第45話 帰路
ジョナサンは、悪寒を我慢して船を進める。
見えないとはいえ身体中に幽霊がまとわりついていると思うと、気が重い。
気を紛らわせようと、岩礁での出来事を思い返す。
剥製から試練達成の証として、鱗を一枚譲り受けた。その鱗を祭壇に収めると、その瞬間ふっとあたりの空気が軽くなったような気がした。
波間を割って、なんだなんだ? と言うようにたくさんのセイレーンが顔を出す。その顔には、安堵と喜び、そして少しの戸惑いが浮かんでいた。
「感謝する。我々はこれで自由だ」
「いいってことよ。約束どおり、こいつの兄貴と、兄貴と一緒にいた乗組員、返してもらうぜ」
セイレーンのうちの一人が、クラフトに向かって巻貝を差し出した。
「受け取って欲しい。これを兄の心臓の上に置いて割れば、魂は体へ戻るだろう。……すまないが、他の乗組員たちはすでにここにはいない。皆、兄君が失敗した時に海へ飛び込んだ。絶望して身を投げたのか、我らに殺されると思って泳いで逃げようとしたのか……。いや、ただ単に、我らの声に晒されたせいだろうか」
クラフトは、少し悲しげな顔をして、巻貝を受け取った。
「わかった。……、なあ。僕たちの声で人が海へ誘われるのを、止めることはできないのか?」
「できない。これは我らの特性だ。我らの意思がどうであれ、我らの声を聞いた者は海へ飛び込む。だが、今後は海で溺れている者を見つけた時は、海底に引きずりこむのではなく近くの島まで運ぶこととしよう。せめてもの礼だ」
「……。そうか。ありがとう」
波の下から次々に現れるセイレーンは、どんどん数を増やしていく。こんなにもたくさんいたのかとびっくりしたものだ。波の下に広がるセイレーンの王国は、どんな場所だったのだろうか。
「みんな聞け! 試練は達成された! 勇敢な船乗りたちに敬意を! 我々は自由だ!」
セイレーンたちがどよめいた。恐々と遠くに目をやったり、互いに顔を見合わせたりしている。
「思ったより嬉しそうじゃねえな」
ジョナサンが不思議に思って呟くと、すぐに答えが返ってきた。
「呪いがかけられたのは、何世代も前の話。我らの中に、この海域の外を知る者はいないのだ」
クラフトが頷いた。その気持ちはよくわかる、とでも言うようだった。
「なるほど。それで、自由になったはいいものの、いざ外へ行こうとすると尻込みしてしまうわけか」
「なんとも恥ずかしい話だ」
「大丈夫。踏み出した先で目にするものは、きっと君たちの心を震わせる。この僕が保証しよう」
ジョナサンがもう一度遠くに目をやると、何人かの果敢なセイレーンが、外海に向かって泳ぎ出したところだった。
「俺たちも行こうぜ」
こうして、ジョナサンたちはセイレーンの住処から船を出し、クラフトの故郷へと船を進めている最中だ。
「このあたりでいいわね。ロッカーへ降りるわよ。魂たちを送って行かないと」
どっちを見渡しても陸が見えなくなったところで、デビーが指を鳴らした。
波が大きく渦巻いて、船を海底へ運んでいく。
一度目の時は取り乱して騒いでいたクラフトも、今度は神妙な顔で大人しくしている。
船は海底にたどり着き、ジョナサンが眼帯をつけ直すと、どうやら幽霊たちは海底の街に散っていったようだった。
足元には、この前来た時と変わらず、アンコウたちの作る星空のような景色が広がっている。
「エルモ、一つ頼まれてほしいんだが」
クラフトが言うと、エルモは即座に返事をする。
「いいよ、なに?」
「彼らが安らかに眠れるように、祈りを捧げてはもらえないか。今ここへ来た魂たちの中には、きっと兄上の船の者たちもいる。助けることはできなかったが、せめて冥福を祈るくらいは、したい」
その頼みを受けて、エルモは祈りの言葉を唱え始めた。
神秘的な光景だった。音のない深海で、祈りの言葉だけが響く。
短い葬儀が済んだ後、クラフトは少しだけスッキリした顔をしていた。
「僕も死んだらここへ来る。デビー、その時はよろしく頼む」
「ええ、歓迎するわ」
再び船は海上へ上がった。クラフトの故郷までは、まだ遠い。
ジョナサンとクラフトは、海図を広げて相談を始めた。
「もうしばらくかかりそうだな」
「思ったより遠くまで来ていたんだな。こんなに家が遠いなんて」
「なるべく早く着きたいよなぁ。早く兄貴を元気にしたいだろ」
ジョナサンが言うと、クラフトが頷く。
「進路を変えるのはどうだ? こちらの航路を使うと、距離は若干長いが潮の流れのおかげで二、三日短縮できるはずだ」
「へー! そうするか!」
「うむむ、しかしな……」
「ん? なんか気がかりなことでも?」
「個人的なことで申し訳ないが、少し家に帰るのが怖いと言うか……。早く帰りたい気持ちもあるが、心の準備のために旅程を引き伸ばしたい気もしていて……」
「ええ? なんでだよ。やっと兄貴を助けられるんだぞ?」
「それはもちろん嬉しいが、僕の家族は僕が航海士になることを認めてくれるだろうか。前回は、兄上を助ける方法を見つけて帰ってくる、と言う話だったが、今回は違う。次はいつ戻るともわからない」
クラフトの肩で、ラヴが声をあげた。
「ゼッタイニハンタイサレル!」
悩んでいるクラフトに、ジョナサンは問いかけた。
「じゃあ、家族に反対されたら、お前はこの船を降りるのか?」
「とんでもない。そんなことしないさ」
「ならいつ到着しようが一緒だろ。もし反対されたら俺も一緒に説得してやるから、早くお前の無事なツラを見せてやろうぜ」
「……。そうだな。ありがとう」
ジョナサンが舵を握り、クラフトはマストに登って帆の調整をし始めた。
その様子を見て、デビーは笑う。
「ふふっ。下僕が増えると船の動きが良くなるわね」
「下僕じゃないぞ。航海士だ」
「航海士だろうが王様だろうが、私の前では等しく下僕よ」
メアリーが、ジョナサンの服の裾を引っ張った。
「ん? どうした?」
「私も手伝う」
「おっ、ありがとうな。じゃあ、これ終わったらご飯にするから、船倉から食べ物と酒と……、セイレーンがヤシの実をくれたんだったな。それも持って来てくれ。おーい、エルモ! メアリー一人じゃ持ちきれねえだろうし、お前も頼む」
「わかったー!」
船が軌道に乗り、あとはしばらく放っておいても大丈夫な状態になったところで、一同は甲板に座って食事を始めた。
エルモのせいだろう。心なしか出ている酒が多い。メアリーの前には、きちんとライムが置いてあった。誰に言われるまでもなく、ちゃんと自分で皮をむいて、ライムの実を半分に割った。
「クラフトにもあげる」
どうやらメアリーなりの愛情表現らしい。
しかしクラフトは、「こら。ちゃんと全部自分で食べなさい」とメアリーをたしなめた。メアリーはすっかり拗ねてしまって、頬を膨らませて顔を背けた。
「お前さぁ……、いや、なんでもない」
ジョナサンは呆れ笑いを浮かべた。どこが悪いのか指摘してやってもいいが、下手にメアリーの好意を暴いてしまうのも野暮だし、芽生えたばかりの乙女心を傷つけかねない。
「ところでさー」
エルモが不思議そうに呟いた。
「メアリーが会ったって言う、呪われた海の話をしてたおじさん、あれって誰なんだろうね」
ジョナサンは、話題を変えてくれたエルモに内心感謝した。
「そういえば、そうだな。意味深なこと言ってたっぽいけど、謎のままだ」
呪われた海の話をした男。思い返せば、あの男の正体はわからない。
その男の話に出てくる呪われた海というのは、間違いなくセイレーンの住処のあの海域のことだろう。しかし、なぜあの男がその話を知っていて、なぜ酒場で見かけた通りすがりの少女に話して聞かせたのか。
「みんなでそいつの正体、考えようぜ」
ジョナサンが提案すると、クラフトは首をかしげた。
「そんなことしたって、誰も答えなんか知らないじゃないか」
「いいんだよ。そうやって、ああでもないこうでもないって話したいだけなんだから。誰かが納得のいく答えをくれれば万々歳。そうでなくても喋ってる間は楽しい。いい考えだろ? どうせ暇なんだしさ」
ジョナサンは、首をひねってどんな説を提唱したら面白いかな、と考え始めた。
穏やかな風が帆を押して、船はゆっくりと予定通りの航路を進んでいく。




