第13話「晶が鳴った日」
力環から連絡が来たのは、検査を受けた3日後だった。
放課後。
教室で帰り支度をしていると、スマートフォンが震えた。
画面に表示されたのは、前回わたしを担当した研究員の名前だった。
『追加検証についてご相談があります。ご都合のよい日にお越しいただけますか。』
その一文を読んでいるあいだに、もう一つ通知が増えた。
今度は夜也。
『聞いた?』
早い。
『何をですか』
送る。
ほとんど待たずに返信が来た。
『追加検証』
『今連絡が来ました』
『ぼく協力することになった』
少しだけ手が止まった。
『どうして夜也さんが』
『ぼくの晶で試すから』
『聞いてません』
『今聞いたじゃん』
そういう意味ではない。
『誰が決めたんですか』
『力環とぼく』
『わたし抜きで?』
今度は少しだけ間が空いた。
『そこはごめん』
続けて。
『なぎが嫌ならやらないよ』
それなら最初から、と思う。
でも、夜也が勝手に日程まで決めていたわけではないらしい。
研究員からの連絡も「相談」になっている。
『何をするんですか』
『晶出す』
『それだけ?』
『まずは』
嫌な予感がする言い方だった。
『危なくないんですか』
『出力めちゃくちゃ落とす』
『夜也さん基準で?』
『信用ないなあ』
『Aランク上位なので』
『褒めてる?』
『警戒してます』
しばらくして、
『それでいいよ』
と返ってきた。
妙に素直だった。
結局、その週の土曜日に力環へ行くことになった。
母も同行すると言ったけれど、前回の検査で危険がないことはある程度わかっていたし、今回は途中から仕事があるらしい。
「本当に大丈夫?」
車へ乗る前まで聞かれた。
「嫌になったらやめます」
「夜也さまがいても?」
「むしろ夜也さんだから言えます」
そう答えると、母は何とも言えない顔をした。
「あなた、本当に夜也さま相手だと遠慮がなくなったわね」
「嫌なら言っていいって本人が言ったので」
「……そう」
それ以上は言われなかった。
力環へ着く。
前回と同じ受付を通り、研究棟へ向かう。
案内された部屋へ入ると、夜也はすでにいた。
「なぎ」
こちらに気づいた瞬間、長い脚で近づいてくる。
「おはよう」
「こんにちは」
「今日それなんだ」
最初に服を見られた。
黒いワイドパンツと、白いシャツ。
最近ほとんどこの系統ばかり着ている。
「それって何ですか」
「その服好きだよね」
「好きなので」
「いいじゃん」
夜也が満足そうに頷く。
「で、体調は?」
「普通です」
「肩は?」
「治りました」
「ほんと?」
「触らないでくださいね」
肩へ伸びかけた手が止まった。
「まだ何もしてないじゃん」
「しそうだったので」
「警戒されてる」
笑っている。
「慈さん」
奥から研究員の女性が声をかけた。
「遊びに来たわけではありませんので」
「わかってるって」
夜也は答えながら、素直にわたしから離れた。
今日は前回より広い部屋だった。
中央に何も置かれていない空間があり、床には円形の目印がいくつかついている。
壁際には観測装置。
透明な仕切り。
万が一に備えているのだろう。
「本日の検証について説明します」
研究員に促され、椅子へ座る。
夜也は隣に座ろうとした。
「慈さんはこちらです」
「なんで」
「実験者側です」
「隣じゃだめ?」
「だめです」
「はーい」
少し離れた席へ行った。
わたしより研究員のほうが夜也の扱いに慣れているように見える。
「前回、水守さんは模擬防壁には一切反応を示しませんでした」
「はい」
「一方、学校で発生した暴走現象に対しては、接触前から周期変化が記録されています」
前回見た映像がモニターへ表示される。
「現時点で考えている条件は複数あります。暴走状態にだけ反応する。特定の遺能系統に反応する。水守さんの心理状態が関係している。あるいは、対象側の出力規模が一定以上必要である」
「それで夜也さん?」
「はい」
研究員が頷く。
「慈さんの『晶』は、観測データが非常に豊富です」
横を見る。
夜也が軽く手を振った。
「何年も調べられてるからね」
「比較できるデータが多いということです。また、慈さんは出力をかなり細かく調整できます」
「かなり?」
「めちゃくちゃ」
本人が答える。
研究員は無視して続けた。
「低出力から段階的に上げられるため、水守さんの反応に閾値があるか確認できます」
「もし何かあったら?」
「すぐ中止します」
「痛い可能性は?」
「現時点では否定できません」
正直だった。
「学校では腕に痺れが出ていますので、異常を感じた時点で必ず申告してください」
「わかりました」
夜也が口を挟む。
「なぎ、ほんとに我慢しないでね」
「わかってます」
「痛かったら痛いって言う」
「はい」
「怖かったら怖い」
「はい」
「嫌なら嫌」
「わかってます」
「よし」
「夜也さんが確認することじゃないでしょう」
「大事だから」
研究員が小さく笑っている。
検証が始まった。
最初にわたしだけが中央の印へ立つ。
身体に簡単なセンサーをつけられた。
心拍。
筋活動。
体表の電位。
そして遺能反応を拾うための観測器。
何もしていない状態では、当然何も出ない。
「では、慈さん」
「了解」
夜也が数m先へ立つ。
いつもの軽い表情が少し変わる。
姿勢は大きく変わらない。
でも、仕事をしているときの顔になった。
「まず最低出力から」
「うん」
夜也が右手を軽く上げる。
空中に、小さな結晶が現れた。
親指ほどの大きさ。
透明に近い青。
光を受けて、内部に細い線が走っているように見える。
「これが最低なんですか」
「もっと小さくもできるよ」
「じゃあ最低じゃないじゃないですか」
「見えないとつまんないでしょ」
「慈さん」
「ごめん」
研究員に止められる。
結晶は動かない。
わたしも何も感じない。
「距離、4m。変化なし」
研究員が記録する。
「水守さん、何かありますか」
「何も」
「では3mまで」
一歩ずつ近づく。
3m。
何もない。
2m。
まだ何も。
「出力を上げます」
結晶が少し大きくなった。
親指大だったものが、手のひらに乗るくらいになる。
形も複雑になる。
いくつもの面が光を反射する。
「どう?」
夜也が聞く。
「何もないです」
「残念」
「残念がらないでください」
「だって鳴ったら面白いじゃん」
「何が鳴るんですか」
「わかんない」
適当に言ったらしい。
研究員が呆れた顔をする。
「次、1.5m」
近づく。
まだ。
「1m」
一歩進む。
その瞬間。
ほんの少し。
何かを感じた。
「待って」
自分から言う。
全員が止まった。
「どうしました」
「……何か」
言葉を探す。
「昨日のとは違います」
「どんな感じ?」
「わからない」
夜也の結晶を見る。
透明で。
綺麗で。
静か。
でも。
「こっち」
左手を胸の前へ上げる。
「ここが、ちょっと変です」
「痛みは?」
「ないです」
「痺れ?」
「それもない」
研究員がモニターを見る。
「生体反応、大きな変化なし。遺能反応も……」
途中で止まる。
「何ですか」
「微弱なノイズがあります」
「なぎの?」
夜也が聞く。
「判別できません。慈さん、現状維持」
「了解」
わたしは結晶を見る。
さっきまでただの綺麗な物体にしか見えなかった。
今は、少し違う。
何かがある。
学校の膜に触れたときほど明確ではない。
でも。
細い。
細い糸のようなものが。
結晶と自分の間に張っているような。
「もう少し近づいても?」
聞く。
「水守さんがよければ」
「はい」
「50cmずつにしましょう」
半歩。
距離が縮まる。
そのとき。
結晶が震えた。
ほんのわずか。
見間違いかと思った。
「今」
夜也も気づいた。
「動いたよね」
「慈さんは操作しましたか」
「してない」
夜也の声から笑いが消えている。
研究員が記録を見る。
「結晶表面に微振動」
「どのくらい?」
「通常制御の範囲外です」
「へえ」
夜也の口元が上がった。
「もうちょっと近づいてみよ」
「慈さんが決めないでください」
「はーい」
研究員がわたしを見る。
「続けますか」
「はい」
もう半歩。
今度は。
見えた。
結晶全体が、細かく震えている。
震えているというより。
鳴る直前のガラスみたいだった。
「……揺れてる」
「うん」
夜也も見ている。
「ぼく、何もしてないよ」
少しだけ興奮した声。
「出力は安定しています」
研究員が言う。
「制御側に乱れなし。それなのに結晶側だけ微振動が増加」
「そんなことある?」
「通常はありません」
もう少しだけ近づく。
距離は1mを切っている。
胸の奥。
指先。
どこか一か所ではない。
身体の内側が、ごく細かく揺れているような感覚がある。
痛くはない。
怖くもない。
ただ。
知っている。
この感じ。
学校で膜に触れたときとは違う。
あれは乱れていた。
ばらばらだった。
今は。
きれいだ。
「……合ってる」
無意識に口から出た。
「何が?」
研究員が聞く。
「わかりません」
「さっきの事故のときは『ずれている』と言っていましたね」
「はい」
「今は?」
結晶を見る。
「合ってます」
「何と?」
わからない。
でも。
「夜也さんの晶は、ちゃんとしてる」
一瞬、静かになった。
夜也が笑った。
「なにそれ。嬉しい」
「褒めてるのかわかりません」
「ぼくは褒められたことにする」
その瞬間だった。
きん。
澄んだ音がした。
全員が止まる。
小さい。
でも、はっきり聞こえた。
ガラスの縁を濡れた指でなぞったときのような。
金属とも。
鈴とも違う。
透明な音。
「……今の」
わたしが言う。
夜也が結晶を見る。
「ぼくじゃない」
きん。
もう一度。
今度は少し長い。
結晶の内部で細かな震えが重なり、音になっている。
研究員がモニターへ身を寄せる。
「振動数が揃ってる」
「揃ってる?」
「さっきまで不規則だった微振動が、一定周期に収束しています」
「それって」
「共鳴に近い」
その言葉が、部屋へ落ちる。
共鳴。
わたしは結晶を見る。
きん。
また鳴る。
今度は不思議と、音が出る少し前にわかった。
「来る」
言った直後。
きぃん。
少し高く、長い音。
夜也の表情が変わった。
「なぎ」
「はい」
「今、鳴る前にわかった?」
「なんとなく」
「なんとなくで当てたの?」
「たぶん」
「すごいね」
夜也が一歩近づこうとする。
「慈さん、動かないで!」
研究員に止められた。
「はい」
素直に止まる。
珍しい。
「水守さん。そのまま手を出してみてください」
「触るんですか」
「まだ触れません。近づけるだけ」
右手を伸ばす。
結晶との距離。
30cm。
きん。
20cm。
音が少し強くなる。
10cm。
結晶の表面が目に見えて震えた。
夜也は完全に笑っている。
「めちゃくちゃ鳴るじゃん」
「嬉しそうですね」
「嬉しいよ。ぼくの晶こんな音するんだ」
「今までしたことないんですか」
「ない」
即答。
「衝撃で鳴ることはあるけど、これは違う」
夜也が結晶を見つめる。
「勝手に震えて、勝手に鳴ってる」
「止められます?」
「たぶん」
夜也が少し指を動かす。
結晶の形が変わる。
震えが止まった。
音も消える。
「制御による強制停止を確認」
研究員が記録する。
「もう一度同じ出力で展開を」
「了解」
新しい結晶が生まれる。
今度は細長い六角柱。
音はしない。
わたしも少し離れている。
「水守さん、一度下がってください」
元の位置へ戻る。
4m。
何もない。
3m。
何も。
2m。
結晶の先端が、ごくわずかに震えた。
1.5m。
細かな振動。
1m。
きん。
「再現した」
研究員の声が少し上ずった。
「もう偶然とは考えにくいですね」
胸の奥がざわつく。
「わたしが?」
「現時点では、水守さんの接近と高い相関があります」
「でも、前回の防壁では」
「反応しなかった」
「はい」
「条件があるのでしょう」
研究員は画面を見ながら言う。
「出力規模か。遺能そのものの性質か。対象の制御精度か。それとも、水守さんが無意識に何かを選んでいるのか」
「選んでる?」
「反応する対象を」
「そんな感覚ないです」
「でしょうね」
夜也が口を挟む。
「ぼくの出力上げてみる?」
研究員が少し迷う。
「一段階だけ」
「了解」
「水守さん、何か異常があればすぐに」
「はい」
夜也の表情が少し変わる。
空気が重くなった。
目の前の結晶が大きくなる。
一本だったものが枝分かれし、幾何学的な構造を作る。
綺麗。
そう思うより先に。
身体の奥が反応した。
「……っ」
指先が痺れる。
「止めますか」
「まだ大丈夫です」
結晶が震える。
さっきより強い。
きん。
きぃん。
音が重なる。
一つではない。
枝分かれした結晶のそれぞれが、わずかに違う高さで鳴っている。
なのに。
不快ではない。
むしろ。
「きれい」
思わず言った。
「でしょ?」
夜也がすぐ返す。
「夜也さんじゃなくて音です」
「晶はぼくのだから一緒」
「違うと思います」
返しながらも、視線を外せない。
いくつもの音が重なっている。
でも、ばらばらではない。
どこかで揃っている。
学校の膜とは正反対だった。
あれは、乱れていた。
これは。
整っている。
なのに、わたしが近づくことでさらに何かが重なる。
夜也の晶が。
わたしの近くで。
別の音を持つ。
「なぎ」
夜也の声。
「はい」
「手、もう少し」
研究員を見る。
頷かれた。
ゆっくり伸ばす。
結晶まで。
あと数cm。
その瞬間。
きぃん――。
今までで一番長い音が響いた。
部屋全体へ広がる。
空気まで震えるような、澄んだ音。
腕に痺れが走る。
でも、学校のときとは違う。
痛くない。
むしろ。
自分の中から何かが引き出されているような。
身体の内側にある細い振動が、結晶へ移って。
また返ってくる。
「……変」
呟く。
「何が?」
「戻ってくる」
「何が」
「わかりません」
結晶へ触れてはいない。
でも。
「わたしから行って、晶から戻ってくる感じ」
研究員がすぐ記録する。
「循環感覚?」
「たぶん」
「慈さん、出力維持」
「してる」
夜也も珍しく真面目だった。
「ぼく側からもわかる」
研究員が顔を上げる。
「何がですか」
「いつもより軽い」
「制御が?」
「うん」
夜也が自分の手を見る。
「出力は同じなのに、形を保つのが楽」
「増幅?」
「わかんない。でも、晶が勝手にぼくの意図へ寄ってくる感じ」
研究員の手が止まる。
「水守さん」
「はい」
「手をゆっくり下げてください」
言われた通りにする。
距離が離れる。
音が弱くなる。
さらに離れる。
細かな震え。
2mを越えたところで。
完全に止まった。
部屋が急に静かになった。
夜也の晶だけが、何事もなかったように空中へ浮かんでいる。
「……止まった」
「はい」
研究員がデータを確認する。
「出力そのものは、最初から最後まで慈さんの設定値からほぼ変動していません」
「じゃあ増えてない?」
「少なくとも総出力は」
「でも制御感覚は違った」
「そこが重要です」
研究員が画面を切り替える。
複数の波形が表示される。
「晶を構成している細かな出力のばらつきが、水守さんの接近とともに減少しています」
「整った?」
わたしが聞く。
「そう表現していいと思います」
学校の事故を思い出す。
「あの膜は、逆でした」
「はい」
研究員も同じことを考えたらしい。
「あちらは乱れました」
「今日は整った」
「正確には、学校ではすでに暴走していた波形へさらに別の揺らぎが入り、結果として構造が維持できなくなった。今日は安定した慈さんの晶へ揺らぎが入り、その揺らぎが既存の周期と一致して、より揃った」
言葉が難しい。
「つまり?」
夜也が聞く。
「水守さんの反応が、対象を単純に壊すものではない可能性があります」
研究員がモニターを見る。
「相手の状態によって、崩すこともあれば、整えることもある」
少し静かになる。
「そんな遺能あるんですか」
わたしが聞く。
「似た性質のものはあります」
「同じものは?」
「現時点では、私は知りません」
またわからない。
でも、前回より一つ進んだ。
偶然ではない。
少なくとも。
夜也の晶は、わたしが近づくと鳴った。
それも二度。
距離によって変わった。
出力を上げれば反応も強くなった。
「もう一回やろうよ」
夜也が言った。
「今日はここまでです」
「えー」
「水守さんに痺れが出ています」
「あ」
夜也がすぐこちらを見る。
「まだ痺れてる?」
「少し」
「じゃあやめよ」
切り替えが早い。
「もっとやりたいって言ったの夜也さんですよ」
「なぎ痛いなら別」
当たり前のように言う。
研究員が小さく笑った。
「慈さん、晶を解除してください」
「はいはい」
夜也が指を動かす。
大きな結晶が細かな光になって消える。
その瞬間。
胸の奥にあった細い振動も、すっと消えた。
「……なくなった」
「何が?」
「さっきの感じ」
「晶が消えたから?」
「たぶん」
研究員がまた記録する。
その後、腕の状態を確認される。
異常はなかった。
休憩を挟みながら、結果について説明を受ける。
「現状、三つのことはかなり確度が高いと思います」
研究員が指を一本立てる。
「一つ。水守さん自身が単独で何らかの現象を発生させる反応は、今のところ確認できない」
二本目。
「二つ。他者の遺能現象が一定条件を満たすと、水守さんの近距離で特有の変化が起きる」
三本目。
「三つ。その変化は常に同じ結果を生むわけではない。昨日の事故では不安定化。今日の晶では、むしろ安定化と共鳴に近い現象が起きた」
「共鳴」
またその言葉。
夜也が楽しそうに繰り返す。
「いいじゃん。かっこいい」
「まだ正式なものじゃありません」
研究員が釘を刺す。
「名称をつける段階ではありません」
「わかってるって」
絶対に何か考えている顔だった。
「なぎ、何がいい?」
「何がですか」
「名前」
「まだ決めないって言われたでしょう」
「仮名だよ」
「いりません」
「『響』とか」
「いりません」
「『共鳴』」
「そのままじゃないですか」
「『晶がなぎの近くでめちゃくちゃいい音出す現象』」
「長いです」
研究員が笑いを堪えている。
「夜也さん」
「なに?」
「遊んでます?」
「半分」
「半分なんですね」
「もう半分は本気」
夜也はまだ少し遠くに立ったまま、こちらを見る。
「だって、すごかったよ」
さっきまでの軽い声より少し落ち着いている。
「ぼく、自分の晶のことかなり知ってるつもりだったんだけど」
「はい」
「あんな音、初めて聞いた」
夜也が自分の手を見る。
「20年以上ぼくの力なのに、なぎが近づいたら知らない顔した」
その言い方が、少しだけ胸に残った。
自分のものなのに。
自分の知らない顔。
それは、わたしにもよくわかる。
「……わたしもです」
「ん?」
「自分の身体なのに、まだ知らないことばっかりなので」
夜也がこちらを見る。
さっきまで笑っていた顔が、少し静かになる。
「そっか」
「はい」
「じゃあ同じだね」
「何がですか」
「知らなかったもの見つけた」
簡単に言う。
でも。
それでいいのかもしれない。
怖いもの。
異常なもの。
そう考えることもできる。
でも、まだ何なのかわからない。
なら。
知らなかったもの。
今は、そのくらいでいい。
検証が終わり、センサーを外してもらう。
部屋を出ようとしたところで、夜也が隣へ来た。
今度はちゃんと近づきすぎない位置で止まる。
「なぎ」
「はい」
「今日の音、録音してあるかな」
「何でですか」
「欲しい」
「何に使うんですか」
「聞く」
「そのままですね」
「だって綺麗だったじゃん」
「晶の音ですよ」
「なぎがいないと鳴らない音」
そう言われると、少しだけ返しづらい。
「研究用のデータでしょうから、勝手にもらえないと思います」
「聞いてみよ」
「本当に欲しいんですね」
「欲しいよ」
夜也は迷わない。
「あれ、ぼくとなぎが一緒にいないと鳴らないんでしょ?」
「今のところは」
「じゃあレアじゃん」
「そういう問題ですか」
「ぼくにとっては」
夜也は楽しそうだった。
まだ恋愛というより。
珍しいものを見つけた子どもに近い。
でも。
自分と誰かが揃わないと生まれないものを、こんなに嬉しそうにされるのは少し不思議だった。
廊下を歩く。
窓の向こうは晴れている。
「次の検証もぼく呼んでよ」
「わたしが決めるんですか」
「決められるなら」
「他の人でも試すでしょう」
「わかってるけど」
夜也は少し不満そうにする。
「最初はぼくだったじゃん」
「事故の人が最初です」
「そこはノーカン」
「勝手ですね」
「うん」
否定しない。
エレベーターの前で止まる。
「でもさ」
「はい」
「今日ので、ちょっと安心した」
意外な言葉だった。
「何が」
「昨日までは、なぎが他人の遺能を壊すだけの可能性もあったでしょ」
「そうですね」
「でも違った」
夜也が笑う。
「ぼくの晶、むしろ調子よくなったし」
「まだ一回だけですよ」
「二回鳴った」
「そういう数え方じゃなくて」
「あはは」
エレベーターが来る。
扉が開く。
中へ入る。
夜也も乗る。
「ねえ、なぎ」
「何ですか」
「もう一回聞きたいな、あれ」
「研究員さんに言ってください」
「そうじゃなくて」
夜也が少し考える。
「また、ぼくの晶鳴らしてよ」
わたしは夜也を見る。
「わたしが鳴らし方知ってると思います?」
「知らない」
「じゃあ無理です」
「そのうちわかるでしょ」
「簡単に言いますね」
「だって今日できたんだから」
その楽観的なところは、少し羨ましい。
わたしは自分の左手を見る。
もう痺れはない。
何も起きない。
普通の手。
でも今日は。
この手が触れるより前に。
わたしが近づくだけで。
慈夜也の「晶」が震えた。
細かく。
規則正しく。
そして。
澄んだ音で鳴った。
教室の事故では、暴走していた力が崩れた。
今日は、安定していた力がさらに整った。
同じものなのか。
別の現象なのか。
まだ誰にもわからない。
ただ一つだけ。
わたしの中に何かがある。
その可能性は、もう無視できないところまで来ていた。
エレベーターを降りる。
少し前を歩く夜也の背中を見る。
長い脚。
大きな背中。
いつも通りの、よく喋る晶守家当主。
その人が不意に振り返った。
「なぎ」
「はい」
「今日、ぼくの晶きれいだった?」
「普段の晶をよく知らないので比較できません」
「そういうことじゃなくて」
少し考える。
さっきの音を思い出す。
透明な結晶。
光。
いくつもの澄んだ音。
「……綺麗でしたよ」
答える。
夜也が満足そうに笑った。
「でしょ?」
「夜也さんを褒めたわけじゃないです」
「ぼくの晶だから、半分ぼく」
「まだ言うんですか」
「あはは」
その笑い声を聞きながら、わたしは少しだけ思った。
あの音を。
もう一度聞きたいかもしれない。
理由は、まだよくわからない。
でも。
晶が鳴ったあの瞬間だけは。
自分の中にある知らないものを、少しだけ怖くないと思えた。




