第3話 甘い朝
ひんやりと冷たい朝の空気が肺を冷やす。
隣の温もりがごそごそと動いて離れていく気配に少し寂しさを覚えて、探すように手を伸ばした。
「ん?起こしたか?」
穏やかな声が降ってきてぼんやりとした思考のまま薄く目を開ける。
はしっと右往左往する手を掴まれて「ここだ」と肌に熱が触れた。
「ん……?」
「寝ぼけているのか」
漫然と瞬きを繰り返すと霞がかった視界が明瞭になっていく。
「ふっ、可愛いな……」
愛しいものを見る優しい目で見下ろされ、しみじみと言われた言葉にここは夢なのだと思えた。でなければ彼の口から「可愛い」なんて聞けないだろう。
「ふふ、アル。好き」
温かい手を引き寄せると、何をするか分からないのに私の自由にさせてくれる。
ちゅ、と指先に口付ければ、困ったように笑った顔がゆっくり近づきギシ、と音がしてベッドが軋んだ。アルフレッドはベッドに腰かけたまま私の顔の近くについた腕を曲げて私を覗き込んだ。
「俺が好きか?」
トクトクと心臓が動いている音に合わせて振動が体を伝った。
「うん、好き……」
震える声で小さく言うと、何かを堪えるような顔をして「俺もだ。リゼ」と言ったアルフレッドはその薄い唇を私の額に当てた。しっとりとした感触に、ふわふわと微睡んだ私は、仕事の準備で部屋を出ていく後姿を忽然と見送っていた。
ふと、ドアの向こうからカタカタと音が聞こえて、爽やかな匂いが鼻を掠めハッと身を起こした。なんだか幸せな夢を見ていた気がする。窓から差し込む朝日に気づいて、段々と覚醒してきた頭で、そろそろ帰る準備をしなくてはと思い始めた。
ガチャ、とドアの開いた音に振り向けば、アルフレッドは既に騎士服を着ており、いつもの彼らしいムッとした表情をしていた。
「今日は……休みだったな。どうする?」
どうするとは、帰るかどうかを聞かれているのだろうか。
いや、さすがにこれは帰るだろう。いつまでも彼の家に居座るなんてさすがに迷惑すぎる。それに私は、家主のいない部屋で、平気でくつろげるほど神経が太くない。
「アルフレッドさんと一緒に出ます」
ベッドから足を下ろしてそう答えると、彼は固く引き結んでいた口を開いた。
「また……そうか」
何かを言いたげにした表情は、少し悩んでからぽそ、と呟いて私へゆっくり歩み寄った。
「リゼ」
静かに彼の行動を見ていた私へ、彼は私の愛称を呼びながら手を差し出す。
ただ自分の名前を呼ばれただけなのに、甘い。煮詰めた砂糖を浴びている気分だ。そろそろと差し出された手に自分の手を重ねれば、きゅっと指先を軽く摘ままれて優しく引き寄せられる。彼の腕に囲われたような体勢にどうしようもなく胸が高鳴る。
「もう、アルと呼ばないのか?」
「へ?」
まって、私がいつ彼を「アル」と呼んだのだろう?
覚えがなくて困惑していると、アルフレッドは少し怒ったような顔をして「アルと呼べ」と言う。
「え……あ、アル?」
「ん。そうだ、リゼ」
何故だか満足そうに頷かれて首を傾げると、そのまま「朝食は?」と聞かれる。
いつもは食べないのだが、わがままを言う機会だと思い出した私は、アルフレッドの首に腕を回す。
「アルと同じものがいい」
仕事前に用意しろなんて面倒なお願い、さすがに優しい彼も嫌気がさすのでは?なんて思っていた私は、アルフレッドの「ああ、分かった」という言葉に「え?」と返してしまう。
困惑しているうちに、腰を強く引き寄せられてふわりと足が浮いた。急な浮遊感に「わぁっ」だなんて可愛くない悲鳴をあげれば、彼の腕が私の体を支えて歩き出す。少しだけ高くなった目線にびくりと震えると、大きな手が私を落ち着けるように撫でる。
「安心しろ。落とさない」
彼がそんなミスをするなんて思っていない。ただ、この甘い態度に戸惑っているだけなのだ。
彼に運ばれてそっと椅子におろされると、テーブルには既にパンやフルーツなどが準備されていて驚いた。私が呆然としているうちに、湯気が立ち上るスープが差し出される。
「どうした?気に入らないか?」
「いえっ!ありがとうございます……」
彼の手料理なんて、嬉しいに決まっている。
向かいに座ったアルフレッドと目が合うと、「食べようか」と声がかけられ緊張しながらスプーンを手にした。
温かいスープは優しい味がして心がポカポカと温められていくようだった。
「うまいか?」
「はい、美味しいです……アル、って料理できたんですね」
短く問いかけられて感想を告げると、アルフレッドが柔らかく目を細めて手元に視線を落とした。
「そうだな。野営などもするから……人に作るのは初めてだが」
少し照れたような仕草にきゅんとして息が詰まった。
朝食を終えると着替えを済ませて帰宅の準備をする。鞄を手にして忘れ物がないかと確認すると、後ろから声を掛けられた。
「送っていく」
「大丈夫ですよ。もう明るいですし」
アルフレッドはこれから仕事なのだ。私に無駄に時間を使ってもらう必要はない。へらっと笑ってそう言うと、彼は顔を顰めたまま背を向けて玄関に向かった。
やっぱり私に対して何も思っていなさそう……。
機嫌の悪そうな顔を思い出して少しだけ気分が沈んだ。
彼の背を追って一緒に家を出ると、冷たい秋の風が私の髪を揺らした。
「さむ……」
思わず呟いて身を縮めると、じっと私を見るブルーグレーの瞳が鋭く細まって、手にしていた彼の匂いがするマフラーをくるくると首に巻かれた。
「え、これ……」
私が慌てて断る前に「いい、風邪をひくぞ。つけておけ」と言われ、冷たくなった手をぎゅっと握りしめた。
「ありがとうございます」
「気にするな。……気をつけて帰れ」
仕事へ向かう彼に、別れ際にそう言われて大丈夫なのに心配性なんだな、と少し呆れた。
家につくと、薄暗い部屋になんだか少し寂しさを覚えて、心に冷たい風が吹いたような気がした。
結局うまくいったか分からない我儘作戦は、これからも続けるべきなのか少しだけ迷ってしまった。




