二千八十三 役童編 「苦しんでる人がいるのに」
三月十一日。金曜日。晴れ。
沙奈子たちが通う学校では、もう、通常授業はしていないそうだ。だから、学校に置いてある教科書をはじめとした諸々の物品を持ち帰ってきてた。そして、卒業式の予行演習も繰り返されてる。加えて、『総合学習』という、一般的な教科では行わないいろんなことについて学ぶためのカリキュラムがある。今日もそれはあって、内容は当然のように『東日本大震災』についてだった。一月にはもちろん、『阪神淡路大震災』についての内容もあった。
ただ、『阪神淡路大震災』については、高速道路が倒壊してる映像とかは確かにインパクトがあっただろうけど、沙奈子が生まれる前のことだから、さすがにピンとこないそうだ。でも、『東日本大震災』の方は、彼女が四歳の時に起こったそれで、地震そのもののことについてはまったく記憶もないけど、彼女の実の父親と女性がテレビを見ながら、
「すげー!」
「映画みたい!」
と笑いながら声を上げていたのをうっすら覚えているそうだ。普通は四歳とかの頃についてなんてあまり覚えていないものかもしれないとしても、沙奈子にとってはすごく印象深かったのか、おぼろげながらでも頭に残ってしまっているのかもしれない。
「すごく、嫌な感じだった気がする……」
とも。
そうだね。たぶん沙奈子が覚えているのは、津波の映像がテレビに流れていた時のことなんだろう。それを見て、沙奈子の実の父親である僕の兄はきっと、映画でも見てるような気分で笑ってたんだと思う。あの人らしい話だよ。
僕だって、正直な話、『阪神淡路大震災』の時も『東日本大震災』の時も他人事みたいに思ってたから兄のことを批判はできないけど、ただ、子供の前で見せる態度じゃなかったというのはすごく感じる。たくさんの人が苦しんでる様子を娯楽みたいにして楽しんでるなんて。
もちろん、ドラマとか映画とかについては、ただの作り物だからそれはいいんだ。だけど作り物と現実とを混同して、本当にそこに苦しんでる人がいるのに笑ってるような親の姿を見て、子供はそこから何を学ぶんだろう?。誰かの苦しみを『娯楽』として楽しむ感性を育てることになるんじゃないのかな?。
だからといって『自粛しろ!』『被害者の気持ちを考えろ!』とか声高に叫んで何でもかんでも自粛自粛というのも違うとは思うけど、だからって『笑う』、いや、『嗤う』というのはやっぱり違うと思うんだ。僕は親としてそういうことも考えなきゃいけないと思ってる。考えたくないなら好きにしてもいいだろうけど、そういう人らが『努力』を口にしても空々しいとしか感じないな。




