第74話 離別
すう、と煙を喉に流し込む。
クラフトの顔を思い浮かべて、どうか声を聞かせて欲しいと願う。
煙の匂いは嫌いじゃない。イガイガした空気が喉にまとわりついて、葉っぱの焼ける甘い匂いで胸がいっぱいになる。
もくもくと葉巻の先から立ち上る煙が船室の中を満たし、見える景色を霞ませる。
煙の中から、クラフトは姿を現した。すまなさそうな、しょんぼりした顔をしている。
「クラフト!」
がっ、と肩を掴もうとするが、煙に触れることはできずに両手が空を切る。
手の動きでかき混ぜられた空気が渦を巻いて、煙が少しだけ散った。クラフトの輪郭が少しだけ崩れたが、すぐに元に戻る。
「大丈夫なのか! 生きてるのか!? なあ!」
勢いよく問い詰めるジョナサンに、クラフトは目を丸くしてたじろいでから、困ってしまった、とでも言うように曖昧に微笑んだ。
「なんとか言えよ!」
クラフトは、胸の前で手を交差してバツを作って見せる。
話せない、と言うのか。ジョナサンは頭が真っ白になった。
エドワードの時と同じだ。すでに死んだ人間は、こうして呼び出しても声を発することができない。
次に、クラフトはペンで文字を書くジェスチャーをして見せる。ジョナサンは慌ててペンとノートをクラフトの前に差し出した。
手を伸ばして、クラフトはペンを取ろうとした。しかし、スカッと通り過ぎてしまう。煙でできた両手では、ペンを握ることができない。何度試みてもダメだ。
必死になって、クラフトはペンを掴もうとしている。俺になにか、メッセージを伝えようとしている。
遺言みたいだ。そう思い至った瞬間に血の気が引く。
「いやだ。なあ相棒、一人にするなよ。死ぬな。頼むから」
煙の体が崩れ始めた。時間切れのようだ。
しかしクラフトは、まだ諦めずになにか伝えようとしている。
「なんだ、どうしたんだ。言ってみろよ!」
すっ、と空気に溶け始めているクラフトの人差し指が、ジョナサンの胸を指差した。ちょうど、心臓があるあたりだ。
消える寸前、声こそ出ていないが、微かにクラフトの口が動いた。
大丈夫。共に行こう。
そう言っていたように見えた。
ジョナサンは動くことができず、呆然とうずくまっていた。
受け入れがたい事実を頭が拒んでいる。
「ジョナサン? いるの?」
エルモの声が聞こえて、ハッと我に帰る。
振り返れば、ずぶ濡れのエルモが船室に入ってくるところだった。この大雨の中わざわざジョナサンを呼びにきたようだ。
「遅いから心配したよ? 早く戻ろう。クラフトが起きた時、そばにいないと」
「起きねえよ」
沈みきった声でジョナサンが答える。
「なんでそんなこと言うの?」
「これを使ってクラフトと会った。でもあいつ、なにも話さなかったんだ。お前も見たろ。死人は話せない」
魔法の葉巻を見せると、エルモは顔をこわばらせた。
「それ本当? なにかの間違いじゃない?」
「間違いじゃねえよ!」
思わず声を荒げる。間違いだったら、どんなに良かったか。
「一人になっちまった」
ジョナサンが嘆くと、エルモはジョナサンの肩に手を置いた。
「私がいるよ。一人にはしない」
「どうだか」
こんなことを言うべきじゃない。頭ではわかっている。
けれどもジョナサンは自分で自分を止められなかった。
「お前は俺より困ってる奴がいたら、そっちに行くだろ。お前は簡単にこの船を降りる。わかってるんだ」
実際、メアリーがここで暮らすためならば、とあっさり降りることを決めてしまった。
こんなことで嫌味を言うなんて、我ながらめんどくさい。ここにいて欲しいと強く言わなかったのは自分なのに。
「今はあなたを放っておけない。そりゃあ、クラフトの代わりにはなれないけどさ」
エルモはジョナサンの隣に座って、軽く肩を抱き寄せた。濡れたままほったらかしにしていた体に温もりが触れて、体が冷え切っていたことに気がつく。
「泣き言なら聞いてあげるよ」
近くに人の体温を感じてホッとしたはずなのに。胸のつかえが取れない。
「ずっと一緒に旅できると思ってたんだ」
「うん」
「こんなに気の合う奴には、多分二度と会えない」
「うん」
「俺、あいつがいないとダメなんだ」
「うん」
「魂が半分なくなったような気がする」
この先の人生、半身を失ったままで生きていかなければいけない。そう思うだけで、心が乾く。
無理だ。以前はそれが当たり前だったのに、理解者がいないことが耐え難い。この穴をなんとかして埋めなければ生きていけない。
「なあ、エルモ」
ボロボロと言葉が溢れて行くのを、もう自分では止められない。
隣にいるエルモの方を向いて、祈るような心地で懇願した。
「子供が欲しい。名前はクラフトにしよう」
やめろ。頭の奥で自分の声がする。そういうアプローチはしないって決めたじゃないか。そもそも、いろいろすっ飛ばしすぎだ。
だがしかし、腹の底でとぐろを巻く喪失感と渇望が心を蝕んでいく。
一人は嫌だ。さみしいのは嫌だ。誰か、俺と一緒の船にいてくれ。
「なあ、ダメか? その子と一緒に、デビーとメアリーを助ける方法を探しに行くんだ」
エルモの手首を掴んで、床に押し倒す。衝撃に、船が少しだけ揺れた。エルモがいつも頭につけている修道服の頭巾が外れ、濡れた髪があらわになる。
「いたっ」
固い木の床の上で、エルモが顔をしかめる。今更ながらジョナサンがひるんだ瞬間、エルモが掴まれていた手首を振りほどいた。
パァン! と乾いた音とともに、頬に痛みが走る。
「ダメだよ」
少し遅れて、平手打ちを食らったのだと気がついた。
「それじゃダメだって、あなたが一番わかってるはず」
頬がジンと痛む。
感情が高ぶって乱れていた思考が、ピシャリと痛みを受けたことで一瞬止まった。
「さみしいね」
エルモの親指で目元を拭われるまで、ジョナサンは自分の目から涙がこぼれていることに気がつかなかった。ポタポタと、エルモの頬の上に涙が滴り落ちる。
自覚してしまえば、もう嗚咽が止められない。
後頭部に腕が回され胸元に抱き寄せられるのを、ジョナサンは大した抵抗もなく受け入れた。ひたいに鎖骨が当たるのを、服越しに感じる。
「落ち着くまでこうしててあげる」
少しだけ、好きな女を相手にこんな醜態を晒すことに抵抗が芽生えたが、そんなものは感情の波にさらわれて行く。
こんなにも振り絞るように泣いたのは、一体いつ以来だろうか。
衝動に任せてわんわん泣き続け、ようやく気持ちが凪いできた頃、まだ小さくしゃくりあげているジョナサンに、エルモが提案した。
「よしよし。それじゃあお姉さんが一つお話をしてあげようか。この海のどこかにある、不思議な島の話だよ」
今はそういう気分じゃない。そう言おうとしたけれど、腕の中に収められ軽く背中を叩かれながら聞く声が、あまりにも心地いい。ジョナサンは流されるままに小さく頷いた。




