1章『真夏の訪れ』:1
「あり?」
どこにでもいそうで、しかしちょっと特殊な高校生である星野飛鳥は自室で一人、古びた小さなスケートボードを片手に首をかしげていた。
外出の予定はないからか寝ぐせで少しボサついたままの黒髪と、それに反して多少の生気は感じられる細めの目をした少年で、今は部屋着である白地に袖口の赤いTシャツを着て通気性のいいシルバーのジャージを履いていた。
ここはどこだ? と疑問に思って辺りを見渡すと、自分のベッドが目に映った。要するに自室である。
「白昼夢とか……、初めて見たぞこんなもん」
若干混乱気味の頭を振り、飛鳥は脳みそのもやを払おうと勢いよく立ちあがろうとして――
ゴンッ!!
「いっでぇぇ!?」
頭頂部をしたたかにぶつけてその場にうずくまった。
どうやら自室の勉強机の下に潜り込んでいたらしく、立ち上がる際に頭を天板の裏に激突させてしまったのだ。足の小指を箪笥の角にぶつけたときほどではないにしろ、あるある系の事故としてはかなり痛い部類である。事実頭を押さえた飛鳥は、情けなくも目の端に涙さえ浮かべていた。
「あぅぅ、めまいがする……。つか誰だよこんなところに机置いたのは! って最初からあったよわかってるよ……」
夏の風が吹き込む狭い部屋では、そんなノリツッコミもむなしく響くばかり。とたんに大合唱を始めたセミのコーラスにまでバカにされているような気がして、飛鳥はため息一つを伴ってのそのそと机の下からはい出した。
「進んでないなぁ」
机の傍らで立ちあがった飛鳥は、悲壮感に満ちたそんな呟きを放った。
見下ろした部屋は、一言でなら壮絶と表現するのが適当な状態だ。
本棚から本は散乱し、箪笥の中から大量の衣類がはみ出し、ベッドの上の掛け布団やらシーツやらは夏の熱気にやられたように床にどろりと溶け出して、挙句の果てには机の上では教科書やノートが飛鳥の目線の高さに匹敵するほどにまでうずたかく積まれていた。
これを地獄と言わずとしてなんとしよう。
「あー! めんどくさい!!!!」
終わらないそれを目の当たりにして、ついに飛鳥の頭が沸騰した。
空色の壁紙の部屋に、うだるような熱気を蓄えた夏の風が迷い込む。高い太陽に舞台を照らされたセミたちの歌声は、どうにもまだまだ終わりそうにはなかった。
季節の変わり目、模様替え。飛鳥の天敵の一つだ。
「はぁ、とりあえずやりますか……」
はじめてしまったこと自体を悔いながらも、飛鳥はのそのそと床に散乱した物に手を伸ばしていくのだった。
くどいようだが、夏である。
そして約三十分後、案の定というか汗だくになっていた飛鳥は、最後の難関勉強机を目の前にして絶望に打ちひしがれていた。
机の下から取り出されたスケボーと、途中で暑さに負けて脱ぎ捨てた部屋着のTシャツが無造作に投げ出されていること以外、床は綺麗なものだ。しかし、これはあくまでも模様替えである。
机の上にある大量の荷物を何らかの形で処理しなければ、勉強机は動かせない。となると必然、そこの片付けは必須事項となるわけだ。
「勉強なんてしないのに勉強机なんて部屋に置いてるからこんなことになるんだ……。いっそ捨ててやろうか。無理だけど」
過度なストレスに理性の回路が焼き切れたのか、そんな身も蓋もないことをのたまう飛鳥。とはいえ当然ながらそれを実行に移さない辺りに、彼の常識的さと矮小さがにじみ出ていた。
家で勉強をしない人間には分かることだろうが、掃除やら片づけやらをこまめにしないとすぐに勉強机イコール物置の図式が成立してしまう。使っていればむしろ邪魔なものを逐次片付けるので、一切使用しない人間の方がこの状況に陥りやすい。
今更だが、飛鳥は後者だ。
夏休みの宿題はラスト一週間で片付けるタイプの彼は、日々の勉強などは皆無な生活を送っている。そんな彼からすれば勉強机など部屋の飾り程度でしかないわけで、当然それを使って勉強しているかどうかなど聞くまでもない。
それでもってその上は散らかり放題なのだから、なおのこと勉強する気は起きない。勉強しないから机の上は散らかったままで、散らかっているから…………と悪循環に繋がるわけだ。
「というか、な。先週の次点で机が片付いてないのがおかしいと言えばおかしいんだが……」
ちなみに今は7月の中旬、来週の終わりにはみんなが大好きな夏休みが到来する。
そして、星印学園は今時では珍しい3学期制だ。大抵の学校が2学期制となっている昨今、なぜ3学期か。これは、星印学園が部活動を推奨していることに起因する。
ものによるが、2学期制では試験の時期が部活の大会の直前等に重なりやすい。そういった生徒への余計な負担を排除するために、星印学園では3学期制が採用されているのだ。
ところで、3学期制において1学期末のテストは7月上旬であり、現在は7月中旬である。繰り返すが、テストは7月上旬で、現在は7月中旬だ。
そして、飛鳥は今になって机の片付けへと向かっている。
「そりゃまぁ、テスト勉強なんてしませんでしたけど?」
自分のことなのに、飛鳥はあきれ顔でそんなことを呟いた。
あたかも部屋に誰か他の人間がいるかのような語りだが、真実彼の部屋には彼しかいない。熱気に当てられて幻覚でも見えているのかもしれない。
本日は日曜日。定期テストが終わったのは金曜で、土曜日は授業が休みだった。
星印学園におけるテスト休みは実質この日だけで、あとは夏休み開始まで普通に授業がある。ただし先も述べた通り部活動を推奨している関係から、試験終了日から一週間は午前中だけの授業になる。
さて、長々と余計な話が続いたが、一番の疑問であろう飛鳥が模様替えなどをしている理由だ。
「うー、結局こういうの見ると明日からテスト返却ってのを思い出す羽目になるじゃん意味ないし……」
紙の束をさらに山のように積み上げたものを目の当たりにし、飛鳥はがっくりと肩を落とした。
つまるところ現実逃避である。
心情的にはテスト前に部屋の大掃除を始めてしまうことに似ている。それがテスト後に現れているのは少々特殊だが、これに関しては単純にテスト対策を一切しなかったためテスト返却が怖い、というのが理由になる。
もとよりテスト勉強に向けて部屋の大掃除というのは大抵テスト勉強が嫌だ、などという気持ちから来るものだ。そう考えれば、最初から勉強などする気のない彼がそのような行為に及ぶわけがないのも当然だろう。
「あーあ、流石にテスト前くらい勉強してりゃよかった……。今更だけど、あのタイミングでアーク関係のことにマジになってたのはマズかったよなぁ」
エンペラー暴走事件の一週間後には、研究所にあるVRシミュレータのメンテナンスが終わっていた。そこからは学校の先輩でアストラルの元パイロット候補でもある音深一葉という少女の指導を受けながら、ひたすら特訓の毎日だった。
飛鳥も流石にテストが始まる日からは特訓はしていないが、テスト前日まではひたすらシミュレータを使い続けていた。テスト勉強をしなかった理由の主だったものはそれだ。
研究所の他のメンバーも飛鳥と同じような行動をしていたから油断していたが、周りにいるのは皆揃って成績優秀者だった。
生徒会長であるザ・規格外の月見遥をはじめとして、生徒会メンバーかつ1年主席で飛鳥の親友でもある久坂隼斗、苦手科目こそあるものの基本的に真面目で優秀な音深一葉とそうそうたるメンツである。
遥は例外として、皆それなりに日々の積み重ねがある。だからテスト前だからと無理をする必要はなかったのだろうが、飛鳥はそうではなかった。
周りもそうだし大丈夫だろう、との甘い考えで望んだ1学期末試験は大、大、大爆死。正直言って目も当てられない結果だった。
そんなわけで、明日からのテスト返却のことを考えると若干どころでなく憂鬱な飛鳥なのだった。
「今更後悔しても遅いとはいえ、あの時の俺はホントにどうかしてたよ、2週間前からやりなおしたい……。アーク技術か何かで時間まきもどせたりしないかなぁ……、無理だよなぁ……」
相当まいっているのか、先程からひとり言が激しい上にキレがない。
さながら夏の日差しに10分間晒し続けたアイスクリームのような感じで、もうなんというかグッダグダだった。
とはいえ、こうしてうだうだしていてもノートや教科書が勝手に動いて片付いてくれるわけもない。残念ながら2027年7月現在、地球の技術はそこまで進歩していないのである。
カメが歩くよりも遅いスピードで、飛鳥は机の上の本の山の頂点に手を伸ばす。
掴んだのは現在使用中のノート。
「とりあえず今使ってるのはこっちで、使いきった奴をその隣。そんで、もう使わなそうなのはその辺置いときゃいいか。教科書類は教科ごとにまとめておけば十分かな」
3つほどある山の一番高いところ次々に本を取り出していく。
手に取った物が表紙で何かわかった物は即座に、分からないものは中身をぱらぱらとめくって確認すると、すぐに足元に分別しているところに重ねていく。
努めて無心にひたすら手を動かし続けていると、明らかに学校等には関係の無いものが見つかった。
雑誌、それも日本ではマイナーなスポーツを取り上げたものだ。
「これ、だいぶ前の奴だな……。去年のか?」
手にとって、ぱらぱらとページをめくる。ほとんどのページがフルカラーで、ホッケーやらラクロスやらビーチバレーやらと比較的競技人口の少なそうなスポーツの記事ばかりが並んでいた。
そうしてページをめくっていくうち、飛鳥の指がぴたりと止まった。
「っ、これって……」
それはスケートボードについて書かれたページ。見開き1ページにわたってでかでかと貼られた写真に映っているのは、ハーフパイプで一人の少年が華麗にトリックを決めるその瞬間の光景だった。
記事の見出しにはインパクトのある赤色で『アメリカプロスケート界期待の新星!! 圧倒的実力で堂々優勝!』などと書かれていた。
その記事を見た瞬間、飛鳥の頭に先ほど見ていた白昼夢の映像が走馬灯のように駆け抜けた。
「っ……」
めまいのようなものを感じてふらつきながらも、手近なところに置いてあった擦れて色のはげた赤いスケートボードに腰掛ける。
すぐにめまいが収まったのを感じて、再び開いた雑誌に視線を戻す。
文を追うなかで見つけた『アルフレッド=マクスウェル』という名が、いやに頭に響いていた。
「アルフレッド……そうか、プロになってたんだよな」
飛鳥は小さい頃、親の都合でたびたび日本を離れていた。その間いくつかの国に行っていたが、もっとも長い期間生活していたのはアメリカだった。
その中で、飛鳥はスケートというスポーツに出会った。
「…………」
無意識のうちに、飛鳥は指先でボードの表面をなぞっていた。
おそらく、昔の飛鳥が最も本気になっていたのはスケートだった。怪我もいとわずあちこちを走り回っていた飛鳥の記憶は、そのころから数年たった今でもおぼろげながら思いだせる。
アルフレッド=マクスウェルという名は、スケートに関わる中でも一番といっていいほど鮮烈に思いだせる名だ。
飛鳥とほぼ変わらない年齢ながら、既にプロスケーターとして活躍する少年の名。プロになる以前から、小さかった飛鳥がただ憧れていた存在でもある。
文字どおりの天才。下手クソだった自分と違い、大人たちに混じっても見劣りすることのないその凄まじいテクニックは、飛鳥にとって希望の象徴のようなものだった。
彼が空を舞うたび、飛鳥も飛ぶような気持ちになっていた。彼が地を駆けるたび、飛鳥も同じ風を感じていた。それぐらい、飛鳥にとっては大きな意味を持つ少年だった。
そんな彼は、今もプロスケーターとしてその技術を振るっているらしい。
すごいな、と思う反面、何か形容しがたい感情が腹の底にわだかまるのを感じた。無意識に奥歯を噛みしめてしまうような、舌打ちをしてしまうような、そんな感覚。
彼がプロになったと知った時は、素直に凄いなと思えていたはずなのに。
どういうわけか雑誌をその場に投げ捨てたくなって、だから飛鳥は敢えて静かに本をゴミ箱に押し込んだ。
腰かけていたボードをベッドの下に蹴り入れて、飛鳥は窓の外を見た。
角度のせいでほんの少ししか陽光のさしこまない窓の向こうには、整然とした街並みが広がっている。うだるような熱気を湛えながらも、どこか爽やかさを孕んだ夏の街並み。
割り切れない感情を湛えた瞳でそれを眺めながら、飛鳥はぼんやりと呟く。
「そういや、スケートやめたのいつだっけ……」
消え入るようなその言葉は、夏を奏でるセミの声に呑まれて消えた。




