二千二十四 玲緒奈編 「それの何がおかしいの?」
一月十一日。火曜日。雨。
今日、アメリカで、遺伝子制御した豚の心臓を移植したという人のニュースが流れてた。
それに対して、
『気持ち悪い』
『そうまでして生きたくない』
『心臓を使うために殺される豚の気持ちを考えろ』
という意見があるみたいだけど、僕はそうは思わない。だって、『生きる』ということはそもそも『他の命をいただく』ということだからね。豚の肉を食べて自分の体に取り込むのとでは気分的に違うんだとしても、もし、沙奈子や玲緒奈や絵里奈や玲那が、豚の心臓を移植することでしか生きられないというのなら、僕はそれを受け入れるよ。もちろんそれ以外の方法があるのならそちらを選ぶとは思うけどね。
『そうまでして生きたいか?』
と言えば、沙奈子や玲緒奈や絵里奈や玲那のためにならそうまでしてでも生きたいし、生きていてほしいと思う。
結局、人間だけなんじゃないの?。『そうまでして生きたいか?』なんてことを考える生き物って。他の動物で、人間が助けようとしてるのに力を借りようとせずに死んでしまうのもいたりすることもあるかもしれないけど、それは単に信用されてないからじゃないの?。『殺される』『食われる』って思われてるから抵抗したりするんじゃないの?。餌を食べようとしなかったりするのだって、餌だと思われてないだけじゃないの?。
そうやって単に信用されてないだけなのを、『野生のプライド』とか、人間の方が勝手にドラマチックに解釈してるだけじゃないのかなとしか感じない。
だけどたぶん、沙奈子が来る前の僕だったら、
『そうまでして生きたくない。豚の心臓を移植するなんて気持ち悪い』
と思ってたかもしれない。いや、たぶん思ってただろうな。だってあの頃の僕には、そこまで生きることに対して執着もなかったから。
『そんなに生きてることが大事か!?』
って?。大事だよ。沙奈子にも玲緒奈にも絵里奈にも玲那にも生きててほしい。死んでほしくない。それと同時に、家族を悲しませたくないから僕自身も生きなきゃって思う。
何にも難しい話じゃない。それだけのことなんだ。生きててほしい。悲しませたくない。
それの何がおかしいの?。
いろんな考え方があって当然だから『豚の心臓の移植なんて受けたくない』と考える人がいてもそれを批判するつもりはないけど、だからといって他人から見えるところで『気持ち悪い』だなんて、どういうつもりなんだろう?。
『言いたいことが言えない世の中なんておかしい』
って言うかもだけど、それと、
『どんな言い方をしてもいい』
っていうのとは全く別の話じゃないの?。




