二千百十九 SANA編 「過失責任を問われれば」
四月十六日。土曜日。晴れ。
今日は、沙奈子たちは土曜授業があるから学校に行った。だけど昼には帰ってきて、また一階の厨房でお昼を作って食べて、それから水族館へ。
今回はまだ、玲那に引率してもらう。もう高校生とはいえ、ううん、高校生だからこそ、自分自身を過信してしまいそうになる時期だと思うんだ。なんでも自分でできるような気がしてなんでも自分でやってみてそれで失敗すること自体はそれも一つの『経験』ではあっても、その失敗が致命的なことだったら悔やんでも悔やみきれないからね。玲那は決して沙奈子たちを操るために引率するんじゃなく、大人として万が一の時に責任を負うためについていってくれるんだよ。
沙奈子たちが本当に自分で自分を律することができてるか、傍で見守るために、ね。玲那にとっても家族だから。
高校生というのは、まさにそういう期間なんだと思う。
『実際に自分で自分の判断や行動に責任を持てるようになるための研修期間』
ってところかな。研修期間だったら、当然、監督役が傍にいるはずだよね?。まったくそういうのなしで好き勝手にやらせる研修なんておかしいよね?。そういうのは『研修』じゃなくてただの『野放し』って言うんじゃないかな。
あれこれ口煩くはしなくても、干渉はしなくても、少なくともちゃんと見守ってないとおかしい気がする。だってしっかり見守ってないと、何か間違たことをして誰かに迷惑を掛けてもすぐに対処できないよね?。
『信頼する』ことと『放任する』ことは違うと僕は思う。
もちろん、いつでもどこでもついていくわけにはいかなくても、ついていけない時にはそれこそ『覚悟』しなくちゃダメな気がするんだ。
沙奈子たちの方も、信頼してもらいたいなら信頼に値する振る舞いをしなくちゃいけないはずなんだ。信頼してもらえる振る舞いができるように自分を律することができるようになるのが今の時期なんじゃないかな。それを僕たちはしっかりと見届ける。自分で自分に対して責任を負えるのかどうかを、見せてほしい。
だけど沙奈子たちはもう、
『他の誰が交通ルールを無視してたって自分たちは自分たちを守るためにこそ交通ルールを蔑ろにしない』
っていうのは身に付いてきてる。そう。交通ルールを守るのは、自分自身を守るため。それを、他の誰かの、
『ルールに縛られない自分、カッコいい!』
とかいう自己満足に引っ張られない自我を持つことで実現するんだ。
交通ルールを無視して事故を起こせば、たとえ相手が自動車であっても、相応の過失責任を問われることもあるし、今ではドライブレコーダーとかもあって、歩行者や自転車側の言い分だけが通るわけじゃない。過失責任を問われればその分だけ補償が減らされることだってあるんじゃないの?。




