第53話 広報課のシンデレラ①
くぁあと欠伸が口から飛び出す。
部屋に飛び交うのは、キーボードをぱちぱち打つ音と冷房が空気を吐き出す音だけ。
花火の夜から数週間、あの日の出来事が嘘だったかのように平常運転の日々を過ごしていた。
「眠そうだな」
同僚がいつものように口にクッキーを放り込みながら話しかけてくる。
今まで落ち着いていた空間に、ボリボリボリボリという似合わない音が響いた。
周りもいつものことかと何も言わないのが、彼の人柄を表している……表しているか?
こいつも器用なもので、偉い人が来た時は食べなかったりするから、処世術を見習いたいところだ。
「最近俄に残業が増えてきたところに、内勤続きだから眠くもなるって。それに昼飯食った後ってのもあるけど……というかよく飯食った直後にお菓子も食えるよな」
「甘いもの食べるために、お昼はいつも抑え目にしてるからな!」
「糖尿病になるぞ」
「お菓子以外の糖質は制限してるから大丈夫大丈夫」
適当を言いながらも、彼は再びクッキーを口に入れる。
あれでキーボードの上にはこぼさないんだから、すごいスキルだよな。
こんな法務課なんかで契約書いじくってるより、他の仕事が似合うんじゃないか?製菓メーカーの商品開発とか。
「というか聞いてくれよ、最近広報課の千波さんが髪切ったらしいぞ」
どこからそんな話仕入れてくるんだよ……。
もはや誰かから聞いているというより自分で実地調査している可能性すらでてきたな。
いや、俺ら3人とも同期なんだから「らしいぞ」じゃなくて、「髪切った」でいいのに。
「へ、へぇそうなのか」
一応、知らないフリをしておく。
この話題早く終わんねぇかな、どこかでボロが出そうだ。
「あのポニーテールにもファンがいたのになぁ、もったいない」
髪型にすらファンがつくとか、千波……ちなのやつも大変だな。
「まぁ本人にも思うところがあったんじゃないか、最近年々暑くなってるし」
さてさて、千波ちなが髪を切った話なんて、とっくの昔に知っている。
なぜなら、切った翌日にわざわざ呼び出されて見せられたから。「あんたのせいね!」なんて言われた日には、意識が遠のくかと思った。
会社の廊下でなんてこと言うんだ、あの同期は。
それともう一つ、周りに会社の人がいない時には名前で呼べと司令を受けた。なんという辱め。
しかし俺が断れるわけもなく……。
告白というのは、した人間が強い。された側は選択を押し付けられて心が削れるのだ。
そうやって削って削ってダイヤモンドみたいに磨いた人間は、さぞかし他人から美しく映るのだろう。自分も魅せられたうちの一人だからよくわかる。
久しく忘れていた感覚だ。人を好きになるというのは苦しくて怖くて、蜜のように甘い。人類史上この感情に抗えた人間がいないのも納得だ。
「そういうもんか、俺たちにはわからないよな〜」
「何しれっと俺を同類にしてるんだ」
「お、じゃあ千波さんのこと知ってるのか?」
「……知らんな」
こう言わざるを得ない。
なんだこの社会とかいうコミュニティ、生きづらすぎるだろ。
話はここで終わり、俺たちはまた契約書の海へと身体を沈めた。
◆ ◇ ◆ ◇
なんとか人道的な時間に退勤。
夜の一般家庭は既に晩ご飯を終えている時間だが、スーパーや居酒屋が開いている時間ならば、一応退勤成功と言えるだろう。
ちなみに終電がなくなってタクシーで帰るか、駅前のビジネスホテルに泊まるしかなくなった時は退勤失敗である。
深夜料金タクシーで帰るよりも、近くのホテルに泊まった方が金銭的にも時間的にも肉体的にも楽なの、社会のバグだろ。
……そもそも残業がバグだが。
そんなどうしようもないことを考えながら、会社から脱出するべくエレベーターホールへ向かうと、きらりと光るものが目に入った。
近寄って拾い上げると、見覚えのあるキーホルダー。
廊下の天井から放たれる無機質な光を受けて反射したそれは、鈍く青色に輝いた。
第4幕、開始です。




