第84話 海賊王の戴冠
ゆっくりと目を開けて、デビーはジョナサンを見据える。
「あら、おはよう」
何事もなかったかのように優雅に挨拶するデビーに、ジョナサンは勢いよく抱きついた。
「きゃっ!? なにするのよ!」
「デビー! デビーだ! おはよう!」
ジョナサンは、高い高ーい! とデビーを頭上に掲げ、その場で踊るようにクルクル回る。
「きゃー!? やめなさいよ!」
ジタジタと暴れるデビーは小さな拳でジョナサンを叩こうとするが、腕の長さが足りずに全く届いていない。
「いいだろ? お前に会えて嬉しいんだ!」
「わかった! わかったから下ろしなさい! 目が回っちゃうでしょ!」
ジョナサンはデビーをその場に下ろすと、膝をついて目線を合わせた。
「俺の大悪魔様、ご機嫌はいかがかな?」
「あんまり良くないわねえ」
さっきまでの慌て方が嘘のように、デビーは激情のくすぶる目を細めて、唇の端を釣り上げた。
「畏敬の念を忘れた人間め。この私を都合のいい道具にしようとしたこと、全部全部後悔させてあげなくちゃ」
ぐっ、と体が持ち上げられる。内臓が浮くような感覚に、気分が悪くなった。
轟々と、周囲で海水が渦を巻いている。
全てを水底へ引き込もうとしていたさっきまでの渦とは違う。今度は、みんなを上へ上へと運んでいる。
竜巻だ。
ジョナサンたちは、周囲を包む気泡ごと竜巻に巻き上げられて海面まで昇り、一気に元いた浜辺まで連れてこられた。
ドサッ、と尻餅をついてジョナサンたちが砂浜に投げ出されると、海賊たちがどよめく。
あたりには、一緒に海底から持ってこられた難破船のかけらや、正体のわからない深海生物の死骸が投げ出されている。
そろそろ夕暮れ時にさしかかろうか、という頃合いだ。海賊たちは焚き火を囲んで、串に刺した魚や森の木の実を食べていたところだった。
驚いた彼らは口々に叫ぶ。
「うわっ! 本当に帰って来やがった!」
「娘もいるぞ。マジで連れ戻して来やがったんだ……!」
それらの喧騒を、デビーの冷たい一声がかき消した。
「聞きなさい愚かな海賊たち。我が名はデビー・ジョーンズ。私は帰ってきた。不敬に罰を与えるわ」
海賊たちは恐々と、波打ち際のデビーを見ている。
動けずにいる海賊たちの中から、村長が一歩踏み出した。
「偉大なるデビー・ジョーンズ。全ては俺とエドワードの独断だ。他の奴らは許してやっちゃくれねえか。船乗り一同を代表して、二度とこんなことはしないと誓う」
デビーはその嘆願を鼻で笑う。
「あなたの誠意が本物だっていうのはわかるわ。でも、裏切り者の誠意に、なんの価値があるっていうの?」
波打ち際で仁王立ちになり、デビーは怒りに燃える目をこちらへ向けている。
「私はあなたたちを許さない。二度と海からの恩恵を受けられると思わないことね。その砂浜から一歩でもこちらへ来てみなさい。すぐに八つ裂きにしてあげるから」
「まあ、待てよ。こいつらはもうとっくに怖い目に遭った後なんだ。デビーちゃんの偉大さは、骨身に沁みてるだろうよ」
ジョナサンは立ち上がり、迷うことなく波を踏んで海へと足を進める。
「聞こえなかったのかしら? 特別に一度だけ許してあげるから、すぐに浜へ戻りなさい」
「嫌だね。俺はまだ、お前と船旅がしたいんだ。海へ足を踏み入れるな? 冗談じゃない」
寄せては返す波をかき分けるようにして、ジョナサンはデビーの前まで進み、膝をついて正面からその顔を見た。
「なあデビー。もう一回俺の船に乗ってくれよ」
「馬鹿な子ね。運良く私の支配から逃れたのに、わざわざ戻って来るなんて」
デビーは手を伸ばして、ジョナサンのシャツのボタンを外した。濡れて肌に張り付いたシャツをどかして、左胸を指差す。
「そんなに私が大事?」
「もちろん」
「あなたの船には私が必要?」
「そうだ」
くすくすと、デビーは呆れたように笑い、ジョナサンの顎に手をかけてその顔を覗き込み、囁いた。
「嘘をおっしゃい。あなたは、一人でも充分に海を渡れる。違うかしら」
「嘘じゃないさ」
試されている。デビーの眼差しを感じながら、ジョナサンは想いを口にした。
「なあデビー。俺さ、海賊王ってやつになろうと思うんだ。海で一番イかれた海賊。海の上ではそいつがルール。そいつが通る時は、誰もが道を開ける。俺はその座が欲しい」
心の底から嬉しそうに、デビーは笑みを深くした。
「あら! とても素晴らしいわ! あなたもようやく、野望を持つ気になったのね! 私の契約者らしくなって来たじゃない! それで? その覇道には私の力が必要だってことかしら?」
なんとなく、言葉の端々から険を感じて、ジョナサンはデビーの顔をじっと見た。
「……なんか怒ってるか?」
「別に? 怒ってないわよ?」
いや、絶対怒ってるな。ジョナサンは心の中でそう結論づけた。
「デビー。お前がいなきゃ始まらないんだ」
「い・や・よ」
つん、と顎を上げて、デビーはジョナサンを見下している。
ざっ、と波が押し寄せて、ジョナサンとデビーの体を揺らした。
「どうしてもって言うのなら、今ここで地面に額を擦り付けて、私の力が必要だって泣きつけばいい。できるわよね? ここはまだ浅いところだし。踏みつけてあげるから、それで溺れて死ななかったら、つま先にキスしてもいいわ」
「やっぱめちゃくちゃ怒ってんじゃん……」
「怒ってないって言ってるでしょ?」
どうしたものか。結構仲良くなれたと思っていたのに、これではまるで出会った頃のデビーのようだ。
「デビーちゃん、違うの」
弱々しい声が、デビーの刺々しい言葉を止めた。
メアリーがクラフトに抱きかかえられながら、こちらを見ている。
「なにが違うのかしら?」
「ジョナサンは、私たちを利用した大人とは違う」
「そう? でも、もう一度私を船に乗せたいらしいわよ? 海を自由にできる生活を、手放したくないみたいね」
ふるふるとメアリーは首を横に振る。
そうだね、とエルモも頷いた。
「大丈夫だよ。ジョナサンはデビーちゃんと一緒にいたいだけだから」
「ああ! なるほど!」
ぽん、とクラフトが手を打った。
「デビー、君は悲しいんだな。ジョナサンが、君の力が目当てで契約を持ちかけてると思ったんだろう? 海を操る力を利用しようと近づいて来た、今までの契約者たちと同じになってしまった気がして寂しいんだろう?」
妙に皮肉っぽいデビーの言動の真意がわかって、ジョナサンはニッと笑った。
「なんだ。それで怒ってるのか?」
「ちっ、違うわよ! 人間風情が図に乗らないで! この私があなたにどう思われてるかなんて、気にするわけないでしょ!?」
プイッ、と拗ねたように顔を背けたデビーに、ジョナサンは笑いかける。
「なあ、デビー。旅に出る前、俺はこの海を自由の象徴みたいに思ってたんだ。一人きりで閉じこめられてる人生が、海に出ればなにかが変わる気がしてた。それを本当にしたい。そのために海賊王になるんだ」
デビーの反応を待ちながら、ジョナサンは話を続ける。
「外の世界には昔の俺みたいに、どこにも行けないって悩んでる奴らがいっぱいいた。だから俺はそういう奴らを船に乗せて、どこへでも連れてってやる。そういう船乗りになりたい」
「勝手にやればいいじゃない。なんで私が必要なのよ」
ジョナサンは、にっこり笑って立ち上がる。
「水臭いこと言うなよ。そりゃもちろん、お前と約束したからさ。いつか陸へ連れてってやるって。渡し守りジョナサンの、最初のお客様になっちゃくれないか? どこへなりとも連れて行ってやるよ」
デビーはぽかんと口を開け、ジョナサンの顔をまじまじと見つめた。
そして、控えめに少しだけはにかむと、エスコートを促すように手を差し出す。
「……本当に馬鹿な子ね」
その手を取って、ジョナサンは既視感を覚える。最初に契約した時は、この手の甲にキスをしたんだった。
今はもう、契約は不要だ。
わぁっ! と海賊たちが歓声をあげた。
誰もが手近にあった酒瓶を手に取り、高く掲げて叫ぶ。
「乾杯!」
「キャプテン・ジョナサンに!」
「航海士クラフトに!」
「渦潮に向かって泳ぐイかれ野郎に!」
「怒れるデビー・ジョーンズを鎮めた英雄に!」
「新しい海賊王に!」
「乾杯!」
すぐに浜辺は陽気な空気に包まれた。
思わぬ賞賛に、ジョナサンは驚いて固まってしまう。同じようにクラフトとメアリーも固まっている。
「えっ? なに?」
なぜこいつらは、こんなにも自分たちに好意的なのか。
その答えはすぐにわかった。賑やかな乾杯の音頭の中心には、エルモがいる。
「エルモ? お前なにやったんだ?」
「みんなに、ここに来るまでの私たちの話をしたの! 楽しく聞いてくれたよ。ここからみんなで、「二人が無事にメアリーとデビーちゃんを助けられますように」って応援してたんだ」
エルモは、浜辺に座っているクラフトとメアリーを焚き火のそばへ連れて行き、体を乾かすように促した。一応メアリーの隣にはギベッドが陣取ったが、揉め事が起こる心配はなさそうだ。
それからエルモは、大きな葉っぱに乗せた焼き魚や木の実を持って、波打ち際までやって来る。
「おかえり。お腹すいたでしょ。これ食べて落ち着いたらさ、渦潮の中でなにがあったか聞かせてくれる?」
受け取った食べ物のうちの半分をデビーに手渡してから、ジョナサンは苦笑した。
「なんか照れくさいな」
その背中をデビーが軽く叩く。
「なに言ってるのよ。みんな海賊王ジョナサンの武勇伝が気になって仕方ないの。しっかり話してあげなさい」
その日、砂浜での祝宴は夜遅くまで続いた。
デビー・ジョーンズと海賊王ジョナサンの物語は、港町の酒場で、旅人の集う宿屋で、べた凪で動けない船の上で、いたるところで何度も語られ、多くの人々に知られることとなるのだった。




