1章『少年の夏は追われて終わる』:3
「まさか本当に来てくれるとは思わなかったよ」
飛鳥はリビングのテーブルに押し込んでいた椅子を引いて、ウーロン茶を注いだ二つのグラスをテーブルに置いた。
椅子に座ってプリントの束に素早くペンを走らせていた愛が、一旦手を止めて顔を上げた。
「いきなりだったから、驚いた」
相変わらずの無表情と抑揚のない声の愛。そこから彼女が何を思っているかはまるで読み取れないが、さほどこの状況に不満は抱いていないのではないかと飛鳥は予想した。
今回の決め手はレスポンスの速さだ。
掴んだ椅子にどかりと座り込んで、飛鳥は自分の持ってきたウーロン茶に口をつける。ついさっきまで猛暑の屋外にいた分、ただのウーロン茶がやけに美味しく感じた。
結局、愛を捕まえた後で橋を渡ってコンビニなんかに行く気にもならず、飛鳥はそのままUターンをして自宅に帰って来たのだ。冷房をつけっぱなしで外出してしまったのはミスだが、こうして客人を招くことになったのだから結果オーライと言える。
飛鳥はグラスをテーブルに置いて、椅子の足元に山積みにした残りの宿題の中から、歴史のプリントと教科書を引っ張り出した。
先ほどまで自力で頑張っていた数学と違い、こちらは完全な丸写し教科だ。手は疲れるが楽な部類でもある。
果たしてその数学の宿題を押し付けられた愛はというと、恐らく高校生の飛鳥よりもずっと速いペースで流れるようにペンを動かしている。
手元に広げられた教科書など、参考にするどころか一瞥もくれない。これは飛鳥もちょっとびっくりだ。
「お前さ、それ難しくないのか?」
「ん、簡単」
カリカリカリカリカリカリカリカリ、と一瞬たりとも手を休めずに、愛は短く答える。
「そ、そうか…………」
高校1年の課題とはいえ、その大半は中学までで習う数学だけで解けるようなものではない。当の高校生である飛鳥ですらある程度は教科書なりノートなりを見て公式などを確認しながらでないと解けないものを、中学生のはずの愛が迷いなく解いているのだ。
頼んだ当人が驚くのは筋違いではあろうが、飛鳥が『数学得意か』と聞いたのは別に高校数学程度なら全て頭に入っているかなどというぶっ飛んだ意味ではない。
つくづく想像の斜め上を行く愛のポテンシャルの高さに、飛鳥は手を止めてその様子を茫然と眺めてしまう。するとその視線が気になったのか、愛は視線だけをそちらによこした。
「アスカ、手が止まってる」
「っと、わりぃわりぃ。頼んだ当人がサボってちゃ意味無いよな」
無言で頷く愛からのプレッシャーに耐えかねて、飛鳥も目の前に広げた課題に向き合う。
いくら大学に入り浸りとはいえ、愛はあくまでも飛鳥より年下である。そんな相手に自分のできなかった課題を押し付けた挙句、自分は教科書の内容を写すだけの課題をやるという状況の飛鳥。彼にとって、宿題にプライドなど必要ないのだ。
改めて課題に向き合った飛鳥は、広げた教科書と手前のプリントを交互に見ながら空欄にペンを走らせる。やることはただの写しだし、外で全力疾走した後でいい具合に雑念も消えていたのでなかなかいいペースで進んでいる。
残った課題の量と照らし合わせても、今のペースを維持さえできれば一日3時間程度でも夏休みが終わる前に課題は全て片付くだろう。
それに加え、愛の頑張り次第ではもっと余裕ができるかもしれない。
数学一つを投げただけで明確に終わりが見えてきたことに、飛鳥のモチベーションもぐんと上がる。
こんなことなら最初から真面目にやっていればよかったとも思うが、そんなのは毎年のことなので考えるのは止めた。
飛鳥は滑るように軽快な自分のペン捌きに自己満足の笑みを浮かべる。あまり考えなくても手が動き始めてきたのを感じて、隣で彼の課題をやっている愛に声をかけた。
「そういえば愛、お前はあんなところで何やってたんだ?」
「……あんなところ?」
少し思案して、顔を上げずに訊き返した愛。同様に視線を課題と教科書に向けたまま飛鳥は再度尋ねる。
「ほら、橋のところにいただろ? 買い物だったらこっちまで来ることないじゃんか」
「……買い物は、よくこっちに来る。地元は大きなお店もないし……あとはスーパーで、特売のときとか」
「主婦か」
「……………………」
明らかに余計な発言は、問答無用の無視で返されてしまった。不用意だったかなと、飛鳥は軽く反省する。
「ま、まぁ、つまり今日こっちにいたのはスーパーの特売があったからってことか? 確か俺がアメリカ行く前のときもこっち側にいたよな、あれもか」
「……今日は、違う。あのときも」
自分で言い出しておいて自分で否定する愛に、飛鳥は思わず手を止めて顔を上げた。
「え? じゃあ、なにしてたんだ?」
「……、……散歩」
愛は一瞬言葉に詰まりながらも、短くそう答える。飛鳥はそのとき愛の手が完全に止まっていたことには気付かず、やや呆れた表情を浮かべる。
「このクソ暑い中か? お前やべぇな」
「…………なら、飛鳥は何してたの?」
「え、俺は…………………………………………散歩?」
「ふ~ん……………………」
「いや、うん、俺が悪かった。だから止めてくれ、ジト目で見るのは止めてくれ」
じっっとぉぉぉぉぉぉ~~~~~、と尋常ではない負のオーラを視線に乗せて集中照射してくる愛から、飛鳥は2秒で目をそらす。
しばらくして、両手を上げて降参の意を示す飛鳥から愛がやっと視線を外した。冷房の強度では説明のつかない冷や汗を盛大にかいた飛鳥は、Tシャツの袖口でそれを拭う。
「でもさ、俺はそれこそ地元だからまだわかるだろうけど、愛はわざわざ電車乗ってこっちまで来てるのか? 鞍馬大学の辺りなら3駅ぐらいだったと思うけど、徒歩で来るような距離でもないだろ」
特売でこっちに来るのにしてもそうだが、そこまでの移動に電車を使っている時点であまり意味が無いように思う。電車だってただではないのだし。
買いだめするのならさほど問題もないのだろうか。しかしそれにしたって散歩をするために電車で移動というのもなかなか特殊なものだ。
「私は定期、持ってるから。星印学園の研究所との連絡は、私が直接することが多い」
「ああ、それの関係でか。じゃあこっちに来るのに金は掛からないってことね。……でもさ、それ抜きにしても散歩でこっちなんかくるもんか?」
「……向こうはうるさいから、車とか」
「あー、なんだ、俺と似たような感じか」
飛鳥はペラペラと教科書をめくりながら、ほとんど無意識にそんなことを言う。頬にシャーペンのキャップを押し当てて問題の答えを考えていた愛が、ふとその視線を上げた。
「飛鳥も……?」
「ん……。まぁほら、俺もよく散歩ぐらいはするんだけど、どうにも商店街の向こう側に行く気にはなれなくてさ。うるさいっつーのもあるし、あわただしいっつーのもあるし。なんか気にいらないんだよ」
「前に言ってたことと、同じ理由?」
前と言うと、アメリカへ行く前の辺りで愛の買い物に付き合っていた時のことだろうか。愛の言う理由というのはおおかた、その時に飛鳥が離した地に足がつかないだとか言う話だろうと飛鳥は適当にあたりをつける。
間違いではないので首肯したが、そこから続くような話題もないので、黙って宿題を再開した。
数秒ほど飛鳥の方を眺めていた愛だったが、飛鳥が特に言及する様子も見せなかったので、すぐに彼の課題の手伝いに戻る。
冷房が生む風の音と黒鉛が紙の表面に削り取られる音、あとは二人の身じろぎと時計が秒を刻む音だけが部屋に響いていた。
20分ほど宿題に集中し、プリント1枚と時代1つを終わらせたところで、一旦ペンを置いて大きく伸びをした。冷たさを保ったままのウーロン茶を一口だけ喉に流しこむ。
手を組んで指をパキパキと鳴らしたあと、再度テーブル上のペンに手を伸ばす。
「そういやさ、こうやって宿題手伝ってもらってるわけだけど、愛の方はもうそういうのは終わってるのか?」
「ん……。ずっと前に、終わらせてる」
「ずっと前って、今月の頭とか?」
「7月22日」
「それ夏休み始まってすぐじゃないか」
「違う。夏休み開始の、前日」
「どういうこったよ……」
思わず呆れた表情を浮かべてしまう飛鳥だったが、確かに宿題を夏休みやら冬休みやらが始まる前に全て終わらせているような人間がいることは知っている。
例えば隼斗なんかはそういうタイプだろうが、飛鳥には愛はそれほど真面目なタイプには見えない。勝手なイメージを抱いていたことを少し反省しつつ、教科書に視線を戻した。
「ほんと終わらせるの早いな。簡単だったからとかそういう理由か?」
「わからない。学校の勉強、難しいと思ったことないから」
「難しいと思ったことがない、ねぇ。じゃあ…………そのときの著者の気持ちを答えろ、とかどうよ?」
「あれは問題として、成立してない」
飛鳥の意地悪な質問に、愛は不機嫌な声音で答えた。視線は数学の課題に固定されたままだが、注意すれば少し頬を膨らませているのが見てとれた。
「お前あれだ、ガチガチの理系だろ」
「…………飛鳥は?」
「……俺も割と理系気味かな、っと」
どこかとぼけた様子で答える飛鳥。嘘は言っていないが、だからこそ愛の目の前のそれは一体何だと言うことになる。
「……………………」
愛も同じ疑問に行きついたのか、手を止めて課題と飛鳥を交互に見つめていた。そこには若干ながら先ほどのジト目が戻っているのが伺えた。
目は口ほどに物を言うというのが比喩では無いかのように、飛鳥はうるさそうに顔をしかめた。
「いやほら、きっとそれとこれとは話が別なんだよ」
「……どうして?」
「根拠なぞ無い!」
言い訳さえも放棄した飛鳥は、自分が高校生で愛は中学生という根本的な現実から全身全霊をもって目をそらす。
この年上の、プライドの欠片も感じられないあんまりなリアクションに、愛は珍しく呆れたようなため息をつく。飛鳥はそれは聞こえないふりをしつつも、こっそりと肩をすくめた。
「ま、まぁ今回はアーク研究でアメリカ行ってたのもあるし、時間的に余裕がなくてさ」
それでもそもそも数学という教科を愛に押し付けて自分は教科書を写すだけの課題をやっているという状況はおかしいのだが、飛鳥はあえてそれには触れない。
「それが無かったら、もう終わってたの?」
「……さあ? でも手つかずってレベルでは無かったぞ、たぶん。…………昔は、たしか小学生ぐらいまでは真面目にやって早めに済ませてたはずなんだけどなぁ。中学あたりからサボりがちになってら。愛はどうなんだ? 昔から宿題とかは長期休みが始まる前に終わらせてたのか?」
「私は、ずっとこんな感じ。はっきりは思い出せないけど、小学生のころからそうだったと思う」
「ふーん、真面目なんだな」
自分から訊いておいて、飛鳥はいやに気の無い返事をする。話をそらしてお茶を濁すほうが本命で、さして興味もない話題だったのが理由だ。
しかし、今度は愛が食いついた。
「でも、飛鳥が真面目だった時のこと、気になる。小学生の時、飛鳥はどんなだったの?」
「どんなっつーか……。なんて言えばいいんだろうな。つっても、そんなに今と変わりなかったと思う。……ああ、前言った感じで人の顔色はかなり窺ってたかな。今はそこらへん結構マシになってるから、変わったところではあると思う」
「……やっぱり、そういうのは?」
「まぁ嫌だな、情けないというか惨めったらしいし。よく言えば処世術ではあったけど、そんなん気にしてる小学生ってどうよ? つか年齢は無視しても、相手の顔色ばかりうかがって態度を変える奴ってどう思う。俺は嫌いだぞ」
一瞬の迷いもなく過去の自分を『嫌いだ』で片付けてしまう飛鳥に、愛は戸惑いの表情を浮かべる。
自己の評価がやや厳しく、特に幼かった頃のことであろうとも、今この瞬間の自分の価値観でそれを評価してしまうのは彼の特徴かもしれない。まるで何でもないことのように答える飛鳥ではあったが、その口調からは冗談の類を言っている様子はうかがえなかった。
「どう、かな。よくわからない……。でも、それは役に立たなかったの?」
ただの自虐とは思えない彼の言葉の圧力に、愛は答えに詰まってしまう。とっさに話をそらそうとして、話題自体は変わらないという少しの失敗をしてしまう。
飛鳥はペラペラと教科書をめくる手を止め、世界の過去に向けていた意識を自分のそれへと向け直す。ややあって、テーブルに肘をついた飛鳥は不満げに息を吐いた。
「……確かに、役に立ってはいたよ。あんときはそういう自分のクセを理解してたとは思えないし、わざわざ嫌いだと感じてはいなかっただろうしな。あとは転校させられそうになってたやつの事情に気付いてやれたりとかもあったか……」
「……転校の、事情?」
「ああ、クラスの女子がさ、家の都合に転校させられそうになってた時があったんだ。……つか、これはまぁ俺も最近になって思い出したことなんだけどな」
飛鳥が語るのは、今日の昼からの勉強中のうたたねの間に見ていた夢の記憶だ。妙に頭にこびりついていたからか、話題として真っ先に上がってしまった。
「……どういうこと?」
数学の課題を解きながら、視線すら寄こさずに尋ねる愛。飛鳥もあまり深く考えてまたドツボに嵌まってはまずいと考え、敢えて目の前の課題に集中しつつ適当に答える。
「んー、まぁ文字通り家庭の事情だよ。立ち入った話になるから詳細は省くけどな。――――当人は転校したくなかったみたいで、でも周りに心配かけたくなかったのか転校に関することは何も言わなかったんだよ。けど当時の俺は人の顔色ばっか見てたわけだから、ふとした拍子に見せる表情でなんとなく勘づくことができたってわけ」
かりかりかりかり、と滑らかにペンを走らせる。
「つっても気づくことができただけで、それ以上はな……。転校自体無くしてやるって息巻いてはいたけど、俺に出来たのはそれを一カ月遅らせたことだけだったよ。顔色伺うのも役に立たなかったって言うと嘘になるけど、結果に繋がらなかった以上は無くてもいい能力だろ、そんなの。小器用にやるぐらいなら、道理ぶち抜けるぐらい何かしらの力があったほうが良かったとは今でも思う」
「そう、なんだ……」
「今はどうしてんだろ……。またぞろ引っ越しでもしてない限りは中国にいると思うけど、連絡なんて取ってないしよくわからないな。他のクラスメイトは何人か連絡取ってたらしいけど」
無表情にそっけなく答える飛鳥の横顔からは、何を思っているのかはまるで窺えない。
逆にその表情から何かを感じ取ったのか、愛もそれ以上は追及しなかった。だが当の飛鳥が、ふと顎に手を当てて小さな声で呟く。
「けどそういや仲の良かった女子たちには、転校の少し前にはそれの話はあったってのも聞いたことがあるから、そうすると心配かけるとかってのは理由じゃなかったのかな……。普通に見栄張ってたってだけかも、確かクラスで一番目立つ女子グループと一緒にいたはずだし」
「…………そう。詳しいんだ」
「まあな、何かとよく関わってたんだ。それに学年でもずば抜けて可愛かったし、そのせいでやたらと目立つ奴でもあったから。……本人は目立つの嫌がってたんだったっけか、その辺のところあの時の俺と同じだったな」
無言で手だけを動かす愛と、どこか懐かしげに過去を語りながらの飛鳥。どこか噛み合わない雰囲気が漂っていることに、しかし飛鳥は気付かない。
「泉美は単純にいい奴だったけど、それ以上に気が合ったんだよ。他人の都合にあれだけマジになったのには、そういう理由もあったと思う」
かりかりかりかり、淀みなく空欄を埋めるペン先が一つ。そしていつの間にかその動きを止めていたペン先がまた一つ。
「泉美は割と男女関係なく顔が広かったし、俺も結構話はしてた記憶がある。それで他の誰にも転校の事を気取らせなかったのはよく考えたら結構凄いことかもな。まぁそれぐらい器用で、優しい奴だったんだと思うよ。その分、あいつの転校の件に関してはデカイ口叩くだけの結果は出したかったな。無理してたのは分かってたし、できることなら力になってやりたかったけど――――」
ガタッという音が、飛鳥の言葉を遮るように部屋に鳴り響いた。
「……愛?」
「………………………………」
ペンを置いて無言で椅子から立ち上がった愛は、眼前で不思議そうな表情を浮かべる飛鳥には一瞥もくれずにいきなり玄関の方に向けてスタスタと足を進めていく。
「えっ、ちょ、どうしたんだよ、愛。何かあったのか?」
困惑した表情でその後を追う飛鳥だったが、愛は決してそちらを振り向くことは無かった。
「急用を思い出したから、返る」
「へ? 急用?」
思わず間抜けな表情を浮かべた飛鳥の目の前で、内側から押し開けられたドアがひとりでにその口を閉じる。
途端に静かになった部屋に、茫然とした様子の飛鳥一人だけが取り残されてしまう。
「……どういうこった?」
――二人が離れたテーブルの上には、最後の一つまで片付けられた数学の課題が置かれていた。




