第76話 嵐の朝
ジョナサンは目を覚ますなり、頬に柔らかい人肌を感じ、やばいと思って飛び起きた。
「おわっ!?」
「あっ、起きた?」
思いっきりエルモに抱きついたまま眠っていた。起床早々心臓がバクバクと早鐘を打っている。
常識的に考えて、そういう関係にない男女が近づいていい距離ではなかった。
外からは、相変わらず嵐が吹き荒れている音が聞こえるが、風雨の音に紛れてラヴの「オハヨウ!」という声が聞こえる。
寝ている間に朝になったらしい。一晩ずっとこうだったのだと考えるとめまいがしてきた。
「なななっ、なにしてんだよ!」
「かわいい寝顔だったよ」
「その言い方やめてくれ……」
ジョナサンがたじろいでいるのがおもしろいらしく、エルモは愉快そうに笑っている。
「もう、ジョナサンったら激しいんだから」
「泣き声の話だよな?」
だんだんと、眠りにつく前の記憶が戻ってくる。
我ながらとんでもないことをしてしまったと、思い出すほどに血の気が引いていく。
「ええと……、ごめんエルモ……」
「そんなことより、話の続きなんだけど」
清々しいほどにスルーされてしまった。ここまで全く気にされないと、ジョナサンはもう苦笑するしかない。
「どこまで起きてた?」
「ええと……、村長とメアリーが海賊砦へ向かった、ってあたりで眠気に負けた気がする」
「おっ、わりと最後のあたりまで起きてたね。えらいえらい」
意識がはっきりしてくると、体が冷え切っていることにようやく意識が向く。その上、硬い床で眠ったせいで身体中が痛い。
昨日波をかぶって濡れてから、そのままほったらかしだった。上半身は裸で、濡れたまま眠っていた。
二人は揃ってくしゃみをした。エルモも、服が濡れたままだ。体温の移った生乾きの服の感触が頬に蘇り、ジョナサンは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。このままでは確実に二人とも体調を崩してしまう。
「寒いね」
「すまん、拭くものと毛布持ってくる。着替えはあるよな?」
「じゃあ私、朝ごはん用意するよ」
濡れた体をなんとかして、食事を前にすると、ようやくひと心地ついた気がする。なにかしなければいけないという気持ちがわずかばかりに回復してくる。
「で、続きなんだが……。なんでお前は村長とメアリーの行き先を知ってるんだ?」
「だって私、あの後村長さんを追っかけてメアリーを連れ戻しに行ったから」
ビスケットを口へ放り込み、果実酒で流し込みながら、ジョナサンは相槌を打つ。
「おお、まじか……」
自分が意気消沈して全く動けないでいる間に、そんなことになっていたとは。
「メアリーは海賊としての人生を望みません。教会で、神のもとで面倒を見ます。って言ったんだけど、取り合ってもらえなくてね」
村長は筋金入りの頑固者だ。一度言い出したことをそう簡単に曲げはしないだろう。
かわいがっていた後輩に託された娘を、意地でも一人前の海賊にしようと奮起しているに違いない。
「もう一回連れ戻しに行くか。今度は俺も一緒に」
「ううん。ダメ」
エルモは口に入れていた干し肉を飲み下すと、即座に否定した。
「なんでだ?」
「もう出航しちゃったから」
「は!? この嵐の中をか!?」
窓の外を確認するまでもない。この世の終わりのような嵐は相変わらず続いていて、とてもじゃないが船を出すのにいい日和だとは言えない。
「デビーちゃんが……、メアリーが乗ってれば沈みはしないと判断したみたい」
「わーお。村長がそんな命知らずだとは知らなかったぜ」
それはあまりにも孤独すぎないか。ジョナサンは、馴染みのない船で一人ポツンとうずくまっているメアリーを想像してしまう。
「……追いかけるか」
「おっ、本気?」
「クラフトはやった。嵐の中に船を出して、俺のところまで来た。あいつにできて俺にやれない道理はないし、もしあいつがここにいたら迷わずそうするだろ」
その時。ばさっ、とラヴがジョナサンの隣に降り立って、ピスケットのかけらをつつくと一声鳴いた。
「シュッコウノヨウイヲシヨウ」
「ほらな。ラヴもこう言ってる」
やらなければいけない。このままメアリーが海賊の王なんかに祭り上げられてしまったら、あいつも浮かばれない。
もしクラフトがここにいたら、同じように出航を促したに違いない。
「よーし、じゃあその気合いに免じて、お姉さんが野暮なことを教えてあげよう」
「野暮なこと?」
「ジョナサンってさ、たまに忘れてるけど、あなたもデビーちゃんみたいなことできるんだよ? 真珠があるんだから。それを使えば、ちょっとくらいは嵐をマシにできるんじゃない?」
ジョナサンは、眼帯の上から自分の片目に触れる。ここにはめ込まれた真珠には、デビー・ジョーンズのように海を操る力がある。
「それもそうだな」
「もう、せっかくあるんだから使いなよ。こだわりでもあるの? 使ったら負けた気がするとか思ってるわけ?」
ほら、もっと食べな。とエルモはジョナサンの手に堅焼きパンを押し付ける。
航海用の食事は基本的に水気を飛ばして日持ちするように加工してある。つまるところよく噛まないと飲み込めないのだが、エルモがじゃんじゃん食べ物を渡してくるせいで、口を休める暇がない。
「いや、そういうんじゃなくて……。ええと、なんて言ったらいいかな。急に腕が一本増えたとして、反射的に使えると思うか? とっさには使えなくて、ちょっと落ち着いてから「そういえばこれもあったな」って気づく。俺にとっちゃ、そういう感じなんだ。これ」
でも、いい加減慣れるべきか。このままいけば、一生この真珠と付き合うことになるのだから。
ジョナサンは、試しにパチンと指を鳴らしてみた。
「嵐よ、やんでくれ」
少し待ったが、あまり効果はない。少しだけマシになったような気はしなくもないが、相変わらず大荒れの海めがけて槍のように雨が降り注いでいる。
原因はなんだろうか。こんな大きな嵐を止めるほどの力はないのか、ジョナサンの使い方が悪いのか。
「デビーみたいにはいかねえなあ……」
船を出すことすらままならない。
絶対に行くとは決めたが、このままでは嵐の海へ死にに行くだけだ。家主のいないデビー・ジョーンズ・ロッカーは、きっと寂しい場所だろう。
「そうだ。メアリーならこの嵐、止められるんじゃないか?」
必ず迎えに行く。だから待っていてくれ。そう伝えることさえできれば、この嵐はきっと晴れる。
「そうだね。デビーちゃんが中にいるんだもん。でも、どうやってメアリーに会うの?」
「これを使うのさ」
ジョナサンは、メアリーのポシェットから葉巻ケースを取り出した。あと三本残っている。
「これでメアリーを呼び出して、話しかけるんだ。死人は口をきけないって話だが、生きてる相手となら会話できるんじゃないか?」
「いいね! やろう!」
希望が見えてきた。ジョナサンとエルモは顔を見合わせてうなずきあった。
残りの食事を胃の中に押し込むと、ジョナサンは葉巻を一本取り出した。
ランプを開けて、端を切り落とした葉巻を火に近づける。
ちろり、と火が葉巻を舐め、燃え移るのをじっと見ながら、深呼吸をする。
メアリー。大丈夫か。心の中で語りかけながら、葉巻に口をつけて大きく煙を吸い込む。たくさん吸い込んだら、話ができる時間が伸びたりしないだろうか。
ふぅ、と煙を吐き出す。
部屋の中に充満した煙はすぐにひと塊りになって、メアリーの姿をとった。
「メアリー!」
「メアリー、大丈夫?」
ジョナサンとエルモの呼びかけに、メアリーは不思議そうな顔を浮かべる。
「ジョナサン? エルモ? あれ? なんで私ここに?」
「これだよ。お前の様子が知りたくて。勝手に使ってごめんな」
声が聞こえた。会話ができる。ジョナサンはひとまずホッと胸をなでおろしたが、すぐに血の気が引く。
メアリーの体はあちこち血で汚れ、顔には軽く擦り傷ができている。
大きいメアリーの返り血を浴びてから、服を着替えていないようだ。古くなって黒ずんだ血の染みの上に、新しい血しぶきが飛んでいる。
「だっ、大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。こんなのかすり傷」
「血まみれじゃないか!」
「私の血じゃないもん」
「お、おう……」
さすがというかなんというか。村長は大丈夫だろうか。
ペッ、と血の混じった唾を吐き出すと、メアリーは苦々しく呟いた。
「こんな船沈んじゃえばいい」
なにがあったんだと絶句しているジョナサンをよそに、エルモは穏やかに微笑んだ。
「いやなことがあったんだね?」
「うん。みんなのところに帰りたい。クラフトは大丈夫?」
ジョナサンは言葉に詰まってしまう。
ここでクラフトの死を伝えるのは危険だ。
以前聞いた話によれば、デビーは友人を殺されて怒り狂い、島国を一つ海底に沈めている。同じことが起こらないとも限らない。
「そっちの様子を教えてくれ。迎えに行くから」
「……ジョナサンが来るの?」
暗く沈んでいたメアリーの表情に、少しだけ活力が戻った。
「必ずそこへ行くって約束する。今、そっちはどんな感じなんだ? 様子を教えてくれ」
ジョナサンに問いかけられて、メアリーはため息まじりに口を開いた。
「こんな奴ら、みんなぶっ殺してやりたい」
立ち上る煙はまだ安定していて、メアリーの姿ははっきりしている。
時間の許す限り彼女の話を聞こうと、ジョナサンとエルモは耳を傾けた。




