内にこっそり隠していた本音が、ついポロッと出た瞬間でした。

 すると彼はテレビの方を向いたまま

「えー、リッちゃんの目だってきれいじゃん。俺、リッちゃんの切れ長の瞳の方が好きだけどな。こういうのより」

 と何気ない口調で言うのです。ドキッとしました。

 心の底が温かくなり、何か熱いものがこみ上げて来ました。なぜだか不思議と報われた気分でした。心が感情で満たされ、もう少しで危うく涙を流してしまうところでした。記念すべき日だったんです、昔の私にとっては。

 こうした経緯もあって私は彼にのめり込むことになりました。ですが、その結果だけを見ればさんさんたるものでした。

 彼は他に彼女と呼べる人を作って、あっさりと私の前から姿を消しました。付き合い始めてからまだ半年も経っていないのに、です。

 ある日、バイト先に行ってシフト表を見てみると、そこには彼の名前がありません。どうしたのかと思って店長に聞いてみると、彼なら二日前に辞めたと言います。私は彼から何の連絡も受けてません。それでどうして彼は辞めたのかと聞くと、知らないと答えてきます。急に辞めると連絡があったんだと、そう迷惑そうにこぼすだけです。

 私は彼と連絡を取ろうと電話をかけてみました。しかし「この電話は相手のお客様のご希望により、お繋ぎすることができません」という機会音声が返ってくるばかりで、一向に繋がる気配はありません。メールしてもみましたが、同様の結果が返ってくるばかりでした。

 なぜ連絡が取れないのか。

 もしかしたら彼の身に何かあったのかもしれない。

 そう悩んでいる私にバイト仲間が、「それはきっと着信拒否だよ」と教えてくれます。

 着信拒否? 意味が分かりません。

 最後に彼に会ったとき、私達はいつも通りでした。いつものように出かけて、いつものように一緒にご飯を食べて、いつものように談笑に興じる。彼からの「好きだ」的な愛情表現も変わらずに健在でした。不和や気まずさの雰囲気なんて微塵も感じられなかったのです。

 それなのに。

 私は彼の部屋に行ってみることにしました。

 彼は荻窪にある瀟洒なマンションで暮らしていました。私も度々訪れたことのある部屋です。思い出も沢山ありました。

 部屋の入り口に立ってドアベルを鳴らし、少し待ちます。霧雨の降っている日で、雨がしっとりと地上を濡らしていました。辺りは静かでした。

 ガチャと玄関の戸が開く音がして彼が出てきました。きっと今まで寝ていたのでしょう、頭をボサボサにして眠そうな彼の顔が見えました。

「あ、ねぇ……」

「帰れ」

 濁った目で彼はそれだけを言い、ドアは強く閉められました。カターンという鍵のかかる音がして、後はそれだけでした。それでお終いでした。彼と私の別れは、それで全部でした。

 ドアが閉まる寸前、見慣れない女もののロングブーツが目に入りました。チャックがぱっくりと開き、くたっと横に倒れて玄関に広がっていました。ワインレッドか、と私は思いました。それは私には似合わない色でした。

 玄関のドアが閉められた後、私はしばらくその場に立ち尽くていました。何が起きたのか理解できなかったのです。ただ事実を時系列順に並べてみて、分かりました。

 捨てられたのでした。私は彼に捨てられた。それが自然に理解されました。

 帰り道、私は泣きながら駅までの道を歩いて帰りました。でも、雨が降っていて幸運だったと思います。傘で顔を隠すことができましたから。

 後日、彼の新しい彼女がどんな子なのか、私は知りました。バイト先で彼と親しくしていた後輩の男の子から、その情報を聞くことができたからです。可愛い子だったと、その人は言っていました。

「目はどんなだった?」

「目、ですか?」

「うん。二重だった?」

「え? ああ、そうですね。多分二重だったと思います。目のパッチリした子でしたから」

 男の言葉は信用ならない。

 そう確信した瞬間でした。

 それなのに、です。

 こんな苦い経験のある私なのに、またも安易に男の人の言葉を信じ込んでしまったようです。

 情けなく、本当に情けなく思います。自分の甘さというものに。

 夫は誠実な人間です。いえ、誠実な人間でした。少なくともこれまではそう思っていました。

 しかし、それでも私は夫に対する警戒を緩めたつもりはありませんでした。いつかこんな日が来るといけないから、こんな日が来て、そしてまたあの雨の日のような思いをするのが嫌だから、夫の心根の良さに一定の信頼を置きつつも、心の半分を凍らせて夫を全部信じきることのないようにしてきたつもりだったのです。不実の保険として離婚届さえ手元にこっそりと隠し持っている程なのです。それがなんとまあ、このざまです。情けない話です。全く持って本当に。

 そして夫は自分の浮気がばれてないと思ってるのか、この後に及んでも「君が心配だ」などと言ってきます。その姿勢を貫いてきます。

 見せ掛けの愛情に、人は傷つきます。愛情という大事なものだからこそ、それが偽りだった時、より人は深く激しく傷つくのです。そして私もその一人。もうたくさんなのです、騙されるのは。騙され傷つくのは、もう本当にこりごりなのです。

 夫に思わず怒鳴ってしまったのには、そういう訳があります。でもホント、三文芝居もここまでくると感心するものがありますね。IT技術者なんか本当に辞めて、プロの役者にでもなればいいのに。

 夫の顔を見るの嫌で、カップめんを三つキッチンに置いて、私はその日一日、漫画喫茶で過ごしました。面白い漫画がたくさん読めてせいせいします。

 あんまり遅くなるのもなんなので、夜の十時過ぎに帰宅すると、夫は家にいませんでした。

「外に飲みに出かけます。帰りは遅くなると思うので、先に寝ててください」

 そういうメモが、キッチンのテーブルの上に残してありました。

 決戦は明日か。

 はっきり、私はそう思いました。


 次の日、夫は昼過ぎに起きてきましたが、おはようの一言以外、私達の間に特に会話らしい会話はありませんでした。お互い視野に入る位置にいながら、沈黙を戦わせるだけでした。その空気に耐えかねたのか、夫はしばらくすると一人で家を出て行きました。行き先は言いませんでした。私も敢えて尋ねませんでした。

 夕方になって夫が帰ってきました。手にはガムテープで口を閉じられた大きな紙袋があります。

「どこに行ってたの?」私が聞きます。

「うん、ちょっとね」

 やっぱり言えないんだ、言うことのできない場所なんだ。

 頭に血が昇ってくるのを感じました。

 夫は荷物を寝室に置くと、ダイニングの椅子に腰を下ろします。それから、

「律子。ちょっとここに座りなさい」

 と私を呼びます。来た、と思いました。さあ決戦の時だ、問い詰めてやろう、不実を暴いてやろう。その意志を固めてから、夫の真向かいに座ります。

「昨日……、一昨日からかな? なんだか様子がおかしいけど……。一体どうしたっていうの?」

 私が答えない間、夫は辛抱強くじっとこちらを見つめていました。答えを待っているのです。

 長いこと沈黙を続けた後で、溜息をつき、私は言いました。

「一昨日の夜、出かけたでしょ?」

「一昨日? ああ、うん、出かけたね。って言っても仕事だけど。……それが?」

「それ嘘でしょ?」

「嘘? 何でそう思うの?」

「いいから答えて」

「いやさ、だって……」

「聞いてるのは私よ」

「……分かった。嘘じゃない。本当だ」

「ウソね」

「嘘じゃないったら」

「ウソよ。本当は女の人と会ってたんでしょ?」

「女の人? 女の人って、それってつまり、僕が浮気してるってこと?」

 薄笑いを浮かべる夫に対し、私はその顔を睨みながら頷きました。

「浮気? 僕が? この僕が浮気してるって? いやいや、ないよ、ない。あり得ない」

 そう言って人を馬鹿にするように笑い、

「何を勘違いしてるのか知らんけど、僕が君以外の人に心を移すなんてこと、あるわけないよ」

 と、いかにも下らないといった調子で続けます。

「じゃあ、ワイシャツに残ってた匂いは何だったの?」

「ワイシャツ? ワイシャツって?」

「とぼけないでよ。昨日逢引の時に着てったワイシャツのことよ。胸の辺りから何かいい匂いがした」

「ええ! そんなはずないんだけどな」

「証拠の隠蔽は、完璧なはずだから?」

「いや、そういうんじゃなくて……」

「じゃなんなのよ」

「思い当たる節がないからだよ」

「嘘ね。じゃあ何? 運悪くその日に限って、たまたまあなたの体からいい匂いのする汗でも出たってこと? しかも胸の辺りだけ」

「いや、そうじゃないけど……」

「じゃ何なのよ」

「いや、そう言われても困るんだけど……。あ、サイダーを溢したからかもしれない」

「嘘だ。絶対に嘘だ」

「嘘じゃないって。ホントに溢したんだよ。あ、電車にいた女の人の匂いがついたのかもしれない。行きの電車で良い匂いのする女の人が前にいたし、電車は混んでたし。もみくちゃにされてる間に、その匂いが移ったのかもしれない」

「嘘よ」

「嘘じゃないんだけどな」

「じゃ、証拠を出して」

「証拠? 証拠って何の? サイダーの? 香水の?」

「違うわよ。あなたが浮気してないって証拠。もし、出せないなら……」

 そう言いながら私はポケットの中から八つに折り畳まれた紙を取り出し、夫の前に広げて差し出します。密かに隠し持っていた離婚届です。

「これに名前を書いて」

 それまで余裕のあった夫の表情が、みるみるうちに険悪なものに変わっていきます。

 おい、と部屋に怒りを含んだ低い声が響きます。

「これが、この紙が、一体どういう意味を持つものなのか、君は分かってるのか?」

「分かってる」

「分かってない! 君は何にも分かっちゃいない!」

 いいか? と夫は続けます。

「これは持ってるだけで僕達夫婦の信頼を壊すものなんだ。絶対に持ってちゃいけないものなんだ。それが分かって言ってるのか?」

「分かってる」

「なら、今すぐこんなものは破って捨てるんだ!」

「いや」

「捨てるんだ!」

「いや!」

「いいから捨てろって言ってるんだ!」

「いや!」

 夫は本気でした。本気で怒っていました。私にはそれが恐ろしく、混乱してました。

 夫はどんな時でも穏やかな人でした。不機嫌になったり、嫌な顔をすることはあっても、本当の意味での怒りを見せたことのない人でした。大抵の失敗は困った顔をして「次からは気を付けるように」と注意するだけで落着していましたし、声を荒げるどころか、乱暴な物言いさえしたことのない人だったのです。

 それが今、私の目の前には完全に怒っている夫がいて、大きな声で怒鳴ることさえしています。そのものすごい剣幕に、眼光の強さに、とても平静に夫の目を見ることができません。男の人の怒りの凄まじさというものを、私はこの時本当に見た気がします。

 怖い。その時はただもうそれだけでした。何を言っても怒鳴られるんじゃないかと思うと、一言も口に出すことができませんでした。

 沈黙が肌を刺すようで、苦痛の時間が続きました。どうしてこうなってしまったんだろうという考えがよぎって涙が出そうでした。悔しくも悲しくもありました。

 そうした沈黙が二、三分ほど続いた頃でしょうか。家の固定電話が鳴り始めます。

 コールの度に、意識の中で段々とその音が大きくなっていき、仕方なく私は立ち上がって電話を取りに行きました。

「電話なんて……」

 吐き捨てるような夫の声を背に浴びながら、それでも振り返らず電話の方に向かいます。滲んだ涙を拭い、気を落ち着けてから受話器を取ります。

「はい、高畑です……」

「あの、先日、『旦那さんが浮気をしてる』と電話した者ですが……」

 途端に心臓が跳ね上がります。

 また何か恐ろしいことを聞かされるんじゃないか。そう思ったのです。

「あの、すみません、実はこちらの手違いでして、この度の電話は誤りでした。どうも電話番号の勘違いをしていたみたいで。それであのー、お詫びをと思い、こうしてお電話差し上げた次第です。実は私ども、別れさせ屋というのをやっておりまして、それで……」

 その先は聞くことが出来ませんでした。私は受話器を握りしめたまま、その場にへたり込んで大声で泣いてしまいました。何事かと思って夫が駆け寄っても、私は構わず大声で泣き続けました。安心したんだと思います。

 その日の夜、夕食を済ませた後で、私は夫に一部始終を話して聞かせました。

「はた迷惑な電話だね」

 話を聞いた夫は、本当に迷惑そうにそう言いました。

「うん……。でも、本当にゴメンなさい」

「いいよ、それは。もう済んだことだ」

「でも……」

「いいんだ。そんなことよりも驚いたよ。君にそんな過去があったなんて」

「うん。ずっと内緒にしてたから」

「僕には知られたくなかった?」

「うん。っていうか、普通言いたくないものでしょ? そういうのって」

「まあね。でも僕は知りたいと思うけどな。君を独り占めしてみたい」

 またです。また例の愛情表現です。こんな時だってのに、全くもうこの人は。

 ですが、その気持ちはぐっと堪えて、丁度いい機会なので結婚前後で愛情表現の仕方が変わった理由について聞いてみることにします。今は不必要なくらい流暢に愛情を表現するくせに、どうして昔はあれ程までに寡黙に愛を囁いていたのか。

 どうしてなの? と。

「うん、まあ……」

「『うん、まあ……』、何?」

「うん、まあ……、その、恥ずかしかったんだよ、単純に。何ていうか、三十路手前のもうすぐオジサンがだよ? 好きだの愛してるだの、そんなこと言うのが、妙に気恥ずかしくて」

「じゃあ、何で今ははっきりと言うようになったの? そんな恥ずかしい台詞を」

「だって、君は僕がその恥ずかしい台詞を言う度に、嬉しそうにしてるじゃないか」

「えー、嬉しそうになんてしてないよ」

「ウソつけ。僕が『好きだ』『愛してる』とか言う度にいっつもニヤニヤしてるくせに」

「そんなことないってば」

「嘘だね。だってホラ。今だってそうして嬉しそうにしてる」

「えー、そうかなぁ」

 そんなこと、全然ないんですからね?


 次の日の朝、会社に行く夫を送り出してから掃除をしようと寝室に入ってみると、物置代の上に白くて小さな花の花束が置いてあります。一体何だろうと思って近寄ってみると、それは私の大好きな花、スズランの花束です。花束の側には「今日は早く帰ります」とのメッセージも添えられています。

 おそらく夫がくれたものだと予想できたのですが、でもどうして花束なんかくれるのか、その理由がいまいち分かりません。ケンカした後の仲直りの印に、というのではあまりに用意周到すぎますし、かといって他に思い当たることと言えば……と考えて、ようやく気が付きました。今日が私達の三回目の結婚記念日だということに。そうでした。ケンカに気を取られていて、すっかり忘れていたのでした。

 スズラン。とっても嬉しい贈り物です。しかもその花言葉は奇しくも「幸せが戻ってくる」です。まさに今の私達にピッタリの花言葉と言えますから。

 それに、です。今回の間違い電話に端を発した夫婦ゲンカはある一つの事実をはっきりとさせてくれました。それは夫の言葉が真実だということです。

「君のことが大切なんだ」

「君のことをいつだって気にかけているよ」

「愛してるんだ」

 こういった言葉が真実偽らざる夫の本音だということです。

 全くもう。

 困った人です。頭に来てしまいます。これはもう、絶対に許すことはできません。

 目に物見せてやろう。

 そう考えて、私は思いつきました。

「私だって! 私だって! あなたのこと、愛してるんだからー!」

 近所の人から苦情が来るくらい大きな声で、そう怒鳴りつけてやろうかと思います。そうすれば私がどんな思いでいるのか、夫だって思い知るはずです。

 ですがそう考えると、もう叫びたくて叫びたくて仕方がありません。

 現在時刻は午後六時をちょっと回ったところ。お祝いの準備もすっかり終わり、テーブルの上には、夫からの贈り物である白いスズランが飾られています。

 メッセージの通りだとすればもうすぐのはずです。幸福が戻ってくるのは。

 あーあ、あの人早く、帰ってこないかなぁ、なんて気味の悪い笑顔を浮かべながら、テーブルに肘付き、足をブラブラさせて、今は幸福の帰りを待っているところです。

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