第一章5『紫電の孤独』
目を覚ましたとき、そこは音が死んだ世界だった。 前世の最後に聞いた、あの激しい雨音も、妹を呼ぶ自分の叫び声も、ここには届かない。
1.氷光の産声と雷闇の檻
「……産まれました。美しい、夜のような黒髪の娘です」
誰かの囁きが、ひんやりとした空気を通して鼓膜を揺らす。 私は、自分が赤ん坊として新たな生を受けたことを理解した。かつて私を追い詰めた男の影も、あの絶望の断崖もない。
だが、安らぎは長くは続かなかった。 私が産声を上げた瞬間、屋敷を囲む「雷闇」の空から、一本の巨大な紫色の雷が寝室の真上に落ちたのだ。
それは祝福ではなく、夜の理が私の魂を検閲した合図だった。
私の名はシオン。夜国の辺境を治める武門の家、バルザーク公爵家に生を受けた。 夜国の人々は、月や星の光を慈しみ、静寂を美徳とする。だが、私の周囲だけは常に騒がしかった。
私が感情を乱せば空が鳴り、私が指を動かせば無音の火花が闇を裂く。
「この子は、闇御門様が遣わした災厄か、それとも救世主か」
父や母の視線には、常に薄氷を踏むような危うさが混じっていた。 私は五歳になる頃には、自分の力を隠す術を覚えた。掌に集まる紫の電光を、心の奥底にある「前世の深い水の底」に沈めて隠すのだ。
(……ねえ、妹よ。あなたはどこにいるの?)
私は毎晩、窓から見える雷鳴を眺め、その光の速さで「壁」の向こう側へ意識を飛ばそうとした。もし私がこの「雷」の性質を持つなら、この光はいつか、同じ雷の中に消えた彼女に届くのではないか。
その淡い期待は、七歳の「鑑定の儀」で無残に打ち砕かれることになる。
夜国の鑑定は、月光を反射する真黒な黒曜石の盤の前で行われる。 立ち会うのは、闇御門に仕える「影導師」たちだ。
「シオン・ヴァン・バルザーク。その手を盤に」
影導師の声は、雷闇の冷たい大気に溶けて消えた。 七歳の私は、父である雷闇公ガレオスの冷徹な視線を背中に浴びながら、真黒な黒曜石の盤に右手をかざした。
(……うるさい)
頭の奥で、ずっと鳴り止まない音があった。 それは目の前の黒曜石が放つ魔力のうなりではなく、もっと遠く。 太陽が照りつける、ここではない「どこか」から聞こえる激しい雷鳴の残響。
――キィィィィィィィン!!
私の魔力が黒曜石に触れた瞬間、盤は悲鳴を上げた。 視界を埋め尽くしたのは、夜の闇を鋭く切り裂く**「冥紫雷」**の奔流。 あまりの魔圧に、立ち会っていた魔導師たちが次々と膝をつき、父ガレオスさえも眩しそうに目を細める。
「な、なんだこの出力は……! だが、待て、この波形……不浄な『光』が混じって――」
導師の狼狽した声が遠のいていく。 私の意識は、溢れ出した紫の光に包まれながら、深い、深い、紺碧の闇へと沈んでいった。
(……あ。この感覚、知ってる)
冷たい。寂しい。 けれど、どこか懐かしい水の底。 前世で、私が妹の手を離してしまった、あの絶望の深淵。
その時だった。
凍てつく紫の雷の中に、あり得ないはずの**「熱」**が差し込んできた。 暗い海に一筋の陽光が差し込むように、まばゆい黄金の光が私の意識に飛び込んできたのだ。
『……姉さん?』
声ではない。それは、魂に直接刻まれるような震えだった。 黄金の光の中心に、自分と同じように小さな、けれど必死に手を伸ばす「誰か」の気配を感じる。
(……あぁ、そこにいるのね)
私は無意識に、光の中へ手を伸ばした。 紫の稲妻と黄金の雷火が、境界を超えて複雑に絡み合う。 触れ合った指先から、言葉にならない感情が流れ込んできた。
「生きていて」「見つけて」「ごめんね」「愛してる」
二つの雷鳴が一つに重なり、世界の調和を乱すほどの巨大な衝撃波となって弾けた。
「……っ!!」
衝撃と共に、意識が現実へと引き戻される。 目を開けると、そこには粉々に砕け散った黒曜石と、静まり返った広間があった。 私の右手からは、まだ消え残った紫の火花が散っている。
「鑑定結果……雷闇。だが、その身に『光の毒』を宿す忌み子……」
父ガレオスの忌々しげな宣告。 けれど、私の心は不思議なほど穏やかだった。
「……不浄だ。これは光の国の呪いではないか?」
周囲がざわめき始める。 夜国にとって、光は「侵食」であり「毒」だ。 私の魔力は最強の「雷闇」でありながら、その根源に「光」の残滓を抱えている。それは夜国の純血を汚す異端の証だった。
(……生きてる。あの子は、あっち側にいる)
頬を伝う一筋の涙が、地面に落ちる前に凍りつく。 神官たちが「呪い」と呼んだこの黄金の光こそが、私がこの世界で生きる唯一の理由になった。
「バルザーク公。その娘を殺してはならん。闇御門様が……陛下が、その娘を欲しておられる」
王都「月闇」から来た使者が、闇の中からそう告げた。 私は、遠い地平線――見えない「壁」の向こう側を見つめ、静かに誓った。
どんなに冷たい闇に染まろうとも、この手に残った黄金の熱だけは、決して手放さないと。
2.影の将としての道
「鑑定結果:雷闇。ただし……『光混じり』の忌み子として記録せよ」
その日から、私の運命は決まった。 私は愛される娘ではなく、夜国の軍事力を高めるための「生体兵器」として、より過酷な訓練へと放り出されることになったのだ。
「いいだろう。この光が、妹へ繋がる唯一の絆だというのなら」
私は、自分の内に宿る「黄金の針」を愛おしく思うようになった。 この光がある限り、私は妹を忘れない。 この不浄な雷を極め、いつかこの世界の境界を焼き切ってでも、私は「太陽の側」へ行く。
十数年後。 私は、夜国の最前線で「無音の死神」と恐れられる将軍へと成長していた。 その眼差しの先には、常に黄金の稲光が明滅する「黄昏時」があった。




