歩道橋の招き手 その4
ナツコは目をつむる。ここまでしてきたことを思い出す。ウワサを聞いて、不思議に思って、そしたら実際に歩道橋から落ちちゃってる女の子を見ちゃって、どうにかできないかなって思ってたらさなえに出会った。さなえはいろいろ話を聞いてくれて、疑うこともなくむしろ話を本当のことに近づけてくれた。だから、ここまできたのだ。一人では決してあの条件に気がつけなかっただろう。そこでナツコは口を開いた。
「ねっ、渡る前に条件が整ったって言ってたよね」
「え? いきなり何の話?」
「だからさ、なんかここに来ても最初は何もないって言ってたじゃん。けどウワサ全部聞いてここにきたらこうなった。それが条件ってやつだったんでしょ?」
「ああ、そうだが。それが?」
「それがあれなんじゃないの。ここから出る条件ってやつ」
「ん?」とさなえは顔をしかめる。「いやいやあれはウワサを聞いてそのウワサを実践することが出現条件だっただけで。あ、いや、まさかその行為自体が誓約だったのか。その行為をした相手のみをこの結界内に引きずりこめるってことか」
「よくわかんないけどそういうことじゃないの?」
「いやそうだな。よく考えればそうだ。おそらくだが結界の解除方法まで開示してるはずだ。それくらいの制約がなければここまでの強くなれない。ていうことは」とさなえは歩道橋の欄干を見る。
「わたしが向こうまで渡りきればいいんじゃない?」
「かもしれないね」
「じゃあさやろうよ! 逃げるよりもしかしたらってことやったほうがいいでしょ」
「けど、失敗したらもうだめだよ」
「失敗しないよ。わかんないけど大丈夫」
「ポジティブ」とさなえは笑った。それから深く息をつく。
「やるの?」
「時間は私がかせぐ。走りきるのは任せた」
「もちろん! ……でもどうやってここから抜け出すの?」
「いまからお見せしましょう」とさなえは言って両腕を前に突き出した。
付近にあった腕たちが吹き飛び、正面に居る男が視界に入る。無感動な表情でその男は二人を眺めていた。さなえは声を上げる。
「お前の言うように私の能力は距離をいじることだ。だが対象に触れなくともいじることが出来る。正確には認識した対象の距離をいじる能力だ。こういうふうにな」
男が二人の目の前に立っていた。男が移動したのだ。男は眉をひそめる。
「だからどうしたのだ。子ウサギのようにふるえ、消耗しきっている貴様が我輩を呼び寄せ何が出来る。貴様は我輩を傷つけることはできぬのだ。この黒服を着ていた男のようにな」
「だが、ここにとどめることは出来る。私との距離を一定に保つのさ。お前が出す手もお前自身も」とさなえは鼻血を出しながら笑った。
「どういうことだ?」と人型の歪みは首をかしげ、動こうとした。しかし、出来なかった。
「この能力の弱点は固定する対象が増えると処理が間に合わなくなる。お前がやるべきことは先ほどと同じく私に手を投げ続けようとすることだ。なんで弱点をべらべら喋ってると思う? これが誓約強化ってやつ。お前自身をさらに固定するためだ。さあ、行って!」
ナツコはその言葉を聞いて駆け出した。男はナツコが欄干に登るのを見て態度を豹変させた。
「貴様ら何を考えている。ふざけるな。貴様らのような下等生物がここから抜け出せると思うな!」
「なら邪魔してみな。私がすべてをとどめてやる」
さなえは鼻血を流しながら男を睨む。男は周囲に無数の腕を出現させるがすべてはその場で蠢くだけだった。対峙する二人を背にしてナツコは欄干の上を走り出した。
小学生の頃にナツコは道路の白線の上だけを渡って帰ろうと試みたことがある。歩道橋の欄干の幅はその白線と同じくらいだ。ただ違うのは踏み外したら本当に落ちるというだけ。それだけだ。だがそれ以外は変わらないのだ。ナツコはそう言い聞かせながら足をまっすぐ置いていく。
中ほどに至るとまたあれが現れた。逝ってしまったはずの両親。幻影だ。それでも、そう分かっていてもナツコは足を止める。両親は微笑んで欄干の横へと移動していく。ナツコは思わず手を伸ばそうする。そのとき後ろで男の声がした。
「もっと大切なものがあるだろう?」
「え」
「さあ、いくんだ。ここで止まってたら前島さんが悲しむよ」
ナツコは誰かに背中を押されたのを感じながら、出した手を引っ込めて両親の幻影を振り切ってふただび足を前に進めた。
「動けぬ。動けぬ。動けぬ! なれば我輩は貴様が果てるまで腕を増やし続けるのみよ。望めぬものを奪おうとした手を、叶わぬものを切望し手繰り寄せようする手を!」
「確かにすごい数だ」とさなえは膝をついた。周囲の無数の手がいっせいにさなえへと目掛けて這い寄ってくる。さなえの歪曲が解けたのだ。男は高らかに笑った。
「貴様はよくやった。下等生物にしてはな。さあ、死ぬが良い」
「後ろ見たら?」
ナツコはがむしゃらに欄干を走り抜けた。対岸にたどりついたときふっと力が抜けた。風を感じる。先ほどまでなかったものだ。そしてほこりっぽい匂い。立ちくらみと共にふらりと体が揺れた。ぽとりと欄干から内側へとナツコは落ちた。
「ぐぬぅ」と呻きながら顔を上げる。先ほどまでさなえと対峙していた男が横に立っていた。その頭を両腕で抱えている。
「バカな、愚かな。なぜクズどもに解かれてしまう。今までこんなことはなかった。こいつらは喰われるだけの存在だったはずだ。我輩が負けるはずはない。負けるはずがないのだ!」
男は顔を上げて咆哮する。怒りに満ちた表情でナツコを見た。ナツコは動くことが出来ない。男の手が伸びてきたとき、小さな背中がナツコの視界に割り込んだ。
さなえは男の身体にすばやく十字を切る。
「往生際が悪い」
淡い光の筋が男の上半身を十字に走った。そこから弾けるようにして男は文字通りに四散した。残ったのは煙のような影だった。それもすぐに消えた。
さなえは鼻血を袖で拭ってから、ぺたりとナツコの横に座り込んだ。ナツコは倒れこみそうになったさなえを支えた。
「大丈夫?」
「もう死にそう。ああなんか食べなきゃ。ツナマヨのおにぎりが食べたい」とさなえは腹を大きく鳴らせた。
「じゃあコンビニ行こ。いっぱい食べもの買ってあげるから」
「背負ってくれるとすごーくうれしいなあ」
「えぇ……。しょうがないなあ」
さなえは店先のベンチにぐったりと座っていた。二日ほど遭難した登山者のようにも見える。そこに大量の食糧を買い込んだナツコがやってきた。
「ほいよ、ツナマヨ。五個あるぜ」
「封をね、開けてくれるとね、うれしい」
「あいあい」
ナツコは手順どおりに封を開けて、おにぎりをさなえの口元に持っていく。さなえは一口小さくかじって咀嚼する。それが何度か繰り返され、おにぎりが一つ消化される。
「もう一個」
「ほいほい」
ナツコはおにぎりを食べ終えたさなえに肉まんを渡した。
「おいしいよ、肉まん」
「おいしそう」
「たべなたべな」
「うむ」
そうして二人は歩道橋の方を見ながら肉まんをかじっている。日はすっかり暮れていて、星の瞬きが目立つようになっていた。そんな夜空の下で人々は何事もなかったように歩いている。車は気軽にあの歩道橋の下を通り抜けている。戦いの痕跡は全くない。むしゃむしゃと肉まんを頬張るさなえを横目で見てからナツコは言った。
「もうあそこ大丈夫かな」
「ん? ああ、大丈夫だよ。しっかり倒したからね」
「そうか。よかった。……なんか現実味がないよ」
「私はかなりリアルな体験だったけど。ここまで追い詰められたのは久しぶり」
「ああいうのってもっとほかにもいるん?」
「いる。わんさかいる。ちょっと前までは私みたいのが対応してたけど、今はどうなってるんだろう」
「あのさ、前島さんってさ、どこからきたの?」
「うーん。言ってもわかんないだろうな。もう今はないみたいだし。簡単に言うとああいうのを倒すのを訓練する学校にいたんだ。でもいろいろあってこっちに来た。平和にふつうに暮らしていこうと思ってたけどそうもいかないね」
「これからも戦うの?」
「ああいうやつは倒していきたいね。どんなに難しくとも」
「じゃあさわたしも手伝うよ。一人じゃ寂しいでしょ?」
さなえはぼんやりとナツコを見た。
「どうして?」
「どうしてって、今日も一人じゃ死んでたでしょ? だから一緒に居てあげようかなってさ!」
「おもしろいこと言うね。ま、たしかに一人じゃ死んでたなあ」とさなえは背もたれに深く寄りかかる。
「ね、じゃあ明日からも頑張ろう! えいえいおー!」
「さすがに明日は休むよ。死んじゃうよ」
さなえはそう笑う。その横でにへへとナツコも笑った。