第1話 同窓会なんて、ぜってぇ行かねぇ
街灯の少ない暗い夜道を、足元を引きずるようにして歩いていた。
足元でカツン、ペタと不格好な音が鳴る。
足に馴染みきった安物のスニーカー。かかとはとっくに潰れ、すり減った靴底からはアスファルトの冷たさが直に伝わってくるほど薄くなっていた。
『履き慣れた一足』なんて言えば聞こえはいいが、現実は、新しい靴を一足買う数千円の出費すら惜しくて買い換える余裕がないだけだ。すり減った靴底は、そのまま俺のすり減った人生そのものだった。
腕時計の針はとっくに深夜を指している。
「クソが、時給いくらだと思ってんだよ。ミス押し付けて先に上がりやがって、死ねばいいのに」
昔はもっとマシな大人になってると思っていた。だが現実は深夜までのバイト三昧。俺より年下の店長にこき使われ、俺より年下のやつに見下されながら働くような大人になっていた。
世間の同年代がスーツを着て、出世だの結婚だのと浮かれている年齢で、俺は毎晩バイトの愚痴を垂れ流しながら夜道を這い回っている。どこで間違えたのか、気付けばこんな色あせた人生だった。
視界の先に、今夜も変わり映えのない我が家が見えてきた。
築四十年はとうに過ぎた二階建ての木造アパート。くすんだ外壁には無数のひびが走り、赤茶色に錆びついた鉄骨階段が、一段上がるごとにギシギシと悲鳴を上げる。
切れかけの共用灯がジジジと頼りなく点滅する薄暗い廊下。どこかの部屋から漏れるテレビの音を聞き流しながら、二階の一番奥にある自分の部屋の前に立った。
薄汚れたドアの郵便受けには、いつ放り込まれたのかも分からないピザ屋のチラシや水道修理のマグネットが、これでもかとパンパンに詰まっていた。
普段なら目もくれずにそのままドアを開けるところだが、これ以上は一枚も入らない限界を迎えている。
「……チッ、めんどくせぇな」
そろそろ引っ張り出さないと溢れるなと思い、乱暴に手を突っ込んで力任せに引っこ抜いた。
その瞬間、ギュウギュウに押し込まれていた紙束が破れ、バサバサと音を立てて薄暗い廊下に派手に散らばった。
「くそっ……! なんでこんな時に限って……!」
イライラを鬱憤ごと吐き散らしながら、深夜の廊下にしゃがみ込む。
膝をついて舌打ち混じりにチラシをかき集めていると、色とりどりの広告に紛れて、見慣れない一枚のハガキが指先に触れた。
「……なんだこれ」
散らばったチラシの山から、その一枚だけを拾い上げる。
印刷ではない。黒いボールペンで、一文字一文字まっすぐに書かれた手書きの文字だった。
『県立青葉台高等学校118期生 同窓会のご案内』
裏面に目を落とすと、そこにも几帳面な文字が並んでいた。
『佐藤、久しぶり。元気にやってるか?
卒業してからずいぶん経つけど、みんなで集まることになりました。
忙しかったり色々都合もあると思うから、無理はしなくて大丈夫。
でも、もし時間が合えば、ちょっとだけでも顔を見せてくれたら嬉しい。
会えるのを楽しみにしてるよ』
そして、末尾に記された差出人の名前。
「……佐々木、翔太」
ポツリと、その名前を口の中で転がした。それだけで、苦いものが喉の奥からせり上がってくる。
佐々木翔太。
高校時代、俺とは文字通り『真逆』の場所にいた男だ。
背が高く、爽やかな笑顔を絶やさず、サッカー部のエースで、男女問わず誰からも好かれていた学年の中心。
ただ目立つだけなら単なる調子乗りだが、佐々木は違った。テストの成績も常に上位で、先生からの信頼も厚く、誰に対しても分け隔てなく接する、絵に描いたような『いい奴』。
教室の隅で息を潜めていた俺のような陰キャにすら、廊下ですれ違えば「よっ、佐藤」と気さくに手を挙げてくるような男だった。
それが、たまらなく息苦しかった。
あいつの周りだけ世界が鮮やかに色づいていて、そいつに声をかけられるたび、自分がどれだけ惨めでちっぽけな存在かを思い知らされる気がしたのだ。
誰一人として輪の外に置き去りにしない、完璧なヒーロー気取り。
わざわざこんな底辺の俺にまで手書きでハガキを用意して、『俺は隅々まで気を配ってます』って自己満足に浸ってやがるのか。
「……相変わらず、いい人ぶるのが好きだな」
手書きの文字があまりにも丁寧で、あまりにもまっすぐで、胸の奥を容赦なくえぐってくる。
お前がチヤホヤされるための舞台に、わざわざ恥を晒しに行く義理なんてこれっぽっちもない。
「同窓会なんて、ぜってぇ行かねぇ」
吐き捨てるように呟いて、俺はハガキをクシャリと力任せに握りつぶした。
散らばったチラシを適当にかき集めて部屋に入ると、握りつぶしたハガキごと、部屋の隅にあるゴミ箱へ乱暴に放り込んだ。
◇
それから、数日が過ぎた。
相変わらずのバイト生活。相変わらずの暗い夜道。
すり減ったスニーカーでペタペタと情けない音を立てながら、俺は日付が変わった深夜一時過ぎ、変わり映えのない帰り道を歩いていた。
コンビニの明かりが見えてきて、重い足取りで自動ドアをくぐる。
今夜も晩飯はコンビニ弁当だ。冷やし中華と半額シールの貼られたおにぎりをカゴに入れ、ついでにドリンクコーナーへ向かう。
ペットボトルのお茶に手を伸ばした
――その瞬間だった。
トン、と隣から伸びてきた指先と、俺の指が触れ合った。
「あ、すみません」
澄んだ、落ち着いた女の声。
咄嗟に引っ込めた手越しに、隣の女性の横顔が視界に入った。
仕事帰りなのか、品のあるオフィスカジュアルに身を包んだ、艶やかな黒髪が印象的な綺麗な人だった。
その立ち居振る舞いと、ふとした声のトーンに、心臓が跳ねるような奇妙な感覚を覚える。
(……え?)
どこかで、こんなことがあった。
高校の購買だったか、あるいは自販機の前だったか。同じように手が触れ合って、慌てて引っ込めたあの感触。
――まさか、水野栞か?
高校時代、遠くから眺めることしかできなかった同級生の姿が脳裏をよぎる。
佐々木の幼なじみで、控えめだけど誰からも好かれていた、あの水野。
だが、女性は何事もなかったかのように軽く頭を下げると、お茶を一本取ってレジへと向かっていった。
「……んなわけねぇか」
自嘲気味に呟いて息を吐く。こんな夜中のコンビニに、あんな綺麗な同級生がいるはずがない。そもそも向こうは、俺の顔すら覚えていない赤の他人だ。
会計を済ませ、ビニール袋をぶら下げて自動ドアを出た。
そして、固まった。
駐車場を挟んだ歩道脇に、十人ほどの男女の集団が立ち止まっていたのだ。
スーツ姿や小綺麗な私服に身を包んだ、同世代の男女。二次会を終えて駅へ向かう途中なのか、少し酒の入った上擦ったトーンと、楽しげな笑い声が深夜の空気に響いている。
そして――その集団の中心に、さっきコンビニの中にいたあの女性が小走りで駆け寄っていくのが見えた。
「お待たせ、翔太。お茶買ってきたよ」
彼女はそう言って、買ったばかりのペットボトルを、輪の真ん中にいる男へと手渡した。
自然にそのお茶を受け取り、「ありがとな、栞」と柔らかく笑いかけたその男の横顔を、見間違うはずがなかった。
佐々木翔太だった。
高校の頃の面影をそのままに、大人の男として完璧に洗練された姿。
そしてその隣で、当たり前のように寄り添い、佐々木を見上げて微笑む水野栞。
ペットボトルを差し出す水野の左手と、それを受け取る佐々木の左手。
街灯の白い光を浴びて、ふたりの薬指で鈍く光るお揃いのシンプルな指輪が、遠目からでも残酷なほどはっきりと見えた。
――あいつ、佐々木と結婚したのか。
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
あの指輪の輝きが、網膜の奥に焼き付いて離れない。
幼なじみ同士、そのまま結ばれて、家庭を築いて、今もこうして幸せの真ん中にいる。
かつて自分が密かに憧れていた女の子は、学年一の人気者の隣で、眩しいほどの笑顔を浮かべている。
その周りには、今もあいつらを囲んで楽しそうに騒ぐ奴ら。
かたや自分は、かかとの潰れたスニーカーを履き、コンビニの安弁当をぶら下げて、夜道を一人帰るフリーター。
「……うわ、最悪だ」
胃の底が焼き切れるような惨めさと、吐き気を催すほどの敗北感。
息が詰まりそうになり、俺は彼らに気づかれないよう、背を向けて早足で暗闇へと逃げ出した。
すり減った靴底が、アスファルトを乱暴に擦る。
暗い夜道をただひたすら歩きながら、胸の奥に溜まったヘドロのような感情が、喉の奥から溢れ出そうになっていた。
なんで俺とあいつで、こんなにも違うんだ。
同じ高校に通って、同じ教室にいたはずなのに。
「……もし、もう1回やり直せるならさ」
誰もいない暗闇に向かって、絞り出すような独白が零れ落ちる。
「あいつになりてぇよ。佐々木みたいな人生を、歩んでみたかったよ……」
その直後だった。
背後から、鼓膜をつんざくような激しいスキール音と、けたたましいクラクションが響いた。
暗闇を一瞬で昼間に変えるような、暴力的な白い閃光。
え――?
振り返る暇などなかった。
凄まじい衝撃が身体を真横から薙ぎ払い、骨が砕ける鈍い音が脳内に響き渡る。
視界が上下左右めちゃくちゃに反転し、冷たいアスファルトへと叩きつけられた。
(あぁ……俺、死ぬのか)
視界が急速に黒く染まっていく。
痛いのか熱いのかすら分からないまま、何一つ残せなかった自分の人生への虚しさだけを抱えて、意識は底のない闇へと沈んでいった。
◇
「あ、あの……!」
ふっと、意識が浮上した。
死んだはずの身体に、生温い空気と、強烈な光が差し込んでくる。
全身を襲っていたはずの激痛は、跡形もなく消え去っていた。
「……っ?」
息を呑んで目を開けると、そこは道路でも病院でもなかった。
薄暗い建物の影――どこかの見覚えのある学校の、校舎裏だった。
湿った土の匂いと、吹き抜ける初夏の風。遠くのグラウンドから、運動部の掛け声が小さく響いている。
そして――俺の目の前には、一人の女子生徒が立っていた。
制服のスカートを両手でぎゅっと握りしめ、耳まで真っ赤にして俯いている。明らかに下級生とおぼしき小柄な女の子だった。
「返事は……返事は、いつでもいいので……っ!」
彼女は震える手で、桜色の小さな封筒を俺の胸元に無理やり押し付けた。
紙の擦れる感触と、微かに漂う甘い香水のような匂い。
「え、あ、ちょっ……」
三十手前のやさぐれた脳みそが完全にフリーズしている間に、女の子は「失礼しますっ!」と叫び、校舎の角へと走り去っていってしまった。
手元に残された、小さなハートのシールで留められた手紙。
「……は? なんだこれ……夢か……?」
呆然と立ち尽くす俺の背後から、不意にけらけらとした甲高い笑い声が降ってきた。
「あはは! おーおー、佐々木ぃ。やっぱ相変わらずモテんねー」
バシィッ、と遠慮のない力で背中を叩かれる。
痛みに顔をしかめながら振り返ると、そこには短く折ったスカートに、着崩したシャツ、明るい茶髪に派手なストラップをジャラジャラつけたスクールバッグを持った女子生徒が立っていた。
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて、こちらを覗き込んでくる。
(……かつてのクラスメイト、星野莉子だ)
記憶の引き出しが乱暴に開けられる。間違いない。高校時代、教室の真ん中でいつも騒いでいたギャルだ。
なんでこいつが、高校の制服を着て目の前にいるんだ?
いや、それ以前に――今、こいつは何て言った?
訳の分からない混乱に呑まれる俺の耳に、キーンコーンカーンコーンと、間の抜けた予鈴のチャイムが響き渡った。
「ほら、そろそろホームルーム始まっちゃうよー? いい子ちゃんが遅刻したら大変じゃーん」
星野はおちょくるように笑いながら、俺の腕を強引に引っ張って歩き出す。
昇降口を抜け、階段を上がり、二階の廊下を進んでいく。
その途中で、ふと視線が廊下の窓ガラスをかすめた。
初夏の強い日差しに反射したガラスの表面に、自分の姿がくっきりと映り込んでいる。
そこにいたのは、無精髭の生えたくたびれた三十男ではなかった。
すらりと伸びた長身、引き締まった身体、端正な顔立ちと、少し汗で額に張り付いた爽やかな茶髪。
「……嘘だろ」
出た声は、自分のものより少し低く、驚くほどよく通る声だった。
俺が、高校時代の佐々木翔太になっている……!?
「ちょっと佐々木、何ぼーっとしてんの? 早く入んなよ」
星野が前方の引き戸をガラリと開けた。
プレートに書かれた『二年三組』の文字。
「おはよー!」
「お、佐々木ー! 朝練お疲れ!」
「翔太、今日放課後どうするー?」
教室に足を踏み入れた瞬間、四方八方から当たり前のように親しげな声が飛んでくる。
誰もが笑顔で、誰もがこちらを見ている。教室の主役、世界の真ん中。かつて俺が一度も味わったことのない、眩しすぎる世界の中心。
だが。
飛び交う声に圧倒されながら、俺はふと、視線を教室のいちばん後ろへと向けた。
窓際から遠く離れた、薄暗い廊下側の隅の席。
――かつて、俺自身が座っていたはずの場所。
そこには誰もいなかった。
完全なる空席。
(……いない?)
俺の身体はどこへ行った?
世界から消えたのか? それとも、俺は最初から存在しなかったのか――?
「ちょっと翔太、ぼーっとしてないで席着きなよー」
背後から掛けられる声に、背筋を冷たい汗が伝った。
俺は本当に、あいつになっちまったのか――?
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!
「続きが気になる!」「面白そう!」と思っていただけたら、
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さてさて、佐藤の身体は一体どこへ?佐々木に成り代わった先にあるものとは?
次回もよろしくお願いいたします!




