実りの秋に
「揚羽は妊娠していたんだよ。気づかなかった?」
揺れる車の中、さすがに産後ということもあって疲れたのか、揚羽はぐったりと横たわっている。二匹の虎は籠に入れられて枕元で寝ていた。暴れもせず、鳴きもせず、気味が悪いくらい大人しい。
揚羽は心配そうに、
「どっか悪いのかな……」
と目を離さなかったが、不二白はその都度優しく否定してやった。
自らが子を宿していることにも気づかずに、無茶なこともやった。水や食事を一日抜くことなどざらだった。思い返せば返すほど冷や汗が流れてくる。なにか悪い影響を与えたのだとしたら後悔してもしきれない。
「ぜんぜん、気づかなかった。腹も膨らまなかったし……」
「人の子じゃないんだからそんなに膨らんだりしないよ」
「でも、まさか五十年も腹にいるとは思わないだろ?」
口を尖らせつつも、その顔はどことなく柔らかい。子を産んだためだろうか、長年の重荷を下ろせたためだろうか、ただ単純に幸せを噛み締めているのか、揚羽はほんとうに久しぶりに主に心からの笑顔を見せた。
不二白は眩しそうに目を細める。
「年月は関係ないよ。子は、自分が生を受けるのにいちばん適した時を選んで生まれてくるんだからね」
「……ふうん」
揚羽はもうこのことに関して深く悩むのはやめてしまおう、と思った。己の常識では到底理解できそうにないし、過ぎ去ったことに興味がなくなるほど目の前のふたつの物体で頭がいっぱいだった。
今やうっすらと白い毛が生えているのがわかる。明らかに獣の子で、通常なら親子という感覚には至らないはずなのだが、揚羽に迷いはない。
「可愛い……」
ヒクヒク動く鼻、時おり掻くような仕草を見せる小さな腕、丸々としたお腹。
そっと指で撫でてみると、チロリと小さな赤い舌で舐められた。
「あっ、舐めた。舐めたぞ」
たったそれだけのことで破顔する環姫は、なるほどひどく愛らしかった。
「可愛いな……」
人型になれるのもその子次第なのだそうだ。だいたい5年以内には変化できると聞いた。
未来へつながる橋が、今はしっかりと形づくって揚羽を待っていた。
ひとりで放浪していたころからは想像もできない未来だ。
子を真似るように腕を伸ばすと、揚羽の主はなにも聞かず胸に受けてくれた。
「なあ、なんで来てくれたんだ?」
「揚羽が呼んだでしょ」
「俺?」
「そう、揚羽が呼んでくれた」
「え……でも、あんな……すぐに……」
問いは、すぐ舌に溶ける。
ゆっくりと下りてくる白い顔に、西の環姫は瞼を閉じた。
思い出はかつての芝生の海に飛び、緑の波が寄せる。あのときの真剣な眼差しの子どもは、今は少し成長したけれど瞳の輝きは変わっていない。
「もう戻っておいで」
「うん」
「もう、いいよね?」
「うん、うん……」
西にぼくの太陽が帰ってきた、と不二白は笑った。
聞きながら、揚羽は思う。お前こそ俺の……。しかし照れくさくてその先は続けられなかった。
代わりに出たことばは、未だ伝えられないでいる愛のことばですらない。
「なあ、今度は一緒に町の屋台に行こうぜ。すげーうまいから」
了