確固たる事実
遥か先の未来からやってきたアンドロイドが私に語りかける。
「少し前まで,君の右手がテザーアームになっていた気がするのだが」
「私たちの曖昧なつながりに、身体が引っ張られただけだ。元に戻ったいま気にすることではない」
「君はいつでも強靭だな」
賞賛の言葉に気を良くする場面だ。しかし……。アンドロイドは首をかしげると、屈み込んで私の肩に左手を置いた。
「ただ君の生命兆候は非定常で,動揺が疑われる.そうやって鏡樹の幹にしがみついている理由は他にあるのかね」
「貴様、私たちがいまどこにいるのか分からんのか」
私が首を上向かせると、同じ太枝に乗るアンドロイドが追従する。鏡樹の滑らかな幹に沿う視線は、暗い枝葉を通り抜けて登り、やがて根元から混沌の底へと吸い込まれていった。
「まさか,この倒立像は錯覚ではないのか!?」
視線を横に切れば、古代森の間隙にかすれ散る昼光が、夜の外側をなぞる。薄く延びた遠像を追うように、首をおそるおそる足下へと向ける。裏向く枝葉の隙間から、黒く白く滲む混沌の空へと情景が落ちて、落ちて、落ち……ッッ!!
目をきつく閉じた。幹にしがみつく両腕に力を込めた。太枝に這わせた両脚にも。
「――うわぁあああ!!!」
背後で脚を踏み外して空へ落ちていくアンドロイド。その無様な叫びを聞きながら、浅い息を吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いて、どうにか、整える。
……認めねばなるまい。私は高所を恐れている。くそっ、有能な魔術師である私にも不得手があったとはな。
何度目かの深呼吸の後、私の肩に置かれたままのテザーアームを介して宙舞いを詠唱し、アンドロイドを引き上げた。
「私に落下を感じさせるな! さっさと姿勢制御スラスタを使っていれば済んだ話だ」
「申し訳ない.演算資源不足で調整に手間取ったものでね.この通り,もう大丈夫だ」
魔術の補助なしで宙に浮くアンドロイドは、こわばる私の身体にシートベルトを回した。肩と腰をわたるテザーはきつく回った腹部にて用具で合流し、アンドロイドの身体へとゆるく繋がっている。
「この私と繫がる限り,君が落下することはないだろう」
「良い働きだ.これでようやく行動できる」
単純な移動ひとつとっても、逆向きの森で枝々を跳び移るなどできるわけがない。考えるだけでも身がすくむ。大地のない時空での行動は、アンドロイドの姿勢制御スラスタと私の完成された宙舞いを組み合わせることではじめて実現する。
アンドロイドは暗い夜の森を見渡すと、両腕を混沌の頭上に開こうとし、あわてて白霞む足下へと降ろし直した。
「まさか天地まで逆転するとはね.重力の法則がめちゃくちゃだぞ.まったく,なんて領域だ」
「貴様は知っているはずだ。領域は球面に整備されているとな。私たちがいる時空は、テータ紀とセト紀の原初時代、昼光の届かない下半球に位置する。よく見てみろ」
鏡樹の幹を爪先で剥ぐようにして開発ノートを生成し、ページを示した。
原初時代は、紀元0年を中心として、紀元前1年から紀元1年の、あるいは紀元前i年から紀元i年の合間。歴史の影に埋もれるように下半球に広大がっている。明確に歴史書に載る上半球とは、天地が逆の関係だ。
自ら詠唱した魔術の効果だというのに、アンドロイドは露骨にため息を吐いて首を横にふった。
「開闢から1年以内にこんな巨樹が存在するのは“原樹”の公理として認めよう.しかしだね,天地が逆になっているなら私たちが乗るこの鏡樹だって根こそぎ落っこちて――」
まくし立てる口ぶりが途絶える。絶句した顔の前に、りらひりらひと舞い上がってきた。鏡樹の菱葉が、ほとんど静止しながらも。
細い指先でつまんだ菱葉をくまなく観察して首をかしげる。手放せば、ゆっくりと揺れながら世界の底へと再び昇り始めた。
「――落ちる向きが,私たちと逆だ」
「フン、少しは混沌に目が慣れてきたか」
アンドロイドは瞬きをしながら、焦点を遥かなる下空に合わせる。
「奇妙だ.よく見たら,私たちと同じ向きに落ちる生物もいるようだぞ」
「未来の古代森にはモンスターがいなかった。原初時代に空に落ちていたからだと言えるな」
天頂よりわずかに昇る光は、空へと落ちるフェンリルやフォボスの、ほとんど静止した姿を照らしていた。私の両目ではもはや伸びたその影を捉えるのが限界だが、アンドロイドには四肢に生える銀の毛先ひとつさえ、岩身に生える柔らかい苔のひとつさえも視えることだろう。
舞い上がる葉々と落ち下がるモンスター達。順逆に視線を泳がせたアンドロイドの見解を、目配せで促す。
「この空間では,私たちとモンスターだけ,天地が逆転している」
「その通り。では、私たちとモンスターを比べるとどうだ」
さらなる考えを呼び込むため、私から意見を出そう。
「違いが1つ。私たちは時空亜の魔術で“時空差”を補正することで、原初時代を自由に動いている」
「違いの2つ目,私たちはモンスターと異なり落下状態にない.これらの違いは,次の確固たる事実を示している.すなわち――」
アンドロイドは間を取り、強い眼差しと声色で続けた。
「原初時代の強大なモンスターよりも,私たちの方が有能であるというワケだな」
「実にその通りだ」
同じ方向へと導かれた思索に深くうなずく。
この領域の原初には、まず鏡樹の森があった。そして、森への侵入者を排除するように世界魔術が詠唱されている。原初の術力により生まれるはずの強大なモンスターは、世界魔術により虚空へと消えていたことがみてとれる。
異なる領域からやってきた私たちも、この世界魔術の対象だ。時空差による若返りでの足止め、時間の加速による押し流し、あげくの果てには私たちの天地を逆転させての振り落としまで。
だが、原初の術力に頼るモンスター共と異なり、私たちは有能である。
この確固たる事実が突破口だ。繰り返して強調しておくべきだろう。
「私たちを排除するように世界魔術が詠唱されている。しかし私たちは極めて有能であり、当然排除されない。つまり……」
先ほどのアンドロイドと同じように言葉を区切り、黒きローブを大きく翻して宣言する。
「この領域の世界魔術には重大な不備がある。《禁忌魔術》だ」
「実にその――《禁忌魔術》とは何だい?」
アンドロイドは先ほどの私と同じ動作で返そうとして、がくりと片膝を崩した。
「旧ブラダリアの繁栄を望みながら滅亡させた《エコシード》のようなものだ。開発不備で目的にそぐわない大魔術は、《禁忌魔術》となる」
「私たちは排除されないから,排除しようとする世界魔術の方が間違っている.そのような世界魔術は《禁忌魔術》.なるほどな.私もこの領域の自然法則には無理があると思っていたところだ」
新奇な領域とはいえ、世界魔術が《禁忌魔術》では大問題だ。私が拝した国務、旧ブラダリア領域の古代森復元は、この領域の古代森の一部を転移させることで達成する。禁忌を持ち込むなどあってはならない。
時空亜で補正できる領域内の“時空差”は捨て置くとしても、面倒な時間の加速や天地の逆転……私たちだけが探索可能な古代森を復元してどうするというのだ。国務の達成をもって我が国に轟く私の有能さは、そんな心半分なものではない!
同じ所に思索が至ったであろうアンドロイドの手が、私の握り拳をほどいた。
「君ほどの有能な魔術師であれば,世界魔術が抱える不備の解消法まで考えを巡らせているはずだ」
「フフン、当然だな」
開発ノートをめくる。この私が、ただ貴様が戻ってくるのを待っていた……とは思わんだろう。アンドロイドが魔術への理解を深めたのと同様に、私も技術への理解を深めていたのだ。
「不備があるのは、時と場所……時空に関する世界魔術だ」
「この古代森で私たちが開発してきた魔術と――同系統か」
魔術を破ることが実現するならば、魔術は破れる。世界魔術に不備があるというのなら、この世界が知らない時空の扱い方を、私たちが教示してやればいい。
「転移|回移を完成させることで、《禁忌魔術》を打破する!」
「開発方針はあるかい? 私が魔術を詠唱した時空までここから再帰するのは大変そうだ」
「いちいち様々な時空に行って詠唱せねばならんようでは、完成された魔術とはとても言えん。領域は広大いからな。そこで、技術を応用することにする」
常に進歩してこそ真に有能な魔術師というもの。
開発ノートの広げたページには難読の乱記がある。私たちの曖昧なつながりを介して暗黒記憶領域から読み取った技術的記憶の欠片。そのほとんどは忘却の彼方でも、一部はこうして参照が可能だ。
「領域はリーマン球面として整備されている。そして紀元0年の真なる混沌は近い。この条件ならば、ここから領域の全てを覆うことができるはずだ。……私はすでに忘れているだろうが、そのような技術がある。そうだな?」
アンドロイドの両瞳がまたたき、すぐに光を得た。
「ピカールの大定理を想起した! この定理はかなり強力だぞ.真性特異点近傍における局所的な挙動が,複素平面全域を覆うことを主張する.すなわち――,
z₀がリーマン球面上の点であり,fがz₀の穴あき近傍上で正則な関数かつz₀に真性孤立特異点を持つなら,z₀の任意の近傍で,fは高々1つの例外値を除き,任意の複素数値を無限回」
「私が尋ねたのは、その技術が、あるかどうかだ!」
片手のひらでアンドロイドのうるさい口の全域を覆い、強引に割り込む。
続けて自分の前髪をかきあげながら、発言内容に思索を巡らせた。そのほとんどは理解に至らなくとも、一部は私の有能さにより翻訳できる。
「真性特異点」とやらの近傍で完成された魔術を詠唱すれば、この領域のすべての時空で詠唱される……アンドロイドの言う通り、かなり強力な主張だ。そして私は、真性特異点が広大い領域のどこに位置するのかを、原初の風景からすでに突き止めていた。
特異的な眩暈を引き起こしたのは、紀元0年の方向。私たちがいる原初時代も、紀元1年以降も紀元前1年以前も、紀元0年の存在を前提としている。しかし紀元0年は0であり、まだこの世界に存在していない。
存在しない時空が存在する時空が存在する存在しないはずの真なる混沌が、この領域に存在している。存在しない時空が存在する時空が存在する存在しないはずの紀元0年だけは、詠唱範囲から外れる例外だ。
紀元0年を真性特異点、ここ原初時代を真性特異点の近傍として、完成された転移|回移の魔術を詠唱するのだ。その結果は、私たち自身が示すことになろう。
私が差し出した手をにぎり返したアンドロイドは、天地が逆転した原初の森で紀元0年をどのように観たのか、指で頬をかいた。
「この世界は――魔術は私を混乱させる。君の説明を求めたいところだ」
「私の説明は後に回すぞ。まずは魔術の完成だ。貴様からはじめろ」
詠唱は静かに原初を透過する。
⌝ ⌝ ⌝ ⌝ ⌝
静 随 こ 安 こ
か 伴 れ 定 の
に 条 が 接 壁
私 件 新 続 を
に を し を 超
続 満 き 確 え
け 足 道 立 る
⌞ ⌞ ⌞ ⌞ ⌞
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アンドロイドオアロイド|リターンズ
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